「甲東園前」駅開設から7年後の1929(昭和4)年、この駅を最寄りとする上ヶ原に関西学院が移転しました。
関西学院は1918(大正7)年の大学令公布を機に大学新設を検討する中で、原田の森(現・神戸市灘区、王子動物園周辺)からの移転を模索していました。しかし、資金難もあり移転先が決まらない中、実業家・河鰭節氏が、原田の森の校地を売却し、上ヶ原を移転用地として買収することを提案します。この事業を遂行する相手として河鰭氏が白羽の矢を立てたのが、阪神急行電鉄(以下、阪急)の小林一三氏でした。
こうして、1926(大正15、昭和元)年に小林氏と関西学院の神崎驥一高等商業学部長の会談が行われます。移転には10 万坪の土地と建物、大学設置に必要な供託金60万円が必要という神崎氏に対し、小林氏は320万円(原田の森の校地・校舎の買取価格)と書いたメモを示しました。わずか5分ほどの速断だったといわれています。
小林氏はさっそく上ヶ原の移転用地取得に動き始めました。
当時、上ヶ原の移転用地の多くは、池田の酒造家である北村吉右衛門氏・北村伊三郎氏、宝塚を開発したことで知られる平塚嘉右衛門氏、そして芝川又右衛門(と芝川が創業した千島土地㈱)が所有していました。小林氏と芝川は甲東園前駅の開設で既に縁があり、平塚氏は阪神急行電鉄と共に「宝塚ホテル」に出資した人物です。
1927年3月12日には、阪急と上記4名の地主の間で上ヶ原の土地買収に関する覚書が交わされます。
覚書(千島土地所蔵資料G00979_51)
この覚書では、4名の地主は55万円で7万坪の土地提供を引き受けること、阪急はここに関学を移転させること。実現しない場合は相当の学校を移転する、或いは全力を注ぎ住宅経営すること等が約定されました。
そう、この時点では関西学院の上ヶ原移転はまだ確定していなかったのです。
原田の森の校舎、校地(26,700坪)を320万円で買い取り、上ヶ原の校地(7万坪)を55万円で学院に譲渡するという正式契約を小林氏が関西学院のベーツ学院長と結んだのは、1年後の1928年2月のことでした。更にいえば、関西学院は1927年5月の臨時理事会で上ヶ原移転を可決しており、小林氏が用地買収の目途を立てたのはそれより前だったのです(なお関西学院が最終的に上ヶ原への移転を決めたのは、芝川が敷設した校地に至る3間幅の道路があったことも一因であるといわれています)。
この覚書が交わされた3日後の3月15日には、覚書の約定通り、阪急と4名の地主間で実測7万坪を55万円で売却する不動産売買契約書が締結され、内金として10万円が4名の地主に支払われました。
土地売買契約書の一部(千島土地所蔵資料G01015_181)
土地の所有権移転登記は2ヶ月半後の5月末迄に行うことが契約で定められましたが、移転用地には上記地主以外の者が所有する土地も含まれ、4名の地主はその買収も行いました。お金はいらないので土地を手放すつもりはないという所有者も多く、用地外の芝川家の所有地と交換することで解決したと又右衛門の息子・又四郎は振り返っています(こうした他人所有地の買収に関わる北村氏、平塚氏負担分の経費を芝川が立て替えた資料が当社には残っており(*)、他人土地の取得においては芝川が中心的な役割を果たしたのではと想像しています)。
少し話が前後しますが、この契約の1日前の3月14日にも、4名の地主間で、阪急に売り渡す7万坪の内訳に関する覚書が交わされています。
地主間の覚書(千島土地所蔵資料G00979_51)
これには北村氏が土地の約55%、芝川が39%、平塚氏が6%を提供すること、そして芝川が分担する39% 27,274坪のうち15,274坪は自ら提供し、残りの12,000坪は芝川が14円58銭4厘/坪で北村氏より購入すると記載されています。阪急への土地売却は7円85銭7厘/坪でしたので約2倍の価格です。
どういった経緯でこのような約定に至ったのか、その詳細は明らかではありませんが、先の他人所有地の買収にせよ、移転用地7万坪を確保するまでには様々な苦労もあったことでしょう。又四郎は、当時阪急の地所課長であった安威勝也氏が大変な人格者であると同時に非常に土地の好きな人で、この人こそ用地買収の第一の功労者であったと思うと述懐しています。関西学院の移転は、安威氏をはじめ多くの尽力によって実現し、芝川も縁の下でその一端を担ったといえます。
最後に、関西学院の移転に関して芝川家に伝わるひとつのエピソードをご紹介します。
それはアメリカの大学を視察した芝川又四郎が、関西学院の周りには高い壁を作らないで欲しいとベーツ院長に申し入れたというものです。これまでこの逸話の真偽のほどがわからずにいましたが、このたび先の土地売買契約書に「経営地の周囲には付近一帯の風致を損するが如き高塀を建設せざるものとす」との条件が記載されていることがわかりました。関西学院の美しいランドスケープの背景には、こうした地主達の意向もあったのですね。
*)千島土地所蔵資料G00966_94、G01015_190
■参考資料
関西学院百年史編纂事業委員会『関西学院百年史 通史編Ⅰ』学校法人関西学院/1997
『関西学院フロンティア21 VOL.5』関西学院創立111周年記念事業委員会/1999
『小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―』芝川又四郎/1969(非売品)
甲東園と芝川家1 土地入手の経緯
甲東園と芝川家2 果樹園の開設
甲東園と芝川家3 果樹園の風景
甲東園と芝川邸4 芝川又右衛門邸の建設
甲東園と芝川邸5 芝川又右衛門邸
甲東園と芝川邸6 阪急電鉄の開通
