千島土地 アーカイブ・ブログ

1912年に設立された千島土地㈱に眠る、大阪の土地開発や船場商人にまつわる多彩な資料を整理、随時公開します。

加賀正太郎と竹鶴政孝と芝川又四郎と

2010-03-09 11:00:38 | 芝川家周辺の人々
タイトルの3人は、共に大日本果汁株式会社(現・ニッカウヰスキー株式会社)に関わりの深い人々です。

「日本のウイスキーの父」竹鶴政孝は、大日本果汁㈱の創業者。
加賀正太郎、芝川又四郎は、食通で知られた柳沢保恵(やなぎさわ・やすとし)と共にその主な出資者でした。

この度は、この3人の関わりについて、詳しく解き明かしていきましょう。



◇加賀家と芝川家のエピソード①
兵庫県の須磨において、別荘がご近所だった。


▲海側より見た芝川家須磨別邸(千島土地株式会社所蔵資料 P12_001)

加賀家と芝川家はそれぞれ本邸を大阪の高麗橋と伏見町に構えており、もともとご近所だとも言えますが、共に別荘のある須磨の地で、加賀正太郎、芝川又四郎の先代から親しいお付き合いがありました。

特定非営利法人須磨歴史倶楽部発行のパンフレット「須磨ゆかりの華麗なる近代人物伝」からは、海岸沿いに加賀邸と芝川邸が隣り合って建っているのがわかります。

又四郎は回顧録の中で、一軒おいて東隣が加賀邸だったと述べていますが、芝川家の須磨別邸は漸次買い増しされて拡大したことから、後に加賀家別邸とお隣になったのかも知れません。


◇加賀家と芝川家のエピソード②
又四郎の弟・又之助が登山好きで加賀正太郎と心安くなった。


▲芝川又之助(千島土地株式会社所蔵資料 P11_015)

又四郎の弟・又之助は、中学生の頃より昆虫採集に関心を持ち、登山を好みました。一方、加賀正太郎も子供の頃から蝶の採集に熱中し、登山では1910(明治43)年に日本人として初めてスイスの高峰・ユングフラウ登頂を成し遂げています。

共に1888(明治21)年生まれの正太郎と又之助は、「大阪山岳会」という会の機関紙編集の打合せなどを通して親しくなり、又之助が又四郎に正太郎を紹介したと言います。



◇竹鶴家と芝川家のエピソード
竹鶴政孝が英国帰国後に住んだ家の大家が芝川又四郎だった。

英国留学から妻・リタを伴って帰国した竹鶴政孝は、大阪の帝塚山姫松に居を構えます。この時の大家が又四郎で、家は英国人であるリタのために洋風のトイレットを備えたものでした。

この家は、又四郎の父・二代目又右衛門が武田五一を通じて「あめりか屋」*)に建てさせ、又右衛門の執事が住んでいたのを姫松に移築したアメリカ風の洋館だったと言います。

当時(大正10~12年頃)は又四郎も帝塚山姫松に居を構えており、又四郎の娘たちは近所に住むリタから英会話を習いました。


▲又四郎の子供たち(1924(大正13)年頃帝塚山姫松の芝川邸前にて)
(千島土地株式会社所蔵資料 P11_034)

帝塚山姫松の芝川邸、竹鶴邸がどの辺りにあったのかは定かではありませんが、又四郎の述懐とその頃の住宅地図からは、南港通り沿いに建つ当社の「帝塚山タワープラザ」(安藤忠雄建築研究所 1976年竣工)の南に竹鶴邸、その西隣に芝川邸が建っていたのではないかと推察されます。


※追記:
後に帝塚山の芝川邸、竹鶴邸の場所は特定されました。
詳しくは「帝塚山の竹鶴邸と芝川邸」をご覧ください。




◇加賀家と竹鶴家のエピソード
寿屋(現・サントリー株式会社)勤務時代の竹鶴邸と大山崎の加賀邸がご近所だった。

1923(大正12)年、竹鶴政孝は鳥井信次郎の招きで寿屋に入社、山崎の工場建設とウイスキー製造に携わります。当時山崎に別荘を構えていのが加賀正太郎でした。最初は芝川又四郎が竹鶴政孝を加賀正太郎に紹介したことでおつき合いが始まったようですが、家が近いこともあり、正太郎の妻・千代子がリタより英会話を学んでいたとか。

この山崎の加賀邸が、現在の「アサヒビール大山崎山荘美術館」であることはご紹介するまでもありません。



最後に、当社秘蔵の写真をご紹介いたしましょう。

それはこちらの2枚。


▲西宮甲東園の果樹園を歩く、紳士淑女。(千島土地株式会社所蔵資料 P40_028)


▲こちら右端に写っているのは甲東園の主・二代目芝川又右衛門です。
(千島土地株式会社所蔵資料 P40_029)


▲拡大版

これらは1924(大正13)年頃に撮影されたものと思われますが、この写真の女性、リタさんにそっくりではありませんか?
ということは、お隣の紳士は竹鶴政孝氏でしょうか。

先日のニッカウイスキー試飲会の席上でこのお写真を披露したところ、竹鶴威氏(政孝氏子息、現・ニッカウヰスキー㈱相談役)※からは、「あごのラインがリタさんにとても似ている。」とのお言葉をいただきました。

この写真の人物が竹鶴ご夫妻との確証はありませんが、当時の交流の一端が垣間見られるような嬉しい資料です。


※竹鶴威氏は2014年12月に逝去されました。心より、ご冥福をお祈り申し上げます。


*)あめりか屋
1909(明治42)年、橋口信助によって創立された住宅専門会社。洋風ばかりでなく、和洋折衷の住宅をいち早く日本にもたらし、日本の住宅改良に大きな影響を与えた。


■参考資料
「小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―」、芝川又四郎、1969(非売品)
「芝川得々翁を語る」、塩田與兵衛、1939(非売品)


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