先代の会長、社長として千島土地を支えた芝川又彦(大正10年生)と芝川(旧姓・伊藤)敦(大正11年生)。1歳違いの両者は、太平洋戦争只中に大学を卒業後、戦争に巻き込まれていきます。生前のお二人から伺った戦争にまつわる回想をまとめ、ここにご紹介いたします。
なお、これらはヒヤリング等の内容を基に作成しており、一部、事実確認が不十分な点がありますことを予めご了承下さい。本件に関して間違い等がございましたら、ご教示いただけますと幸いです。
*
芝川又彦(千島土地株式会社所蔵資料P69_078(上)、P69_079(下))
海軍航空隊入隊に際して西宮甲東園にて撮影したものか。
家族と共に(同P69_077)
父母(芝川又四郎・竹)、姉(百合子)とその子供達と。
芝川又彦は、昭和18年秋に神戸商業大学(現・神戸大学)を半年繰り上げで卒業し(*)、海軍の航空隊に入隊。家族は入隊に反対したが、既に日本の敗戦を予想していた又彦は、「一億玉砕と言われる中で、兵士と国民、どちらが長生きするかはわからない。」と思っていたといいます。
入隊後は3か月の基礎訓練を経て、年明けから6か月間、飛行機の実地訓練を行い(*2)、6月から青島航空隊の教育部隊に教官として配置されました。(*3)
当時の青島航空隊は、中華航空(*4)の飛行場を間借りしており、宿舎はカネボウ(鐘淵紡績㈱)の女子寮を借りて徐々に設備を整えていく状態だったといいます。
戦時中のエピソードのひとつは、大村(長崎県)の海軍航空廠に魚雷を受け取りに行った時のこと。
魚雷は重量があるため十分な燃料を積むことができず、京城で燃料補給する必要がありました。しかしながら操縦者の技術が未熟で、着陸の際、魚雷の重さで機体がぐっと沈んだところでエンジンを噴かしてしまいます。結果、滑走路の長さが足りず、前方の牧場に突っ込みそうになりハンドルを切ったところ、慣性の法則で直進しようとする飛行機胴体と、曲がろうとする脚部が分解してしまいました。
飛行機が壊れてしまったため、青島に迎えを要請しますが、「けしからん!そのような者に迎えの飛行機が出せるか!」と叱られ、魚雷は仁川から船で運び、又彦は操縦士と二人、奉天から北京、済南、青島と3日3晩かけて汽車で戻る羽目になったといいます。
さて、又彦は海軍が開発した電波探知機の講習を受けることを命じられ、横須賀に向かいます。昭和20年4月に講習を終えて青島へ戻ると、既に特攻隊の編成が終わっていました。特攻隊員とならずに現地に残った者は、爆撃の際に逃げ込む穴を山で掘るなどしながら、ここで敵の本土進攻を食い止める心積もりでいたといいます。
しかしながら8月に終戦。降伏を予期していなかった又彦は、俄かに信じられない思いでした。
青島は食料も豊富で、鉄鉱石も採れ、匪賊の出没はあれど比較的治安も良かったことから、船舶が不足する中で本土へ帰るのは最も後回しになるだろうと食料の確保などに奔走していたところ、米国海軍が青島に到着。又彦は中学で英語を学んでいたことを理由に米軍との連絡係を命じられますが、高校で学んだドイツ語ならまだしも、英語は苦手。帝塚山で姉達と共に竹鶴リタさんから英語を学んでおけば良かったと後悔しますが、蓋をあけてみれば米軍の連絡将校は日本語が堪能で、驚きつつも胸を撫で下ろしたといいます。
米軍の言うことには、船で本国に帰してやるとのこと。つい先日までの敵の発言に信じられない思いでしたが、米国の輸送船が到着する3日後までに乗船名簿を作成するよう指示され、運輸省、航空隊、病院関係者など1万人分の名簿を作成しました。正金銀行、三井商事、三菱商事などの支店のタイピストの助けを借りて、手書きの名簿を英字でタイピングしてもらい、周囲に積み上げたカンパンを齧りながら3日3晩徹夜で作業しました。現地の人からの告発によって戦犯となった人は現地に残されたため、戦犯であるとわからないよう、名簿に偽名を載せてくれとこっそり頼みに来る者もあったといいます。
