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千島土地 アーカイブ・ブログ

1912年に設立された千島土地㈱に眠る、大阪の土地開発や船場商人にまつわる多彩な資料を整理、随時公開します。

甲東園と芝川家8 幻の銀星女学院と仁川コロニー

2023-06-09 13:17:31 | 芝川家刊行文献
阪神急行電鉄西宝線(現・阪急今津線)甲東園前駅が設置された翌年の1923(大正12)年、お隣に仁川駅が開設し、その翌年に日本住宅㈱社長 阿部元太郎氏、同専務 近藤喜祿氏と芝川又右衛門の間に「甲東学園設立に付覚書」という文書が交わされます。


甲東学園設立に付覚書(一部)(千島土地所蔵資料G00982_273)
日本住宅㈱が甲東園隣地の仁川で住宅経営をすることになり、小学校設立を計画する中で、芝川が学校用地として千島土地㈱の所有地1,500坪と校舎建設費1万円の提供を申し出ます。そんな折、偶然他に女学校設立の計画があるということで、その計画と合わせ、実業家の羽室庸之助氏を設立者とし、小学校(甲東学園小学校)設立が進められることになったという経緯が記されています。

小学校の開校は1925(大正14)年4月からと約定されていますが、芝川は学校運営には直接関与していなかったようで、実際にいつ小学校が開校し、どのような運営が行われたかについては、資料が残っておらず知ることができません。

一説には学校経営がうまくいっていなかったともいわれており、次にこの学園が登場するのは学園経営組合の解散に関する資料でした。


甲東学園経営組合解散及び財産処分決議書(千島土地所蔵資料G00975_120)
1931(昭和6)年7月20日をもって甲東学園経営組合を解散すること。出資組合員(阿部氏、近藤氏、芝川)共有の残余財産(校舎と備品)は8千円で芝川又四郎(又右衛門息子)に売却し、その8千円は、羽室庸之助氏の慰労金とすることが決議されました。


建物売渡証書(G00975_123)
そして翌日の7月21日、校舎、備品が又四郎に売却されます。

又四郎が、この校舎、備品を購入したことには理由がありました。同日に又四郎が交わした下記の覚書でそれを知ることができます。


覚書(千島土地所蔵資料G00975_121)
(財)帝塚山学院が学校経営を行うために甲東学園の校舎を買い取りたいけれども、まだ理事会の承認が得られないので又四郎が一旦これを購入し、帝塚山学院に提供すると記されています。

帝塚山学院小学校の庄野貞一校長は、かねてより郊外(林間)学舎での子供達の教育を構想していました。庄野氏と親しく、教育への関心も高かった又四郎は、帝塚山学院に代わり甲東学園小学校の校舎を購入し、郊外学舎「仁川コロニー」の校舎として提供したのです。


覚書(千島土地所蔵資料G00975_128)
なお校舎敷地1,667坪は、1,500坪を千島土地㈱、167坪を日本住宅㈱が所有していましたが、こちらも又四郎又は帝塚山学院が学校経営を行う限り、無償提供することが約定されました。

庄野氏には一日も早く、自然に親しむ教育を実現したいとの思いがあったようで、「仁川コロニー」はひと月後、8月の夏休みから施設使用が開始されました。『帝塚山学院100年史』によると、慌ただしい開設準備の中で、又四郎は学習、食事、衛生、宿泊の設備を整える手助けもしたようです。

こうして、甲東学園小学校に代わり、仁川の地に帝塚山学院の「仁川コロニー」が開校したのでした。


ところで、この甲東学園小学校の名称は実はよくわかっていません。覚書などの書類には、「甲東学園小学校」と「私立仁川小学校」の2つの名称が登場します。そして、それぞれの書類につけられた仕切紙には「元 銀星女学院」と記されています。

人事興信録によれば、羽室氏の職業欄には「銀星女学院長」の記載があります。(*)冒頭の覚書には女学校設立の計画と合わせて小学校を設立するとあり、甲東学園小学校が銀星女学院の付属小学校である可能性は高いと思います。

