goo blog サービス終了のお知らせ 

千島土地 アーカイブ・ブログ

1912年に設立された千島土地㈱に眠る、大阪の土地開発や船場商人にまつわる多彩な資料を整理、随時公開します。

芝川家のお茶会 ~大正2年の甲東園茶会~

2010-10-21 10:21:36 | 芝川家について
茶室「松花堂」の建築 の記事冒頭で少しご紹介いたしましたが、西宮甲東園の別荘敷地には、明治44(1911)年竣工の武田五一設計の芝川又右衛門邸内にお茶室が設えられた他、数棟のお茶室が建設されました。

中でも最初に建てられたのが大正2(1913)年に落成した「山舟亭」です。




茶室「山舟亭」(上)と露地(下)(『茶会漫録(第四集)』より)


(千島土地株式会社所蔵 P41_038)


(『芝蘭遺芳』より)


(千島土地株式会社所蔵資料「甲東園八勝図」K01_061_6より)

「山舟亭」は茶人・高谷宗範の設計監督により、その庭園は耶馬渓の趣を多分に取り入れたものであったと言います。
資料により少し趣が異なって見えますが、これは恐らく撮影時期の違いによるものと思われます。

というのも、この茶室は山の中のいたるところの風物の推移に応じて舟のように移動させることができるから「山舟」と名づけた、との記述も残っており、
甲東園の敷地内で移築された可能性があるのです。移動式茶室と言ってしまうにしてはしっかりし過ぎた建築のようですが…。
いずれにせよ、『茶会漫録(第四集)』は1924(大正3)年に発行されているので、上の2枚が竣工当時の様子に最も近いのではないでしょうか。


さて、こちら「山舟亭」において、大正2(1913)年4月、盛大なお茶会が開かれました。

5日間にわたって開かれたお茶会には、1日に5人ずつのお客様をご招待しており、益田孝、鈴木馬左也、高谷恒太郎、戸田弥七、村山龍平、上野理一、住友吉左衛門、香村文之助、嘉納治郎右衛門、嘉納治兵衛、馬越恭平、野崎廣太…などなど、東西の名高い数寄者25名が招かれました。

このお茶会は桃の花が満開になる時期に合わせて計画されたようで、主催者の芝川又右衛門は体調を崩したにも関わらず、又右衛門の師匠である茶道裏千家の中川魚梁が亭主を務めて予定通り開催されました。最終日の4月25日に参会した野崎広太の茶会記*)によると、残念ながら前夜の雨で花が散ってしまったため、芝川家では急遽 須磨芝川邸より持参した小田海僲「春夜桃李園の図」を待合の洋館2階座敷の床に掛けたといいます。


それでは、最終日のお茶会の様子を前出の野崎広太の茶会記に沿ってご紹介いたしましょう。

当日は前夜の雨は止み、一点雲なき快晴に。まだ阪急電鉄西宝線(西宮北口-宝塚)が開通していなかったため、招かれた人々は西ノ宮駅から又右衛門が用意した人力車で大市山の芝川家経営地に向かいます。

一行は又右衛門邸洋館2階の待合に通され、高谷恒太郎による挨拶の後、前出の小田海僲「春夜桃李園の図」など飾付に対するひと通りの説明が成されました。この時、窓外の景色についても紹介があったそうなのですが、なんと当時は洋館2階の窓から六甲山、甲山はもちろんのこと、箕面の山、東南の方向に連綿たる摂河泉(摂津、河内、和泉)の諸山脈まで望むことができたのだとか。なんと素晴らしい景色でしょうか!

