大坂城は、上町台地の北端に位置し、かつてはこの地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れ
る天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。元々古墳時
代の古墳があったと言われ、戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、
1580年に石山合戦で焼失した。石山合戦終了後、織田信長の命令で丹羽長秀に預けられ、
後に四国攻めを準備していた津田信澄が布陣したこともあったが、信澄は本能寺の変の際に、
丹羽長秀に討たれた。その後、清州会議で池田恒興に与えられるも、ただちに美濃へ国替えと
なり、豊臣秀吉によって領有されました。そして秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城
および豊臣政権の本拠地となったが、大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに焼失した。徳川政権
は豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改め再建した。その後、幕府の近
畿地方、および西日本支配の拠点となりました。姫路城、熊本城と共に日本三名城の一つに数
えられています。
犬山城は豊臣秀吉が生まれた1537年、織田信長の叔父である織田信康によって創建された、
現存する日本最古の木造天守閣です。尾張と美濃の国境に位置するため、戦国時代を通じて国
盗りの要所となり、城主はめまぐるしく変わりました。小牧・長久手の合戦では、羽柴秀吉
(後の豊臣秀吉)が12万人の大軍を率いてこの城に入城し、小牧山城に陣取る徳川家康と
生涯唯一の直接対決をしました。
松山市の中央、標高132mの勝山山頂に本丸があり、裾野に二之丸、三之丸がある日本有数の
平山城です。天守は日本で最後の完全な城郭建築と言われており、最上階からは360度眺望が
ひらけ、松山平野や瀬戸内海などを見渡すことができます。日本に現存する江戸期以前に建築さ
れた12天守の1つであり、21棟の建造物が国の重要文化財に指定されています。
関ヶ原の戦いでの戦功により伊予半国20万石を領した藤堂高虎が、瀬戸内海に面した海岸に
築いた大規模な平城です。別名吹揚城ともいいます。1602年に築城を始め、建造物も含め
て完成したのは1609年頃と推測されます。海水が引かれた広大な掘や港(舟入)などを備
えた日本屈指の海城でした。1635年より松平(久松)氏の居城となりました。
1622年水野勝成が備後10万石の領主となって築いたお城です。伏見櫓、筋鉄御門は共
に国の重要文化財となっています。天守閣の内部は、歴代藩主の遺跡や資料のほか、考古・
歴史資料などを収蔵・展示する博物館として公開されています。
別名「玉藻城」は、万葉集で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因み、
高松城周辺の海域が玉藻の浦と呼ばれていたことに由来するとされています。高松城は、豊
臣秀吉の四国制圧の後、1587年讃岐1国の領主となった生駒親正によって、「野原」と
呼ばれた港町に築かれた。現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12
万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものだそうです。
築城400年を誇る丸亀のシンボル「丸亀城」は、全国に現存する『木造天守十二城』の一
つです。内堀から天守にかけて積み重ねられた石垣は、”扇の勾配”と呼ばれる特長的で見
事な曲線を描いています。この白亜の二重三層の独立式木造天守は重要文化財に指定されて
いるそうです。
最近、お城巡りを趣味にしましたが、しばらく最近登城したお城を紹介します。
郷土の英雄・織田信長公が天下布武への足がかりとした城として名高い城です。平成元年に
築城され、五条川にかかる朱塗りの大手橋とともに、清須市のシンボルとなっています。趣
向を凝らした展示物で清須の歴史に触れることができます。土日、祝日は武将や姫に扮した
スタッフによる紙芝居などのおもてなしを行っています。
墨俣城は薄墨桜ウォーキングのチェックポイントでもあり、良く訪れています。
築城時期は不明です。長良川西岸の洲股(墨俣)の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代
以前からしばしば合戦の舞台となっていました。斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を
務めました。また、1561年ごろ織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(後の
豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられています。これがいわゆる墨俣
一夜城ですが、不明な点が多く、様々な議論があります。
岐阜城は何度か訪れていますが、写真は岐阜清流マラソンの受付時に撮りました。
岐阜県岐阜市(旧・美濃国井之口)の金華山(稲葉山)にある山城跡です。織田信長が、斎
藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したものが岐阜城です。城跡
は岐阜城跡として国の史跡に指定されています。
水の都、大垣にJRで行ったときに大垣城を散策しました。
宮川氏築城当時は、牛屋川を外堀の代わりに利用し本丸と二ノ丸のみであったそうです。氏
家氏、伊藤氏によって改築が加えられたとされ、1613年には石川忠親によって総堀が加
えられ、松平忠良が天守を改修しました。その後1649年に 戸田氏鉄によって明治に至る
姿とされています。
浜松に遊びに行ったときに掛川城へ立ち寄りました。
戦国時代には東海道を扼する遠江国東部の中心拠点として掛川はしばしば争奪戦の舞台とな
ったそうです。朝比奈氏によって逆川の北沿岸にある龍頭山に築かれたとされ、現在見られ
る城郭の構造の基本的な部分は安土桃山時代に同地に入封した山内一豊によるものです。
3月31日(月)は大河ドラマ「軍師官兵衛」で話題になっている長浜城にJRを乗り継いで
行って来ました。
長浜はランニング大会で何度も訪れて、黒壁スクエアなどは観光しましたが長浜城がしっかり
見学したことがなかったので晴天の中、楽しい時間を過ごしました。風は強かったですが。
長浜城は滋賀県長浜市にあった平城です。羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築き、初めて城持ちの武将
となった城で有名です。琵琶湖にせり出した水城で、城内から水門を通じて琵琶湖に舟の出入
りができるようになっていたそうです。
3月3日(月)は三重県にある亀山城に行ってきました。
天守台と言われる本丸高石垣上にあり、寛永9年(1632)頃に築造されたとみられる。
三重県で唯一現存する城郭建造物として県史跡に指定されている、旧亀山城多聞楼を見て
きましたが少し期待外れでした。
東海道46番目の宿場町である亀山宿を歩いてみました。東の端・露心庵跡から西の端・
京口門跡まで、約2.5kmが 亀山宿で、歌川広重「保永堂版東海道五十三次雪晴」で、
「亀山に過ぎたるもの」とうたわれるほど豪華だった京口門を描いたそうです。