しかし、残念ながら銀星女学院についても詳しいことはよくわかりません。銀星女学院出版部が発行した「梨庵漫筆」という資料(冊子)があるようで、羽室氏が銀星女学院主として発行趣旨(大正14年7月)を執筆し、谷本富氏(*2)が女学院生徒に向けた教訓を寄稿しているところを見ると、銀星女学院は確かに存在したものと思われます。

しかし、銀星女学院、そして付属小学校と思しき甲東学園小学校の実態は、今はまだ謎に包まれたままなのです。


*)名古屋大学『人事興信録』データベースより
*2)谷本富…日本の教育学者。京都帝国大学教授。又四郎は京都帝国大学在学中に講義を受け、「こんなおもしろい講義は、当時私の在学した法科大学には一つもないと思ったのでした」と述べている(芝川又四郎『小さな歩み』p.245)


■参考資料
創立100周年記念誌編纂委員会 編『帝塚山学院100年史』帝塚山学院/2016


甲東園と芝川家1 土地入手の経緯
甲東園と芝川家2 果樹園の開設
甲東園と芝川家3 果樹園の風景
甲東園と芝川邸4 芝川又右衛門邸の建設
甲東園と芝川邸5 芝川又右衛門邸
甲東園と芝川邸6 阪急電鉄の開通
甲東園と芝川邸7 関西学院の移転


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。

甲東園と芝川家7 関西学院の移転

2023-05-25 15:41:11 | 芝川家刊行文献
「甲東園前」駅開設から7年後の1929(昭和4)年、この駅を最寄りとする上ヶ原に関西学院が移転しました。

関西学院は1918(大正7)年の大学令公布を機に大学新設を検討する中で、原田の森(現・神戸市灘区、王子動物園周辺)からの移転を模索していました。しかし、資金難もあり移転先が決まらない中、実業家・河鰭節氏が、原田の森の校地を売却し、上ヶ原を移転用地として買収することを提案します。この事業を遂行する相手として河鰭氏が白羽の矢を立てたのが、阪神急行電鉄(以下、阪急)の小林一三氏でした。

こうして、1926(大正15、昭和元)年に小林氏と関西学院の神崎驥一高等商業学部長の会談が行われます。移転には10 万坪の土地と建物、大学設置に必要な供託金60万円が必要という神崎氏に対し、小林氏は320万円(原田の森の校地・校舎の買取価格)と書いたメモを示しました。わずか5分ほどの速断だったといわれています。

小林氏はさっそく上ヶ原の移転用地取得に動き始めました。

当時、上ヶ原の移転用地の多くは、池田の酒造家である北村吉右衛門氏・北村伊三郎氏、宝塚を開発したことで知られる平塚嘉右衛門氏、そして芝川又右衛門(と芝川が創業した千島土地㈱)が所有していました。小林氏と芝川は甲東園前駅の開設で既に縁があり、平塚氏は阪神急行電鉄と共に「宝塚ホテル」に出資した人物です。

1927年3月12日には、阪急と上記4名の地主の間で上ヶ原の土地買収に関する覚書が交わされます。

覚書(千島土地所蔵資料G00979_51)
この覚書では、4名の地主は55万円で7万坪の土地提供を引き受けること、阪急はここに関学を移転させること。実現しない場合は相当の学校を移転する、或いは全力を注ぎ住宅経営すること等が約定されました。

そう、この時点では関西学院の上ヶ原移転はまだ確定していなかったのです。

原田の森の校舎、校地(26,700坪)を320万円で買い取り、上ヶ原の校地(7万坪)を55万円で学院に譲渡するという正式契約を小林氏が関西学院のベーツ学院長と結んだのは、1年後の1928年2月のことでした。更にいえば、関西学院は1927年5月の臨時理事会で上ヶ原移転を可決しており、小林氏が用地買収の目途を立てたのはそれより前だったのです(なお関西学院が最終的に上ヶ原への移転を決めたのは、芝川が敷設した校地に至る3間幅の道路があったことも一因であるといわれています)。