その後、一行は腰掛へと移動し、間もなく亭主の中川魚梁に迎えられ、お茶室へと案内されます。蹲にかかる筧の水は渓流となって音を立てて流れていたということで、心洗われる情景が目に浮かぶようです。

お茶室には宗範の筆による「山舟」の濡額が掛けられています。宗範について、野崎は「大徳寺の和尚か」と記述していますが、高谷恒太郎の号が宗範であり、「山舟亭」は高谷が設計監督したお茶室であったことを考えると、この濡額は高谷の筆によるものだったのかも知れません。*2)

そしていよいよお茶室の中へ。炭手前の後に一同懐石を楽しみ、腰掛に移ってお菓子をいただいた後、「恰も山寺の鐘声を聞くに似た」銅鑼の合図で再度席入りをします。

濃茶、薄茶を喫し、戸田や春海*3)、高谷恒太郎も加わっての歓談の後、お茶会はおひらきとなり、一行は高谷の案内で水屋、露地を見学して茶室を後にします。

洋館広間の一室へ戻り、ひと息ついた後、一行は銅鑼の音に送られながら夕暮れの甲東園を後にしたのでした。


この度はご紹介を省略いたしましたが、茶会記録には待合、腰掛、茶室の飾付から懐石、濃茶、薄茶で使用されたものまで、全てのお道具が記載されています。またそれらに対する感想も詳しく述べられており、その中では、交趾の蓋と呉州の身、そして呉州の蓋と交趾の身の組み合わせで使用された石榴の香合が「稀代の名品」であると賞賛される一方で、古色蒼然とした釜と炉縁に銅炉が新しいのは不釣合いだとか、茶室「山舟亭」で懐石に藍呉州舟形の向付、茶杓の銘が「鉄の舟」では、舟が多過ぎて得心できないなどといった辛口の意見も忌憚なく述べています。

更に、当時これが新聞に掲載されたというのですから、お茶会の亭主はさぞかし細心の注意を払ってお茶会当日に備えたことでしょう。まさにお互いに真剣勝負。このような切磋琢磨の中で、近代茶道の黄金期が築かれていったのでしょうか。


*)『茶会漫録 第四集』に「甲東山荘の茶会 芝川又右衛門氏の催し(大正2年4月30日記)」として収録。野崎広太は参席した茶会での見聞記録を、1905(明治38)年以降、自らが主催する「内外商業新報」(現「日本経済新聞」)に掲載。後年それらを『茶会漫録(全12冊)』にまとめ、発刊した。

*2)「内外商業新報」の記事を写したとする芝川家の記録(『芝蘭遺芳』)にはこのように記述されていますが、「内外商業新報」の記事をまとめて1914(大正3)年に発行された『茶会漫録(第四集)』では、「宗範の筆、宗範は即ち高谷今遠州(筆者注:高谷恒太郎のこと)也。」とあることから、書籍にまとめる際に修正されたものと思われます。

*3)道具商・谷松屋戸田商店、書画骨董品商・春海商店の関係者か?


■参考資料
『茶会漫録(第四集)』、野崎広太、中外商業新報社、1914
『芝蘭遺芳』、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
『芝川得々翁を語る』、塩田與兵衛、1939


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。

芝川家の『年酒記録』 ~芝川店の新年~

2010-07-08 11:58:16 | 芝川家について
以前からずっと取り上げたいと思っていた史料がこちら。


『年酒記録(自明治三拾三年)』(千島土地株式会社所蔵資料B01_006)

年酒とは、新年を祝うお酒または年賀のご挨拶に見えたお客さまにおすすめるお酒のこと。この『年酒記録』は芝川家が別家と店員を招いて開催した「年酒」、いわゆる「新年会」の記録なのです。「年酒」は1900(明治33)年に始まり1941(昭和16)年まで、途中 明治天皇、大正天皇が崩御された大正2(1913)年、昭和2(1927)年のほか、忌中などの理由で抜けている年もありますが、ほぼ毎年開催されています。

最初の記録である1900(明治33)年の『年酒記録』には当日の段取りや各部屋の飾り付のほか、誰がどこでどんなお手伝いをするのかまでこと細かく記録されています。これを繙いて、当時の様子に思いを馳せてみましょう。



