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千島土地 アーカイブ・ブログ

1912年に設立された千島土地㈱に眠る、大阪の土地開発や船場商人にまつわる多彩な資料を整理、随時公開します。

追記・村山龍平と芝川家6 茶道・十八会 お茶会の舞台裏

2018-08-20 09:10:22 | 芝川家周辺の人々
前回ご紹介した、芝川又右衛門が担当した「十八会」のお茶会
重鎮の方々をお招きする訳ですから、当然、念には念を入れた準備が行われたはず。

準備の様子まではわかりませんが、当日の役割分担に関する資料が残されています。

六月十八日役割
一、道修町受付 戸田貞吉
   下役 植木屋利三郎、手伝久七
一、二階受付 春海儀平 山中與七
一、来客の携帯品預かり並陳列掛 戸田政之助
一、庭廻り案内 大畠操
一、抹茶席 狩野宗匠、当主
一、煎茶席 花月庵先生
一、四畳半 西尾亀之助
一、三階下座敷及二階 黒崎奈良之助、中桐新十郎
一、給仕方 西尾亀之助、戸田貞之助、戸田政之助、春海儀平
一、出納方並車掛 三木房次郎
一、番人 黒崎奈良之助、岡本珪蔵
一、二階にての中継人 堺卯 下女
一、自動車掛 但西洋館の庭 譲吉
一、総取締役 奥村あさ
一、道具方 園田芳之助

抹茶席、煎茶席は、それぞれ又右衛門の師であった三代・狩野宗朴宗匠、花月庵田中翁が担当し、抹茶席では芝川又右衛門自らお客様をおもてなししたようです。戸田政之助(谷松屋戸田商店)、山中與七(高山中)など道具商の方々のお名前も見られるほか、三木房次郎、黒崎奈良之助、岡本珪蔵、園田芳之助といった芝川店の関係者もお手伝いをしたようです。

中でも気になったのは「奥村あさ」。
堺卯の下女を除けば唯一の女性で、しかも「総取締役」という大変重要そうなお役を担っておられます。

この方、芝川店の関係者であることは明らかなのですが、詳しいことは何もわかりません。
ただ、写真が数点残されていますのでご紹介いたします。


奥村あさ(千島土地株式会社所蔵資料P35_005)
聡明なお顔立ちの美しい方です。


芝川又四郎、たけ婚礼写真(明治42年、同P01_006)
前列左から 奥村あさ、芝川りく、芝川たけ、香村さき
後列左から 芝川又太郎、芝川又右衛門、芝川又四郎、香村文之助
香村文之助は芝川店支配人。香村さきは夫人でしょうか。奥村あさの名前の脇には「別家」の表記もあります。「別家」とは、主人からのれん分けを許されて独立することを言いますが、芝川店においては支配人格の家族の集まりのことを指したようです。(*)


同上(同P01_001)
前列左から 黒﨑さと、園田ひで、奥村あさ、井上しか、橘いと
後列左から 奥村栄枝、島谷かえ、園田そえ、立田よね
皆さんの名字から芝川店関係者のご夫人方の集合写真ではないかと思われます。ということは、奥村あさは芝川又右衛門の総理代(総代理人)を務めた奥村利三郎の夫人である可能性が高いと言えます。なお、全員が芝川家の女紋が付いた着物を着ていますが、別家の人々は、新年や芝川家にお祝いごとがあった折には、濃紫、無地の揃いの着物を着て、「別家一同」として芝川家に挨拶行ったとも言われており(*)、それはまさにこの写真のような様子だったのかも知れません。


左から香村文之助、芝川又四郎、奥村あさ(同P06_073)
何の折に撮影された写真かはわかりませんが、芝川店の支配人、芝川家の次代当主と共に写っていることを考えると奥村あさは芝川店においてかなり重要な人物であったことが想像できます。それにしても背筋の伸びた凛とした姿は気品に溢れています。

こうして写真を見てみると、想像以上に家族ぐるみで主家に仕える様子が伺えます。更にこうした大切な茶会において重要な役目を任されるとは、いわゆる「奥様会」の枠を超えた重責ではないでしょうか。実際には、「総取締役」がどのような役割であったのか、その詳細は全くわからないのですが、明治30年代に「夫のサポート」を超えて女性が活躍する姿を想像してついワクワクしてしまいます。



随分と話が逸れてしまいましたが、18日に開催された「十八会」のお茶会、実は大変興味深いことに、翌19日にもう一度お茶会が開かれているのです。こちらはおつき合いのあった道具商や画家、親族や芝川店の重役などを招いた、いわば「内輪のお茶会」。料理の献立などは前日に比べ質素ですが、抹茶席、煎茶席を設け、恐らく前日のしつらえをそのままに、身内の茶会を楽しんだのでしょう。


*)芝川家別家の一人・園田友七のご子孫へのヒヤリング(2011年実施)において伺ったお話による。


■参考資料
「芝川茶会記録」、管宗次氏所蔵資料
『近藤就運書 芝川家記録抄 家長原簿』(千島土地株式会社所蔵資料B01_201)