この覚書が交わされた3日後の3月15日には、覚書の約定通り、阪急と4名の地主間で実測7万坪を55万円で売却する不動産売買契約書が締結され、内金として10万円が4名の地主に支払われました。

土地売買契約書の一部(千島土地所蔵資料G01015_181)
土地の所有権移転登記は2ヶ月半後の5月末迄に行うことが契約で定められましたが、移転用地には上記地主以外の者が所有する土地も含まれ、4名の地主はその買収も行いました。お金はいらないので土地を手放すつもりはないという所有者も多く、用地外の芝川家の所有地と交換することで解決したと又右衛門の息子・又四郎は振り返っています(こうした他人所有地の買収に関わる北村氏、平塚氏負担分の経費を芝川が立て替えた資料が当社には残っており(*)、他人土地の取得においては芝川が中心的な役割を果たしたのではと想像しています)。

少し話が前後しますが、この契約の1日前の3月14日にも、4名の地主間で、阪急に売り渡す7万坪の内訳に関する覚書が交わされています。

地主間の覚書(千島土地所蔵資料G00979_51)
これには北村氏が土地の約55%、芝川が39%、平塚氏が6%を提供すること、そして芝川が分担する39% 27,274坪のうち15,274坪は自ら提供し、残りの12,000坪は芝川が14円58銭4厘/坪で北村氏より購入すると記載されています。阪急への土地売却は7円85銭7厘/坪でしたので約2倍の価格です。

どういった経緯でこのような約定に至ったのか、その詳細は明らかではありませんが、先の他人所有地の買収にせよ、移転用地7万坪を確保するまでには様々な苦労もあったことでしょう。又四郎は、当時阪急の地所課長であった安威勝也氏が大変な人格者であると同時に非常に土地の好きな人で、この人こそ用地買収の第一の功労者であったと思うと述懐しています。関西学院の移転は、安威氏をはじめ多くの尽力によって実現し、芝川も縁の下でその一端を担ったといえます。

最後に、関西学院の移転に関して芝川家に伝わるひとつのエピソードをご紹介します。
それはアメリカの大学を視察した芝川又四郎が、関西学院の周りには高い壁を作らないで欲しいとベーツ院長に申し入れたというものです。これまでこの逸話の真偽のほどがわからずにいましたが、このたび先の土地売買契約書に「経営地の周囲には付近一帯の風致を損するが如き高塀を建設せざるものとす」との条件が記載されていることがわかりました。関西学院の美しいランドスケープの背景には、こうした地主達の意向もあったのですね。


*)千島土地所蔵資料G00966_94、G01015_190


■参考資料
関西学院百年史編纂事業委員会『関西学院百年史 通史編Ⅰ』学校法人関西学院/1997
『関西学院フロンティア21 VOL.5』関西学院創立111周年記念事業委員会/1999
『小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―』芝川又四郎/1969(非売品)


甲東園と芝川家1 土地入手の経緯
甲東園と芝川家2 果樹園の開設
甲東園と芝川家3 果樹園の風景
甲東園と芝川邸4 芝川又右衛門邸の建設
甲東園と芝川邸5 芝川又右衛門邸
甲東園と芝川邸6 阪急電鉄の開通


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。

甲東園と芝川家6 阪急電鉄の開通

2023-05-12 13:56:09 | 芝川家刊行文献
芝川又右衛門が別邸を構えた当時の甲東園へのアクセスの悪さについては「甲東園と芝川家4 芝川又右衛門邸の建設」でも触れました。
しかし、1920(大正9)年に阪神急行電鉄神戸本線(現・阪急電鉄神戸線)に引き続き、翌1921年には西宝線(現・阪急電鉄今津線)が開通。1922年に「甲東園前停車場」(現・甲東園駅)が設置されます。