又彦を乗せた引揚船は、長崎・早岐港に入港。そこから汽車で神戸に向かいましたが、連絡係として様々な情報をキャッチできる立場にあった又彦は、爆撃を受けた地名のひとつに「ミカゲ」が上がっていたことから、「御影の家はやられたな。」と思い、三宮で降りずに梅田まで向かいました。車窓からの眺めは一面の焼け野原であったといいます。
その後、宝塚へ向かい、甲東園へ。一族の者が皆そこにおり、又彦の急な帰還に驚いていました。
なお、又彦の弟・又次は長崎大学の学生だったため、随分と心配していましたが、こちらも無事でした。
何でも原爆が投下された日、たまたま学校を休んで御影の家に帰っていたとのこと。
戦争では、ほんの少しの違いが人の生死を分けたということを改めて感じさせられます。
*)半年繰り上げとはいえ、又彦の学年が卒業できた最後の学年だった。次の学年は又彦達の3か月後に中退、学徒動員された。
*2)教育期間中は物理学も学んだ。空中戦では飛ぶ相手をこちらも飛びながら攻撃するため、飛行機の動きを考慮しないことには爆弾は当たらない。その原理を学ぶためだった。また実地訓練では、飛行機の操縦ではなく、後部座席に座る人員としての訓練を受けたという。具体的には、航法術による航跡把握(飛行機は風に流されるので、常に経度緯度を測り、現在地を把握することが重要だった)、電信、射撃など。爆撃・雷撃においては、操縦者に飛行方向やスピードを指示する役割も担った。
*3)青島には「青島航空基地」と「滄口航空基地」の2つの海軍基地があった。又彦が派遣されたのがどちらの基地かは不明だが、開隊後間もない様子であること、カネボウの寮を宿舎としたこと鑑みると「滄口航空基地」だったのではないか。(当時、滄口には広大なカネボウの工場、社宅があった。)
*4)中華航空株式会社。中華民国臨時政府、同維新政府、蒙疆連合委員会の出資を仰ぎ、昭和13年設立。終戦まで日本軍占領地域での航空輸送を担った。
■参考
「中華航空株式会社」について:「中華航空株式会社設立要綱」国立国会図書館サイト
青島の2つの航空基地について:「旧海軍の基地と施設」桜と錨の海軍砲術学校サイト
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なお、これらはヒヤリング等の内容を基に作成しており、一部、事実確認が不十分な点がありますことを予めご了承下さい。本件に関して間違い等がございましたら、ご教示いただけますと幸いです。
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芝川又彦(千島土地株式会社所蔵資料P69_078(上)、P69_079(下))
海軍航空隊入隊に際して西宮甲東園にて撮影したものか。
家族と共に(同P69_077)
父母(芝川又四郎・竹)、姉(百合子)とその子供達と。
芝川又彦は、昭和18年秋に神戸商業大学(現・神戸大学)を半年繰り上げで卒業し(*)、海軍の航空隊に入隊。家族は入隊に反対したが、既に日本の敗戦を予想していた又彦は、「一億玉砕と言われる中で、兵士と国民、どちらが長生きするかはわからない。」と思っていたといいます。
入隊後は3か月の基礎訓練を経て、年明けから6か月間、飛行機の実地訓練を行い(*2)、6月から青島航空隊の教育部隊に教官として配置されました。(*3)
当時の青島航空隊は、中華航空(*4)の飛行場を間借りしており、宿舎はカネボウ(鐘淵紡績㈱)の女子寮を借りて徐々に設備を整えていく状態だったといいます。
戦時中のエピソードのひとつは、大村(長崎県)の海軍航空廠に魚雷を受け取りに行った時のこと。
魚雷は重量があるため十分な燃料を積むことができず、京城で燃料補給する必要がありました。しかしながら操縦者の技術が未熟で、着陸の際、魚雷の重さで機体がぐっと沈んだところでエンジンを噴かしてしまいます。結果、滑走路の長さが足りず、前方の牧場に突っ込みそうになりハンドルを切ったところ、慣性の法則で直進しようとする飛行機胴体と、曲がろうとする脚部が分解してしまいました。
飛行機が壊れてしまったため、青島に迎えを要請しますが、「けしからん!そのような者に迎えの飛行機が出せるか!」と叱られ、魚雷は仁川から船で運び、又彦は操縦士と二人、奉天から北京、済南、青島と3日3晩かけて汽車で戻る羽目になったといいます。