1900(明治33)年の「年酒」は1月24日の午後4時から、伏見町芝川邸にて行われました。芝川栄助、芝川照吉らの親族をはじめ、芝川店支配人の香村文之助ほか店員、「芝川紙製漆器工場」の技術者である間瀬正信など20人以上の方々に案内状が出されています。

まず来会者は芝川邸西側の心斎橋筋路次口(ママ)より邸内に入り、待合、茶室に通されます。

待合席、茶室の飾り付はそれぞれ下記の通り。
※■は判読不能文字

待合席
幅:其角ノ鶯ノ句 置物:完瑛十二月ノ巻 軸盆:青貝ノ唐物 屏風:高齢張リ交セ

茶室
幅:呉春蓬莱山 置物:住吉蒔絵硯箱 花生:信楽 銘ねざめ 花:椿、菜種
卓:一貫高簾 煙草盆:桐 火入:金ノ瓢 炉縁:高台寺 炭取:さざへ
香合:梁付蝦 水差:金陽 棗:梅花ノ絵 蓋置:紅玉香炉 茶杓:如心斎鵲鴒
茶碗:一入ノ黒さざれ石 替茶碗:萩 菓子鉢:赤絵ノ魁 菓子盆:唐物ノ独楽
茶:銘(記入なし) 菓子:腰高饅頭、千代万代

お茶室でのお点前の後は、本家座敷より2階の広間へ。

座敷飾り付
幅:旧宅ノ図 直城■ 花生:花木蓮

西茶ノ間飾り付
幅:雪中梅 玉峯筆

二階西ノ間
福引品陳列

二階広間飾り付
幅:伊川院 鶴ニ松ノ三幅対 卓:一閑平卓 香炉:青磁 置物:桐料紙文庫 花鳥絵
花生:銅大花生 花:梅ニ椿 置物:天然石台付 画帖:反古張り

2階広間では全員が席につき、寛政2(1790)年創業の老舗料亭「堺卯」から料理人が出張して用意されたお料理を楽しみます。

献立
一、座附雑煮:ノシ餅、カシハ、亀甲形大根、牛蒡、数ノ子、ゴマメ
一、三ツ組金鉢:当主ヨリ二ツ左右ニ廻シ退席■壱個納杯ニ廻ス
一、取肴:玉子厚焼、百合丸煮、鯛切リ焼、牛蒡ノ銭切リ、蒲鉾
一、吸物:鯛千切リ 初霜
一、茶碗寿シ
一、肴:白魚ノ佃煮、フキノ塔
一、作り:サゴシ、鮭
一、肴:酢カキ
一、たき出し:新こぐり、鰕の皮むき
一、氷もの:蜜柑

膳部
一、 焼物:鯛
一、 煮物:さわら、うど、椎茸
一、 汁:味噌 すり流し
一、 向ふ付:赤貝、大根、木のこ

お酒もいただいて、お腹もいっぱいになりそうですね。

さて、お食事をいただいた後はお待ちかねの福引です。
福引の品物には、吹寄せ干菓子、西洋菓子、コーヒー糖、鶏卵、朝日ビール、籠入蜜柑、みるく一鑵、正宗一本といった飲食物から、煙草入、煙管、櫛・笄、傘、羽織の紐、がま口、棕櫚箒、桶といった日常で使う品物、煎茶茶碗、支那製頭巾、硝子菓子器やご隠居(初代芝川又右衛門)筆の「富士の図」、「からすの図」といった絵画までが用意されたようです。これは大興奮しそう。お座敷で大いに盛り上がる参加者の姿が目に浮かぶようです。

さてこの「新年会」、明治年間は伏見町芝川邸で行われていましたが、大正に入ると福引はなくなり、浪華橋灘萬ホテル、今橋ホテル、北浜日本ホテル、中之島大阪ホテル、北浜野田屋、堂島ビル9階清交社といった会場で食事会が開催されるようになります。

