千島土地 アーカイブ・ブログ

1912年に設立された千島土地㈱に眠る、大阪の土地開発や船場商人にまつわる多彩な資料を整理、随時公開します。

伏見町芝川本邸 ~明治23年から大正15年まで~

2010-02-15 15:26:28 | 芝川家の建築
明治23(1890)年、伏見町芝川邸では大規模な改築工事が行われます。伏見町通沿いの敷地東北部、現在のタイムパークの場所には、煉瓦造2階建ての洋館が建ち、その後ろには大きな日本館、心斎橋筋と伏見町のかどに土蔵が建てられました。


(千島土地株式会社所蔵資料 P21_001)


(千島土地株式会社所蔵資料 P21_002)
伏見町通と心斎橋筋の交差点より見た芝川邸。
この頃から既に電柱と電線はかなりの存在感を放っています
この頃の伏見町芝川邸について、手描きの見取図が残っています。


(千島土地株式会社所蔵資料 F02_003_004)
図の上部に記されているのは芝川店店員の人々の名で、この図面は当時の伏見町芝川邸の様子を知る人々の意見を集めて書き上げられたものではないかと考えられます。


(千島土地株式会社所蔵資料 F02_003_002)
清書された図面がこちら。

これらの図面と共に見つかった、旧社員から千島土地株式会社5代目社長・山本嘉蔵宛ての書簡から、これらの図面は昭和44(1969)年頃に描かれたものと推察されます。

図面の中で詳細が記されていない西側仏間の周辺について、書簡には次のように記されています。
「仏間の北側には、一室がもひとつあり、その北側には二階の大広間に通ずる階段があったと思いますし、仏間の南側の部分には部屋があったのか空地だったのかはっきりしませんし、この仏間の南側を西へ抜けて即ち仏間の裏側、心斎橋筋に窓を持つ壱室が設けられて病室とし、寝台が入れられてありましたが、誰も病気をしなかったので、結局だれも入室しなかったと思います。」

このブログでもしばしば資料として取上げる、芝川又四郎回顧録「小さな歩み」にも、当時の伏見町芝川家について触れられた部分があります。
「このころの伏見町の家は、伏見町側の門を入ると正面に玄関があり、その左に内玄関があります。玄関はお客様が上がるところ、お客様でも村山さんのように心やすい人は内玄関から入ります。私たち家族や店の人たちはもちろん内玄関ばかり通ります。玄関の奥は本家で、その奥が中裏、そして一番奥の道修町寄りが大裏です。」

中裏とは又四郎の祖父母・芝川又平(初代又右衛門)と妻・きぬが、大裏とは又平の父・中川重右衛門が住んでいた(住んだ)建物を指しました。

それにしても、図面下半分には池や築山を備えた本格的な庭園やテニスコートがあることには驚かされます。
「道修町と伏見町の間の下水道の南にわりあい広い地面があったので、大きな石を運び、池を掘り、築山をつくり、八重桜やモミジを植えて、築山の一番上にはモミの木を植えました。いまのようにばい煙などの公害はありませんから、モミの木もよく育ち、カラスが巣をつくりました。泉水にはコイを放し、水道が引かれてからは、築山の一番上にパイプを引いて、石を置き変えて滝にしました。それから下水道の南側に磯矢完山というお茶の宗匠(筆者注:磯矢宗庸の間違いか)の設計で、平屋で一部二階建ての家を建てて、そこを隠居所にして祖父母夫婦(筆者注:又平夫婦)が住み、道修町に自分の父(筆者注:又平父・中川重右衛門)を住まわせました。」

中川重右衛門は明治12(1879)年に亡くなっていることから、この文章は今回ご紹介している明治23(1890)年以降の伏見町芝川邸よりも少し早い時期の様子を語ったものでしょうが、昭和4(1929)年に芝川ビルで開校した「芝蘭社家政学園」卒業生の「芝川ビルの南側にあったお茶室から綺麗なお庭が見えた」という証言からも、伏見町芝川邸は、この時期もまだ見事な庭園を抱えていたのでしょう。


■参考
伏見町芝川邸 ~幕末から明治23年まで~
大阪伏見町 芝川家「旧洋館」
大阪伏見町 芝川家「旧洋館」Ⅱ


■参考資料
千島土地㈱式会社所蔵資料 F02_003_005
「小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―」、芝川又四郎、1969(非売品)