さて、又彦は海軍が開発した電波探知機の講習を受けることを命じられ、横須賀に向かいます。昭和20年4月に講習を終えて青島へ戻ると、既に特攻隊の編成が終わっていました。特攻隊員とならずに現地に残った者は、爆撃の際に逃げ込む穴を山で掘るなどしながら、ここで敵の本土進攻を食い止める心積もりでいたといいます。
しかしながら8月に終戦。降伏を予期していなかった又彦は、俄かに信じられない思いでした。
青島は食料も豊富で、鉄鉱石も採れ、匪賊の出没はあれど比較的治安も良かったことから、船舶が不足する中で本土へ帰るのは最も後回しになるだろうと食料の確保などに奔走していたところ、米国海軍が青島に到着。又彦は中学で英語を学んでいたことを理由に米軍との連絡係を命じられますが、高校で学んだドイツ語ならまだしも、英語は苦手。帝塚山で姉達と共に竹鶴リタさんから英語を学んでおけば良かったと後悔しますが、蓋をあけてみれば米軍の連絡将校は日本語が堪能で、驚きつつも胸を撫で下ろしたといいます。
米軍の言うことには、船で本国に帰してやるとのこと。つい先日までの敵の発言に信じられない思いでしたが、米国の輸送船が到着する3日後までに乗船名簿を作成するよう指示され、運輸省、航空隊、病院関係者など1万人分の名簿を作成しました。正金銀行、三井商事、三菱商事などの支店のタイピストの助けを借りて、手書きの名簿を英字でタイピングしてもらい、周囲に積み上げたカンパンを齧りながら3日3晩徹夜で作業しました。現地の人からの告発によって戦犯となった人は現地に残されたため、戦犯であるとわからないよう、名簿に偽名を載せてくれとこっそり頼みに来る者もあったといいます。
又彦を乗せた引揚船は、長崎・早岐港に入港。そこから汽車で神戸に向かいましたが、連絡係として様々な情報をキャッチできる立場にあった又彦は、爆撃を受けた地名のひとつに「ミカゲ」が上がっていたことから、「御影の家はやられたな。」と思い、三宮で降りずに梅田まで向かいました。車窓からの眺めは一面の焼け野原であったといいます。
その後、宝塚へ向かい、甲東園へ。一族の者が皆そこにおり、又彦の急な帰還に驚いていました。
なお、又彦の弟・又次は長崎大学の学生だったため、随分と心配していましたが、こちらも無事でした。
何でも原爆が投下された日、たまたま学校を休んで御影の家に帰っていたとのこと。
戦争では、ほんの少しの違いが人の生死を分けたということを改めて感じさせられます。
*)半年繰り上げとはいえ、又彦の学年が卒業できた最後の学年だった。次の学年は又彦達の3か月後に中退、学徒動員された。
*2)教育期間中は物理学も学んだ。空中戦では飛ぶ相手をこちらも飛びながら攻撃するため、飛行機の動きを考慮しないことには爆弾は当たらない。その原理を学ぶためだった。また実地訓練では、飛行機の操縦ではなく、後部座席に座る人員としての訓練を受けたという。具体的には、航法術による航跡把握(飛行機は風に流されるので、常に経度緯度を測り、現在地を把握することが重要だった)、電信、射撃など。爆撃・雷撃においては、操縦者に飛行方向やスピードを指示する役割も担った。
*3)青島には「青島航空基地」と「滄口航空基地」の2つの海軍基地があった。又彦が派遣されたのがどちらの基地かは不明だが、開隊後間もない様子であること、カネボウの寮を宿舎としたこと鑑みると「滄口航空基地」だったのではないか。(当時、滄口には広大なカネボウの工場、社宅があった。)
*4)中華航空株式会社。中華民国臨時政府、同維新政府、蒙疆連合委員会の出資を仰ぎ、昭和13年設立。終戦まで日本軍占領地域での航空輸送を担った。
■参考
「中華航空株式会社」について:「中華航空株式会社設立要綱」国立国会図書館サイト
青島の2つの航空基地について:「旧海軍の基地と施設」桜と錨の海軍砲術学校サイト
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