この「甲東園前停車場」は、芝川家が阪急電鉄に要望して作られた、いわゆる「請願駅」でした。

当初、芝川家は鉄道敷地として2,500坪の寄付を申し出ますが、その程度で駅は作れないと断られたといいます。そして折衝の結果、駅付近に4倍の1万坪(実測)の土地と現金5,000円を寄付し、停車場を設置する協定が結ばれました。


西宝線上停留場設置に関する協定書(千島土地所蔵資料G00985_7)


阪急寄付地実測計算図(千島土地所蔵資料K03_035_002)


小林一三氏からの礼状(千島土地所蔵資料G00992_020)
ここでは「御所有地1万千9百坪御寄付■下千万難有奉…」と11,900坪の所有地寄付に対する御礼が述べられています。

芝川家が経営する果樹園「甲東園」前の駅ということでしょう、開設当時の駅名は「甲東園前」でしたが、
その後、大正末~昭和初頃に「甲東園」に変更されました(*)。


開設して間もない頃の甲東園前停車場(千島土地所蔵資料P38_030)
当初は駅の乗降者数も非常に少なく、ホームで手を上げないと電車が走り過ぎてしまったり、降りる際も予め伝えておく必要があったのだとか。


なお芝川家より寄付された土地は、阪神急行電鉄によって宅地開発、分譲されました。


沿線開拓地略図(京阪神急行電鉄株式会社『京阪神急行電鉄五十年史』1959年、p.116-117)
「甲東園住宅地10,000坪」が芝川家からの寄付地と思われます。
「甲東園住宅地」は1923(大正12)年3月より48戸が売り出されました。売価は坪あたり12~30円、土地114坪、建物25坪75の土地付住宅の価格は7,359円38銭と記録されています。


昭和15年「甲東村土地宝典」(千島土地所蔵資料K03_13)
甲東園から仁川に向かう西宝線東側に「甲東園住宅地」の記載が見られます。


阪急電鉄経営地(千島土地所蔵資料K03_035_001)
先ほどの阪急寄付地実測計算図にほぼ一致しています。

こちらを現在の地図で「甲東園住宅地」の辺りに重ねてみると…

ぴったりと重なることから、芝川家からの寄付地はこの場所(現在の甲東園1-2丁目の一部)であったとみて間違いなさそうです。


*)1924(大正13)年の『阪急沿線案内』(阪神急行電鉄㈱発行)では「甲東園前」、1932(昭和5)年の『阪神急行電鉄二十五年史』では「甲東園」となっていることから、恐らくこの間に駅名の変更が行われたものと思われます。


■参考資料
阪神急行電鉄株式会社編『阪神急行電鉄二十五年史』阪神急行電鉄/1932
京阪神急行電鉄株式会社編纂『京阪神急行電鉄五十年史』京阪神急行電鉄/1959
阪神急行電鉄株式会社『阪急沿線案内』阪神急行電鉄/1924


甲東園と芝川家1 土地入手の経緯
甲東園と芝川家2 果樹園の開設
甲東園と芝川家3 果樹園の風景
甲東園と芝川邸4 芝川又右衛門邸の建設
甲東園と芝川邸5 芝川又右衛門邸


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それぞれの太平洋戦争1 芝川又彦

2018-09-03 16:57:05 | 芝川家刊行文献
先代の会長、社長として千島土地を支えた芝川又彦(大正10年生)と芝川(旧姓・伊藤)敦(大正11年生)。1歳違いの両者は、太平洋戦争只中に大学を卒業後、戦争に巻き込まれていきます。生前のお二人から伺った戦争にまつわる回想をまとめ、ここにご紹介いたします。

なお、これらはヒヤリング等の内容を基に作成しており、一部、事実確認が不十分な点がありますことを予めご了承下さい。本件に関して間違い等がございましたら、ご教示いただけますと幸いです。






芝川又彦(千島土地株式会社所蔵資料P69_078(上)、P69_079(下))
海軍航空隊入隊に際して西宮甲東園にて撮影したものか。


家族と共に(同P69_077)
父母(芝川又四郎・竹)、姉(百合子)とその子供達と。


芝川又彦は、昭和18年秋に神戸商業大学(現・神戸大学)を半年繰り上げで卒業し(*)、海軍の航空隊に入隊。家族は入隊に反対したが、既に日本の敗戦を予想していた又彦は、「一億玉砕と言われる中で、兵士と国民、どちらが長生きするかはわからない。」と思っていたといいます。