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。


伏見町芝川邸 ~幕末から明治23年まで~

2010-02-12 15:48:23 | 芝川家の建築
現在、芝川ビルが建つ地に芝川家が本邸を構え、事業の拠点とするようになったのは嘉永5(1852)年のこと。当時の様子は知る由もありませんが、「芝蘭遺芳」には「旧幕時代明治23年迄の伏見町芝川本邸」という写真が掲載されており、明治23(1890)年に大規模な建て替えが行われるまでの芝川本邸は、恐らく明治以前の面影を残していたと思われます。


旧幕時代明治23年迄の伏見町芝川本邸(「芝蘭遺芳」より)


(千島土地株式会社所蔵資料 F02_006)
こちらは明治23(1890)年の建て替え工事に際して、工事着手前の様子を日本画家・深田直城が描いたものです。

子供時代をこの家で過ごした芝川又四郎(明治16(1883)年生まれ)は、次のように回想しています。
「伏見町の家は大阪特有の格子づくりで、京都風の紅がらを塗ってありました。格子のうちは紙障子でした。私の家も半分は、格子づくりで、あとの東半分はへいになっていました。へいも東京や京都とは、またちょっと違います。下半分に舟板を張り、上は壁塗りでかわらが乗せてあります。そのへいのうちらに、つるバラを植え、伸びたバラがへいの上を越えて実にきれいな花が咲きました。」

このお屋敷、内部は一体どのようなものだったのでしょうか。


(千島土地株式会社所蔵 F02_001_001)

この平面図は、いつ、どのような経緯で描かれたものかわかりませんが、「伏見町本家■■」と題した図面の右下には「伏見町四丁目通り」*)の文字が見られ、また、土蔵の位置が上記の絵画と大体一致することからも、恐らく、この時期の芝川邸の図面であると思われます。

図面左下の「入口」の右脇に「店 八帖」と見られますが、こちらは又四郎の父・二代目又右衛門が明治23(1890)年に洋館が建設されるまで雑貨の商売をしていたというお店のことでしょうか。

当時、芝川家の人々は伏見町に住まい、伏見町を事業拠点とする職住一致の生活を送っていました。しかし、初代又右衛門(又平)は須磨、二代目又右衛門は西宮甲東園でそれぞれ晩年を過ごし、又四郎も独立後は帝塚山や阪神間に居を構え、伏見町は芝川家の生活の舞台から遠ざかります。

昭和に入ると芝川ビルが建設されるなど、オフィスとしての色合いは益々濃くなり、今や幕末から明治期にかけての面影を偲ぶよすがはありませんが、こうした史料は当時の暮らしの片鱗を私達に垣間見せてくれます。


*)現在、芝川ビルの住所は「伏見町三丁目」だが、平成元(1989)年までは「伏見町四丁目」であった。


■参考
大阪伏見町 芝川家「旧洋館」
大阪伏見町 芝川家「旧洋館」Ⅱ


■参考資料
「小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―」、芝川又四郎、1969


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初代・芝川又右衛門 ~蒔絵への情熱 芝川漆器合名会社~

2010-02-08 17:39:56 | 芝川家の人々
明治23(1890)年に設立された浪花蒔絵所(後の日本蒔絵合資会社)は、シカゴ万国博覧会をはじめ、国内の博覧会や共進会にも積極的に出品し、数々の賞も受賞してきました。

しかしながら、将来を担う良工の育成を主眼としていたこの事業は、そもそも営利目的ではなく、会社組織として運営する際に色々と不都合が生じてくるようになります。出資者である住友家、芝川家協議の結果、明治31(1898)年、合資会社を解散し、以後は芝川家の個人経営に切り替えられることとなりました。

一方、かねてより漆器類には、欧米の空気の乾燥によって破損してしまうという弱点があり、シカゴ万博の際にも、その出品作品の素地に充分な乾燥対策を施す必要が議論されていました。

こうした弱点を克服するために素地の改良に取り組むべく設立されたのが「芝川紙製漆器工場(後の「芝川漆器合名会社」)」です。

この事業は、東京高等工業学校校長 手島精一氏の紹介で、ドイツ人科学者 ゴットフリート・ワグネルの下で応用科学を研究した間瀬正信氏に芝川家が出資する形で始まったもので、明治27(1894)年より、当初は日本蒔絵合資会社の事業として三軒屋の芝川家所有の土蔵において試験的に製作が開始されました。

その後、「ヘンリーペーリー会社製350噸の汽働水圧器」を購入して本格的な製造を開始し、明治33(1900)年、蒔絵会社から分離した芝川家単独経営の「芝川紙製漆器工場」が千島新田の木津川沿いで始業しました。そこでは「紙製漆器の素地は全部型により圧搾し製出するものなるが故に新型の製作、既製型の修繕等鉄工を要するもの多」いとして鉄工業も事業として行われます。