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関西学院は1918(大正7)年の大学令公布を機に大学新設を検討する中で、原田の森(現・神戸市灘区、王子動物園周辺)からの移転を模索していました。しかし、資金難もあり移転先が決まらない中、実業家・河鰭節氏が、原田の森の校地を売却し、上ヶ原を移転用地として買収することを提案します。この事業を遂行する相手として河鰭氏が白羽の矢を立てたのが、阪神急行電鉄(以下、阪急)の小林一三氏でした。
こうして、1926(大正15、昭和元)年に小林氏と関西学院の神崎驥一高等商業学部長の会談が行われます。移転には10 万坪の土地と建物、大学設置に必要な供託金60万円が必要という神崎氏に対し、小林氏は320万円(原田の森の校地・校舎の買取価格)と書いたメモを示しました。わずか5分ほどの速断だったといわれています。
小林氏はさっそく上ヶ原の移転用地取得に動き始めました。
当時、上ヶ原の移転用地の多くは、池田の酒造家である北村吉右衛門氏・北村伊三郎氏、宝塚を開発したことで知られる平塚嘉右衛門氏、そして芝川又右衛門(と芝川が創業した千島土地㈱)が所有していました。小林氏と芝川は甲東園前駅の開設で既に縁があり、平塚氏は阪神急行電鉄と共に「宝塚ホテル」に出資した人物です。
1927年3月12日には、阪急と上記4名の地主の間で上ヶ原の土地買収に関する覚書が交わされます。
覚書(千島土地所蔵資料G00979_51)
この覚書では、4名の地主は55万円で7万坪の土地提供を引き受けること、阪急はここに関学を移転させること。実現しない場合は相当の学校を移転する、或いは全力を注ぎ住宅経営すること等が約定されました。
そう、この時点では関西学院の上ヶ原移転はまだ確定していなかったのです。
原田の森の校舎、校地(26,700坪)を320万円で買い取り、上ヶ原の校地(7万坪)を55万円で学院に譲渡するという正式契約を小林氏が関西学院のベーツ学院長と結んだのは、1年後の1928年2月のことでした。更にいえば、関西学院は1927年5月の臨時理事会で上ヶ原移転を可決しており、小林氏が用地買収の目途を立てたのはそれより前だったのです(なお関西学院が最終的に上ヶ原への移転を決めたのは、芝川が敷設した校地に至る3間幅の道路があったことも一因であるといわれています)。
この覚書が交わされた3日後の3月15日には、覚書の約定通り、阪急と4名の地主間で実測7万坪を55万円で売却する不動産売買契約書が締結され、内金として10万円が4名の地主に支払われました。
土地売買契約書の一部(千島土地所蔵資料G01015_181)
土地の所有権移転登記は2ヶ月半後の5月末迄に行うことが契約で定められましたが、移転用地には上記地主以外の者が所有する土地も含まれ、4名の地主はその買収も行いました。お金はいらないので土地を手放すつもりはないという所有者も多く、用地外の芝川家の所有地と交換することで解決したと又右衛門の息子・又四郎は振り返っています(こうした他人所有地の買収に関わる北村氏、平塚氏負担分の経費を芝川が立て替えた資料が当社には残っており(*)、他人土地の取得においては芝川が中心的な役割を果たしたのではと想像しています)。
少し話が前後しますが、この契約の1日前の3月14日にも、4名の地主間で、阪急に売り渡す7万坪の内訳に関する覚書が交わされています。
地主間の覚書(千島土地所蔵資料G00979_51)
これには北村氏が土地の約55%、芝川が39%、平塚氏が6%を提供すること、そして芝川が分担する39% 27,274坪のうち15,274坪は自ら提供し、残りの12,000坪は芝川が14円58銭4厘/坪で北村氏より購入すると記載されています。阪急への土地売却は7円85銭7厘/坪でしたので約2倍の価格です。
どういった経緯でこのような約定に至ったのか、その詳細は明らかではありませんが、先の他人所有地の買収にせよ、移転用地7万坪を確保するまでには様々な苦労もあったことでしょう。又四郎は、当時阪急の地所課長であった安威勝也氏が大変な人格者であると同時に非常に土地の好きな人で、この人こそ用地買収の第一の功労者であったと思うと述懐しています。関西学院の移転は、安威氏をはじめ多くの尽力によって実現し、芝川も縁の下でその一端を担ったといえます。
最後に、関西学院の移転に関して芝川家に伝わるひとつのエピソードをご紹介します。
それはアメリカの大学を視察した芝川又四郎が、関西学院の周りには高い壁を作らないで欲しいとベーツ院長に申し入れたというものです。これまでこの逸話の真偽のほどがわからずにいましたが、このたび先の土地売買契約書に「経営地の周囲には付近一帯の風致を損するが如き高塀を建設せざるものとす」との条件が記載されていることがわかりました。関西学院の美しいランドスケープの背景には、こうした地主達の意向もあったのですね。
*)千島土地所蔵資料G00966_94、G01015_190
■参考資料
関西学院百年史編纂事業委員会『関西学院百年史 通史編Ⅰ』学校法人関西学院/1997
『関西学院フロンティア21 VOL.5』関西学院創立111周年記念事業委員会/1999
『小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―』芝川又四郎/1969(非売品)
甲東園と芝川家1 土地入手の経緯
甲東園と芝川家2 果樹園の開設
甲東園と芝川家3 果樹園の風景
甲東園と芝川邸4 芝川又右衛門邸の建設
甲東園と芝川邸5 芝川又右衛門邸
甲東園と芝川邸6 阪急電鉄の開通
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