入隊後は3か月の基礎訓練を経て、年明けから6か月間、飛行機の実地訓練を行い(*2)、6月から青島航空隊の教育部隊に教官として配置されました。(*3)

当時の青島航空隊は、中華航空(*4)の飛行場を間借りしており、宿舎はカネボウ(鐘淵紡績㈱)の女子寮を借りて徐々に設備を整えていく状態だったといいます。


戦時中のエピソードのひとつは、大村(長崎県)の海軍航空廠に魚雷を受け取りに行った時のこと。
魚雷は重量があるため十分な燃料を積むことができず、京城で燃料補給する必要がありました。しかしながら操縦者の技術が未熟で、着陸の際、魚雷の重さで機体がぐっと沈んだところでエンジンを噴かしてしまいます。結果、滑走路の長さが足りず、前方の牧場に突っ込みそうになりハンドルを切ったところ、慣性の法則で直進しようとする飛行機胴体と、曲がろうとする脚部が分解してしまいました。
飛行機が壊れてしまったため、青島に迎えを要請しますが、「けしからん!そのような者に迎えの飛行機が出せるか!」と叱られ、魚雷は仁川から船で運び、又彦は操縦士と二人、奉天から北京、済南、青島と3日3晩かけて汽車で戻る羽目になったといいます。


さて、又彦は海軍が開発した電波探知機の講習を受けることを命じられ、横須賀に向かいます。昭和20年4月に講習を終えて青島へ戻ると、既に特攻隊の編成が終わっていました。特攻隊員とならずに現地に残った者は、爆撃の際に逃げ込む穴を山で掘るなどしながら、ここで敵の本土進攻を食い止める心積もりでいたといいます。

しかしながら8月に終戦。降伏を予期していなかった又彦は、俄かに信じられない思いでした。

青島は食料も豊富で、鉄鉱石も採れ、匪賊の出没はあれど比較的治安も良かったことから、船舶が不足する中で本土へ帰るのは最も後回しになるだろうと食料の確保などに奔走していたところ、米国海軍が青島に到着。又彦は中学で英語を学んでいたことを理由に米軍との連絡係を命じられますが、高校で学んだドイツ語ならまだしも、英語は苦手。帝塚山で姉達と共に竹鶴リタさんから英語を学んでおけば良かったと後悔しますが、蓋をあけてみれば米軍の連絡将校は日本語が堪能で、驚きつつも胸を撫で下ろしたといいます。

米軍の言うことには、船で本国に帰してやるとのこと。つい先日までの敵の発言に信じられない思いでしたが、米国の輸送船が到着する3日後までに乗船名簿を作成するよう指示され、運輸省、航空隊、病院関係者など1万人分の名簿を作成しました。正金銀行、三井商事、三菱商事などの支店のタイピストの助けを借りて、手書きの名簿を英字でタイピングしてもらい、周囲に積み上げたカンパンを齧りながら3日3晩徹夜で作業しました。現地の人からの告発によって戦犯となった人は現地に残されたため、戦犯であるとわからないよう、名簿に偽名を載せてくれとこっそり頼みに来る者もあったといいます。

又彦を乗せた引揚船は、長崎・早岐港に入港。そこから汽車で神戸に向かいましたが、連絡係として様々な情報をキャッチできる立場にあった又彦は、爆撃を受けた地名のひとつに「ミカゲ」が上がっていたことから、「御影の家はやられたな。」と思い、三宮で降りずに梅田まで向かいました。車窓からの眺めは一面の焼け野原であったといいます。

その後、宝塚へ向かい、甲東園へ。一族の者が皆そこにおり、又彦の急な帰還に驚いていました。
なお、又彦の弟・又次は長崎大学の学生だったため、随分と心配していましたが、こちらも無事でした。
何でも原爆が投下された日、たまたま学校を休んで御影の家に帰っていたとのこと。