数年後、「我紙製漆器は其の生地能く水湿と乾燥に耐え、堅牢緻密にして膨張収縮の憂なく・・・品質を根本的に改良せり」と、理想に近い製品を製造することができるようになります。しかしながら、製造に木製漆器以上の手数がかかることなどから、なかなか価格を抑えることができなかった上、間瀬氏の病気による退任や経済界の不況も重なり、その経営状況は厳しいものでした。

明治36(1903) 年には紙製漆器工場に注力するため蒔絵事業を閉鎖し、また農商務省より試験費の補助を受けるなど立て直しが図られますが、明治44(1911)年、工場での火事の発生を契機に殆ど休業状態となり、蒔絵に情熱を傾けた又平(初代又右衛門)の死去4年後の大正5(1916)年、芝川漆器合名会社は遂に解散することとなりました。

後年、又平の孫・芝川又四郎は、当時の紙製漆器を取り巻く状況について、エナメルを吹きつけて製作したドイツ製品が日本の本物の漆とは比較にならないほど安価で、日本の製品は、評判はよくても売ろうと思えば売れなかったと振り返っています。一方、「美術の技術はあくまでも保存し、りっぱなものを輸出したいというのが祖父の考えでした」との一文に、自らも蒔絵師であった又平の真の意図を垣間見ることができるようにも思われます。


■参考
初代・芝川又右衛門  ~蒔絵への情熱 日本蒔絵合資会社の設立~
初代芝川又右衛門 ~蒔絵への情熱 シカゴ万博への出品~


■参考資料
「投資事業顛末概要九 紙製漆器工場」
「世界の祭典 万国博覧会の美術」、東京国立博物館ほか編集、NHK/NHKプロモーション/日本経済新聞社、2004
「小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―」、芝川又四郎、1969(非売品)


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初代芝川又右衛門 ~蒔絵への情熱 シカゴ万博への出品~

2010-02-08 17:34:06 | 芝川家の人々
明治26(1893)年の「シカゴ万国博覧会(コロンブス世界博覧会)」は、コロンブスのアメリカ大陸発見400年を記念してアメリカで開催されました。

シカゴ万博において、日本は従来のように工芸品を輸出品と捉えるのではなく、工芸を含めた美術品を万博の美術館に展示することで、日本の文化が世界水準であると示すことを目指して、官民挙げて出品物の選定作業をすすめていきます。

シカゴ万博への出品を見据え、「有限責任浪花蒔絵所」から改組された「日本蒔絵合資会社」ですが、その設立者である住友家・芝川家からは共に廣瀬宰平、芝川又平(初代又右衛門)が大阪府の「臨時博覧会事務委員」に選任されます。

大阪府でも「全市総動員の有様」で準備が進められる中、明治25(1892)年12月1日、日本蒔絵合資会社社長 芝川又平宛に次のような通知が届きました。
「閣龍(コロンブス)世界博覧会大阪府下出品に係る渡航代理人の義、総会の決議に基き二名の内一名は貴会社を指名候條御承諾相成度候也。但汽車、汽船賃は中等実費の積を以御渡し可申筈」

この通知を受け、日本蒔絵合資会社役員・野呂邦之助は出品物の種類、意匠などの調整のため、「屏風」「菓子器」「料紙箱」、珍しいところでは「イス、ソーハ(ソファ)、テーブル」といった出品物の一部を携帯して上京します。これらの作品をもとに、森村市太郎、岡倉覚三(天心)、今泉雄作等によって、どのような品物が万博への出品物に適するかが議論されました。

そして明治26(1893)年2月、日本蒔絵合資会社からは「美術品」*)3点を含む計19点の出品が決定し、希望を託されたそれらの品々は、いよいよアメリカの地へと運ばれます。

5月、博覧会が開会しますが、当時、アメリカは史上未曾有の不景気でした。結果、売約品はわずか一点。「開会前よりの期待は全然裏切られ 多年の希望も水泡に帰し」た結果となってしまいました。

価格の高さもあって販売は思うようにいかなかったものの、芝川家の記録によると、出品物のうち「吉野山蒔絵料紙箱」、「客椅子」の2点が「銅牌」を受賞したとあります。最後にその賞状の訳文を掲載し、このお話の締めくくりといたしましょう。

「前世記の最良品に劣らざる名作にして日本美術の此の一種無類なる部門に於て美術的熟練及び忍耐の欠乏せざるを示す。例令は金地及梨子地の上に桜花の浮上げ細工を施したる料紙文庫及硯箱及其他蒔絵の如きは殊に著しき進歩を示す。」