最後に、当時のメニューを数枚添付して本記事の締めといたしましょう。


▲1924(大正13)年 灘萬ホテル


▲1935(昭和10)年 清交社


▲1940(昭和15)年 野田屋


▲1941(昭和16)年 宝塚ホテル
(以上、全て千島土地株式会社所蔵資料B01_006より)


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。

芝川家の「家法」

2010-05-19 16:40:35 | 芝川家について
明治維新の時代の変動を乗り越えた日本の富豪や名門の家の中には一家の者が守るべき決まりごとを定めるところが多くありましたが、芝川家にもそうした文書が残されています。

現存するそれら史料の中で最も古いのが『瑞芝録』に収められている「家憲」と「規則」です。

「規則」は事業に関する取り決めを定めたもの。その冒頭に「今般示談の上、規則改正致し候につき…」とあることから、芝川家にはこれに先立つ何らかの決まりごとが存在したことがわかります。しかしながら、その内容がどのようなものだったのかは残念ながら知ることができません。

また「規則」の最後には「明治九年丙子一月元日」の記述がありますが、この前年に初代・芝川又右衛門が息子の二代目又右衛門に家督を譲っています。

一方「家憲」には日付の記載はありませんが、芝川家財産の運用・継承に主眼が置かれた内容であることから、「規則」と同じ頃、初代又右衛門の隠居に際して、初代又右衛門が自ら築いた財産を安定的に後世に受け継ぐために定めたものではないかと思われます。

初代又右衛門は芝川家入婿後、唐物商(貿易商)として財を成し、百足屋又右衛門(百又)の祖となり、1878(明治11)年から土地の購入を始めます。土地を購入したのは銀行にお金を預ける代わりに財産を保全する方策だったと言われていますが、1886(明治19)年には唐物商を廃業し、不動産業に転じました。

この芝川家の大きな転換の時期に定められたであろう「家憲」「規則」は、財産の維持・運用に対する初代又右衛門の基本的な考え方を窺うことができる貴重な史料なのです。



芝川家の「家憲」「規則」はこの後も時代に応じて改定されていったようで、社内には「芝川家々則」(昭和十七年十二月十日現行ニ依リ整書)や「芝川家則」(昭和三十七年四月一日より実施)も残されています。

前者「芝川家々則」がいつ頃成立したものであるかはわかりませんが、明治期に初代又右衛門により定められた「家憲」「規則」とは大きくその体裁を異にしており、またその内容には住友家家法との類似点が見られます。

日本では1889(明治22)年の大日本帝国憲法発布前後から華族・商家・地主の諸家で家憲制定の動きがあったそうですが、その頃に成立した名門緒家の家憲の中には1882(明治15)年に制定された住友家家法の影響が色濃く見られるものもあります。

住友家家法制定に主導的な役割を果たした初代総理代人・広瀬宰平とも親交が厚く、また1892(明治25)年には芝川店支配人として住友から香村文之助を迎えるなど住友との関係が深かった芝川家においても、その家憲成立にあたり住友家家法を参考にした可能性は大きいと考えられます。

芝川家事業は広瀬や香村といった住友の人々との関係の中で明治20年代に経営の近代化が図られており、家憲についても、その頃に何らかの大きな変更があったのかも知れません。


■参考資料
「近代住友家法の成立・伝播と広瀬宰平」(住友史料館報 第三七号抜刷)、末岡照啓、平成18
「瑞芝録」、芝川又平口述、木崎好尚編(非売品)
「小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―」、芝川又四郎、1969(非売品)
千島土地株式会社所蔵資料 B01-001 「芝川家々則」
千島土地株式会社所蔵資料 B01-002 「芝川家則」
千島土地株式会社所蔵資料 B01-004 「家憲、規則」