戦争では、ほんの少しの違いが人の生死を分けたということを改めて感じさせられます。


*)半年繰り上げとはいえ、又彦の学年が卒業できた最後の学年だった。次の学年は又彦達の3か月後に中退、学徒動員された。

*2)教育期間中は物理学も学んだ。空中戦では飛ぶ相手をこちらも飛びながら攻撃するため、飛行機の動きを考慮しないことには爆弾は当たらない。その原理を学ぶためだった。また実地訓練では、飛行機の操縦ではなく、後部座席に座る人員としての訓練を受けたという。具体的には、航法術による航跡把握(飛行機は風に流されるので、常に経度緯度を測り、現在地を把握することが重要だった)、電信、射撃など。爆撃・雷撃においては、操縦者に飛行方向やスピードを指示する役割も担った。

*3)青島には「青島航空基地」と「滄口航空基地」の2つの海軍基地があった。又彦が派遣されたのがどちらの基地かは不明だが、開隊後間もない様子であること、カネボウの寮を宿舎としたこと鑑みると「滄口航空基地」だったのではないか。(当時、滄口には広大なカネボウの工場、社宅があった。)

*4)中華航空株式会社。中華民国臨時政府、同維新政府、蒙疆連合委員会の出資を仰ぎ、昭和13年設立。終戦まで日本軍占領地域での航空輸送を担った。


■参考
「中華航空株式会社」について:「中華航空株式会社設立要綱」国立国会図書館サイト
青島の2つの航空基地について:「旧海軍の基地と施設」桜と錨の海軍砲術学校サイト


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二代目・芝川又右衛門 ~日本女子大学校設立への関わり~

2017-01-10 08:51:32 | 芝川家刊行文献
2015年のNHKの朝ドラ「あさが来た」で注目された広岡浅子。加島屋・広岡家と芝川家は同じ大阪の財界人同士ですが、これまで当社の所蔵資料の中に、両家のつながりを示すものは見つかっていませんでした。

しかしながら、「あさが来た」の原作である古川智映子さんの『小説土佐堀川 広岡浅子の生涯』には、広岡浅子が支援した日本女子大学校(現・日本女子大学)の設立を賛助した大阪の財界人の一人として芝川の名前が登場しており、実際に日本女子大学には、芝川又右衛門(二代目)が設立に関与したことを証明する資料が残っていたのです。

今回はそれらの資料から、日本女子大学校への芝川の関わりについて見ていきたいと思います。



日本女子大学校設立者の成瀬仁蔵は、明治27(1894)年に米国留学から帰国した後、梅花女学校(現・梅花女子大学)の校長を務めていました。女子高等教育機関、現在でいう女子大学の設立を目標としていた成瀬は、明治29(1896)年2月に自ら考える女子高等教育機関の必要性を説いた『女子教育』を出版し、本格的に女子大学設立の準備活動を始めます。

成瀬が社会の各方面の有力者に賛助を求める中で、広岡浅子との出会いがありました。浅子は『女子教育』を読んで成瀬の理想に深く共感し、女子大学設立の熱心な後援者となったのです。

そんな中で、芝川にも発起人就任への依頼があり、『日本女子大学校創立事務所日誌』にその様子が記されています。


「日本女子大学校創立事務所日誌(明治29年)」(日本女子大学所蔵)

12月19日(水)
鴻池芝川両氏へ発起人勧誘に付 広岡ご主人御問訪相成たる処
両子(ママ)は未た女子大学設立の件に付御話し不承
従而賛助員承諾不仕との事に而空しく御帰宅相成たり
両氏の如き名望家先承諾するにあらされば
他の人々を取纏め候事仲々六ヶ敷とて御当惑の御様子
如何致とて宜敷哉。
広岡御夫人へも御相談の上至急何とか御主人迄御返辞相待申候云々