*)万博への出品は「美術品」と「通常品」に分かれており、事前の厳しい審査を経て「美術品」として出品された漆工品はごくわずかだったという。


■参考
初代・芝川又右衛門 ~蒔絵への情熱 日本蒔絵合資会社の設立~


■参考資料
「投資事業顛末概要七 日本蒔絵合資会社」
「世界の祭典 万国博覧会の美術」、東京国立博物館ほか編集、NHK/NHKプロモーション/日本経済新聞社、2004


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初代・芝川又右衛門  ~蒔絵への情熱 日本蒔絵合資会社の設立~

2010-02-02 17:42:07 | 芝川家の人々
初代芝川又右衛門は、明治8(1875)年に家督を息子の二代目又右衛門に譲り、又平と称して隠居します。隠居生活の中で又平が力を注いだのが、実家の家業であり、芝川家への入家以前に自らも一時生業としていた蒔絵でした。

明治初期、漆器は西洋の富裕層の間で大変人気があり、日本の重要な輸出品のひとつに位置づけられていました。しかしながら、こういった状況から漆器の粗製濫造が進み、明治10年代半ばには輸出品としての評価にも翳りが見られるようになります。

又平が再び蒔絵を志したのはちょうどその頃のこと。明治18(1885)-19(1886)年頃、又平は道修町4丁目の持家を提供し、篤志者数名を抱えて蒔絵の技の研究に取り組むようになります。更に、より広く長く蒔絵の技術を伝承、発達させたいと蒔絵学校の設立を企図しますが、資金や法規等の関係から実現せず、明治23(1890)年4月、住友、芝川両家で半額ずつ出資して、道修町4丁目6番屋敷に創設されたのが「有限責任浪花蒔絵所」でした。

明治20年代は漆器の製作環境の見直しが図られた時期であり、折りしも前年の明治22(1889)年に開校した東京美術学校(現・東京芸術大学)にも漆工科が設置され、漆工技術の新たな担い手育成への取り組みが始まっていました。

蒔絵学校設立に端を発する浪花蒔絵所も後進子弟の養成を主な目的とすることに変わりはなく、資料からはその設立後も、有効な指導方法や意匠図案の選択について、専門家に意見を求めていたことが伺えます。

さて、浪花蒔絵所開業翌年の明治24(1891)年、2年後に米国で「シカゴ万国博覧会(コロンブス世界博覧会)」が開催されるというニュースが伝わります。これぞ日本独特の妙技・蒔絵を世界に宣伝する好機であるという住友総理人・廣瀬宰平氏の考えの下、浪花蒔絵所では博覧会に向けて業務の進展が計られることとなります。その中で、従来の組合事業から法人への改組が実施され、明治25(1892)年12月、「有限責任日本蒔絵合資会社」が誕生しました。

その設立趣意について、「日本蒔絵合資会社 付属徒弟教養規則」には、
「我国特有の妙技として往古より伝習し来りける蒔絵術をして益滋振起発達せしめん為め是に後進子弟を教養し将来良師良工を輩出し愈精巧緻密を極め我邦特技を海外に発揮せんことを謀る」
と記されており、ここでも後進の育成が目指されると共に、世界の桧舞台である万国博覧会に向けての又平の志や意気込みも伝わってきます。

生徒には入学金、授業料を納めて学ぶ「自費生」の他に、蒔絵会社内に宿泊し、諸物品が貸与される「貸費生」があり、「貸費生」には卒業後満三年、蒔絵所で後進の育成や製品の製作にあたることが義務付けられました。

在学年限は5年間で、授業時間は午前7時始業 午後7時終業のなんと1日12時間、休日は毎月1日と15日、大祭日、年末年始、氏神祭礼に限られており、現代の“ゆとり教育”からは想像もできない教育課程です。

一方、器物製作と筆記・口頭の両試験からなる定期・卒業試験では、試験結果が優秀な生徒にはご褒美が出るという生徒にとっては励みになりそうな規定も。

高度な蒔絵の技術を身につけるためのハードな授業ながら、生徒達は志高く、熱意をもって日々技術の練磨に励んでいたのではないでしょうか。


■参考
初代・芝川又右衛門 ~芝川家入家まで その1~


■参考資料
「投資事業顛末概要七 日本蒔絵合資会社」
「世界の祭典 万国博覧会の美術」、東京国立博物館ほか編集、NHK/NHKプロモーション/日本経済新聞社、2004
東京藝術大学サイト


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