*追記(2010/07/05)*

この記事を書いた後日、『芝蘭遺芳』に芝川家の家法についての記事を発見しました。

それによると、恐らく1874-1875(明治7-8)年以前に初代・芝川又右衛門が「家憲」を定めたと記述されていました。これは「規則」にやや先立つ時期であるものの、やはり初代又右衛門の隠居に際した時期であることに変わりはないでしょう。

また更に興味深いのは、1893(明治26)年頃に二代目又右衛門が「家則」を制定し、それが『芝蘭遺芳』の筆者でもある店員・津枝謹爾の意見を容れて変更されたという記述です。

そのいきさつは以下のようなものでした。

制定された「家則」が店内で回覧された際、当時23歳の津枝謹爾は言葉が難しく内容に時代錯誤な点があると感じ、当時の支配人・香村文之助(1892(明治25)年に住友より芝川店支配人に就任)にそう意見したところ、香村も同感としてそのことを又右衛門に申し伝えました。又右衛門は本件に関し会議を招集し、結果として「家則」の起案が津枝に委ねられることになりました。津枝は住友家その他諸会社の定款、規則等を参考として成案を提出し、それが採用され、芝川家の「家則」として制定されたというのです。

後年、『芝蘭遺芳』の執筆に際して津枝は、今振り返ってみれば弱冠23歳の若輩者が発布された家法に向かって意見するなど無鉄砲で驚く外ないが、旧案の撤回に踏み切り、ましてや若造の自分に新たな起案を命じた又右衛門の雅量の大きさには敬服のほかないと、親しく仕えた亡き二代目又右衛門の人柄を偲んでいます。


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。

興福院(こんぶいん)と芝川家

2008-05-27 14:45:44 | 芝川家について


芝川家と縁が深く、これまで本ブログ内でもいくつかのエピソードをご紹介してきた奈良の興福院(こんぶいん)のご住職・日野西徳明院主さまにお目にかかり、お話を伺うことができました。先にご紹介した芝川家の記録と少し異なる部分もありますが、今回は伺ったお話を中心に、芝川家の資料も参照しながらお話を進めたいと思います。

            *  *  *  *  *

さて、興福院と芝川家とのご縁は、初代・芝川又右衛門と乳兄弟の間柄であった京都の華族・飛鳥井家のご息女が後に興福院のご住職(飛鳥井清海院主さま)となられたことに始まります。このようなご縁から、又右衛門は飛鳥井院主さまより目をかけていただいていました。

又右衛門が芝川家に入婿する以前に取り組んでいた鹿背山焼(陶業)の奈良での販路開拓の際には興福院の手助けをいただき、貿易事業において積荷が難破した際にも興福院の口添えで融資を受け、再起することが可能になりました。また、幕末、又右衛門が事業(唐物商)のトラブルから苦境に陥った際には、事態が落ち着くまでの間、三ヶ月ほど興福院に匿ってもらったこともあったそうです。
この様に、又右衛門は興福院より、折に触れて大小の援助を受けていました。


興福院に伝わる江戸末期の鹿背山焼。
又右衛門との関係から入手されたものなのでしょうか。


又右衛門は、後に大阪を代表する富豪に成長していきますが、草創期に無償の援助を惜しまなかった興福院に多大な恩義を感じていたことでしょう。

明治2年頃、周辺の村人が興福院に預けたお金の返金を求めて、奈良県知事の制止も届かず「返金してくれなければ興福院を潰す!」との大騒動が起きた際には、又右衛門は知らせを聞くや否や馬の背に千両箱を二箱積み、くらがり峠を越えて興福院に駆けつけ、騒ぎを鎮静しました。また、上知令により興福院の存続が危機に瀕した際にも地所を寄付しています。

            *  *  *  *  *

こういった芝川家からの力添えに対し、興福院からは、院内に一碑を建立して芝川家先祖累代の冥福を祈りたいとの申し出がありました。これを受けて、明治18年6月18日、又右衛門はちょうど購入していた古代木製多宝塔を寄付します。この多宝塔の内部には芝川家祖先の真影が納められ、現在も、大切に本堂に安置されています。