これによると、広岡ご主人(広岡浅子の夫・広岡信五郎のことか)が鴻池、芝川を訪問し、発起人、賛助員就任を依頼するも承諾を得ることができず、こうした名望家の承認を得られなければ、ほかの人々の説得も難しいと記されています。

発起人勧誘の中でこういった対応は決して珍しいことではなく、むしろ即座に賛同を得られるということは稀だったといいます。成瀬はこれと見込んだ人のところへは何度も足を運んで説得を試みたということですが、この広岡氏の訪問から2年後の明治31(1898)年の資料には、発起人欄に芝川又右衛門の名前が見られることから、経緯は不明ですが、最終的には又右衛門も発起人就任を了承したことがわかります。


「日本女子大学校 発起人、賛助員、賛成員名簿(明治31年)」(日本女子大学所蔵)

さて、こうして有力者に発起人就任を依頼する一方で、設立の資金集めも進められます。前出の『創立事務所日誌』には、芝川への寄附金依頼について、下記のような記事も見られます。


「日本女子大学校創立事務所日誌(明治32年)」(日本女子大学所蔵)

5月28日
伊庭貞剛氏は芝川又右衛門氏に寄付金勧誘の件を自ら申出てて受請ひくれぬ

住友の伊庭貞剛氏(明治33年に第2代住友総理事に就任)が芝川又右衛門の日本女子大学校への寄付勧誘を引き受けたと記載されています。懇意にしていた伊庭氏の勧めとあらば…と又右衛門も協力を前向きに検討したのではないでしょうか。

さて、当初設立地を成瀬と縁の深い大阪として準備が進められていた日本女子大学校は、天王寺界隈に5千余坪の用地を確保していましたが、「やはり東京に」という意見も根強く、数年の設立運動の中で、大阪設置は見直しを迫られることとなります。

大阪に設置するということを強調して出資を募っていたこともあり、在阪の出資者の多くは東京設置に反対しました。しかしながら、明治33(1900)年5月に設立地を決するための創立委員会が大阪で開催される頃には、大阪の出資者も女子大学を設立する国家的意義を十分に理解しており、いずれ時期を見て大阪にも設置するということで東京設置を容認しました。

この創立委員会には又右衛門も出席し、寄付(寄付の増額?)を申し出ました。最終的に又右衛門は、明治33年から5年間にわたり、年400円、合計2,000円を日本女子大学校に寄付しています。


「日本女子大学校 寄附金名簿」より(日本女子大学所蔵)


「日本女子大学校寄付礼状(明治33年)」(大阪府立中之島図書館所蔵)
創立委員長の大隈重信氏からの寄付に対する礼状

この大阪における創立委員会の結果は東京の出資者を大いに刺激し、広岡浅子の実家である三井家から東京目白台に5,520坪の土地が寄付され、ここに日本女子大学校が設置されることとなりました。

日本女子大学校は明治33年12月下旬に設立が認可され、翌明治34(1901)年4月20日に510名の生徒を迎えて開校式が執り行われたのです。




「日本女子大学校開校式案内状(明治34年)」(大阪府立中之島図書館所蔵)
芝川又右衛門と夫人宛に届いた案内状。開校式の式次第も記されている。


「感謝状(明治38年)」(大阪府立中之島図書館所蔵)
日本女子大学校理事長・成瀬仁蔵から発起人、創立委員に送られた感謝状

なお、日本女子大学校の設立予定地だった天王寺(大阪市東区清水谷東之町)の土地には、明治34年に大阪府として初の高等女学校である大阪府清水谷高等女学校(現・大阪府立清水谷高等学校)が設立されました。女子大学の設置は叶いませんでしたが、候補地に女子の教育機関が設置されたことは、大阪の出資者達の思いに適ったことだったのではないでしょうか。


■参考資料
『日本女子大学校四十年史(非売品)』日本女子大学校、昭和17年
日本女子大学資料集
日本女子大学「深く知りたい成瀬仁蔵」
大同生命の源流 加島屋と広岡浅子「日本女子大学校の設立」


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