芝川家寄付の多宝塔。
重要文化財であるご本尊の阿弥陀三尊像の脇に安置されています。

            *  *  *  *  *

また、西宮市甲東園の2代目・芝川又右衛門邸内八角堂(寿宝堂:武田五一設計)に安置されていた観音像と厨子(春日厨子)も、八角堂が龍興寺(名古屋市)に移築される際に興福院に寄贈されています。


旧芝川又右衛門邸内八角堂の観音像


「芝蘭遺芳」にはこの観音像について「藤原全盛期の作にして、興福寺千体物の一体にして同時代優秀なる作と称され国宝にも擬せられ得るものにして・・・」とあり、大変に由緒のある像であることが伺えます。前出の多宝塔にしろ、この観音像にしろ、恐らく明治時代の廃仏毀釈で売りに出されていたものを芝川家が入手したのではないかとのことでした。


            *  *  *  *  *

興福院の存在がなければ、そして芝川家の存在がなければ、お互いの危機を乗り越えることができず、それぞれの“今”は存在しなかったかも知れない・・・そう思うと、感慨を禁じ得ません。互いに受けた恩に対する深い感謝を持ち続けたからこそ、興福院と芝川家の間にはこの様な素晴らしいご縁が結ばれたのでしょう。


■参考
007.初代・芝川又右衛門 ~芝川家入家まで その3~
010.初代・芝川又右衛門 ~唐物商としての出発~

■参考資料
「瑞芝録」、芝川又平口述、木崎好尚編(非売品)
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。


芝川家とは

2007-11-06 10:11:10 | 芝川家について
1912(明治45)年に千島土地株式会社を設立した芝川家は、江戸時代より、大阪を中心に何代にもわたって多数の事業を手掛けてきた一族です。「千島土地 アーカイブ・ブログ」の初回は、芝川家がどのような一族であったのか、家系図をご覧いただきながら、その概要をご紹介しましょう。



まず、芝河多仲、この方が芝川家の祖とされる方です。対馬の出身で、京都で医師をしておりました。

多仲の娘・わかに婿入りしたのが、京都室町の呉服商・百足屋 奥田仁左衛門家で手代をしていた新六です。新六は後に、大阪淀屋橋筋浮世小路に独立し、やはり「百足屋」の屋号で呉服商を営みました。

新六には男の子がなかったことから、長女・たきが、兵庫県有馬郡大河瀬村・城戸家の手代であった藤助を婿に迎えます。藤助は、新六の没後、新助と名を改め、1837(天保8)年頃より、大阪伏見町4丁目に移り、唐物商(貿易商)を始めました。この新助の代より、“芝河”から“芝川”になったと言われています。

新助の長女・きぬに婿養子として迎えられたのが、のちに初代・又右衛門となる中川利三郎です。初代・又右衛門が大阪伏見町心斎橋筋において唐小間物商として独立したことで、芝川家は「百足屋又右衛門(百又)」と「百足屋新助(百新)」に分かれることになります。

「百又」芝川家として独立後、又右衛門も商人として成功、大いに財を成しますが、1883(明治16)年、突如唐小間物商を廃業し、土地の購入を始めます。これには変動の時代、唐小間物商は目利きのいる危険な仕事であり、徒に財産を増やすことに固執するよりも、これまでに築いた財産の守勢こそ重要であるとの又右衛門の深慮がありました。以後、二代目又右衛門、又四郎と、土地・不動産の運営が芝川家の主な事業となり、現在に至るのです。


■参考資料
『小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―』、芝川又四郎、1969(非売品)
『日本を創った戦略集団 建業の勇気と商略』、堺屋太一責任編集、集英社、1988

※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず当ブログ管理者までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。