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。

村山龍平と芝川家6 茶道・十八会

2018-08-20 09:03:33 | 芝川家周辺の人々
■参考
村山龍平と芝川家
村山龍平と芝川家2 朝鮮貿易
村山龍平と芝川家3 大阪共立商店
村山龍平と芝川家4 三平舎(三平株式会社)
村山龍平と芝川家5 大阪殖林合資会社
追記・村山龍平と芝川家5 大阪殖林合資会社 経営地写真


7月7日(土)から9月2日(日)まで中之島香雪美術館において開催されている開館記念展の第三期「茶の道にみちびかれ」では、茶の湯の会「十八会」についても紹介されています。

「十八会」とは、関西を中心とした実業家18名が参加する茶の湯の会で、藤田伝三郎、上野理一、村山龍平が発起人であったといいます。会員が持ち回りで幹事を務め、毎月18日に自邸で茶会を開きました。

二代目芝川又右衛門もこの「十八会」の会員でした。芝川家の記録によると、明治35年1月に山中吉郎兵衛邸に集まり、会の名称を「後楽会」にすること、会員は20名以下とすること、毎月18日に幹事の自宅で茶会を開催すること、7~9月は暑中のため休会すること、煎茶、抹茶は随意であること…といった「十八会々規」が定められます。

続く第2回は松本重太郎邸で開催され、この席において、籤によって下記のように幹事が決められました。

第3回 明治35年3月 村山龍平
第4回     4月 樋口三郎兵衛
第5回     5月 田中市兵衛
第6回     6月 田村太兵衛
第7回     10月 嘉納治兵衛
第8回     11月 藤田伝三郎
第9回     12月 住友吉左衛門
第10回 明治36年1月 高谷恒太郎
第11回     2月 西村輔三
第12回     3月 上野理一
第13回     4月 阪上新次郎
第14回     5月 磯野小右衛門
第15回     6月 芝川又右衛門
第16回     10月 嘉納治郎右衛門
第17回     11月 豊田善右衛門
第18回     12月 小綱與八郎
第19回 明治37年1月 殿村平右衛門

そして村山邸で開催された第3回。中之島香雪美術館の展示では、ここで実際に使われたお道具類を拝見することができます。そしてこの時に会の名称が「十八会」に改められました。


さて、芝川は明治36年6月の第15回を担当。大阪市中央区伏見町の芝川家本邸と、その南隣に建ち、「中裏」と呼ばれた道修町別邸(隠居屋敷)での開催でした。残念ながら当社に資料は残っていないのですが、武庫川女子大学の管宗次教授が所蔵しておられる芝川家旧蔵の茶会記にしたがって、この時の模様をご紹介したいと思います。少し長くなりますがお付き合い下さい。


<招待状>
※異体字や旧仮名遣いは常用漢字や現代仮名遣いに直して表記しています。
※判読できない文字は●で記しています。
拝啓 陳は来る十八日拙宅にて十八会開催●候間 同日午後二時より三時迄の内御●●御来臨下されたく ●覧に●するもの之無もご遊覧下され候はば大慶奉存候 追って御愛蔵品一二点ご携帯被成下度 当準備の都合之有候間 お差支えの節は予め御一報下されたく候 道修町心斎橋東へ入る北側の入口より御入来下されたく候 六月 芝川又右衛門

文中に「御愛蔵品一二点ご携帯下されたく」とありますが、十八会の規約には、30円以上の品に限り一品持参し、入札によって売却することと記されています。他にも、持参者が売らずに引く時は、10円の罰金が科せられ、高札人(最高値をつけた人)がこれを取得すること。入札に際しては5円を出し、これは2番札の人が取得することなどが定められていました。

更に当日の入口について、「道修町心斎橋東へ入る北側の入口」と書かれていますが、以下平面図の道修町通り沿いの入口(①)のことを指すのでしょうか。伏見町本邸の入口(②)に比べると裏口のようにも見えるのですが…。




伏見町芝川本邸(上)と道修町別邸(下)(千島土地株式会社所蔵資料B01_230)


<出席者>
西村輔三、豊田善右衛門、殿村平右衛門、嘉納治兵衛、田中市兵衛、田村太兵衛、高谷恒太郎、村山龍平、上野理一、山中吉郎兵衛、松本重太郎、藤田伝三郎、小綱與八郎、阪上新次郎、住友吉左衛門、芝川又右衛門 以上16名


<各室のしつらえ>
※特定或いは推測できる部屋については、上記平面図に番号を付していますので、当日の動線を想像しながらご覧下さい。

○待合席 広間

床>応挙 龍の幅 
  吉野山料紙文庫硯箱
書院>花生砂張釣り船遠州公箱書付
   花 時計草 萩 丸葉白 秋海棠

○六畳之間

床>辺寿民 松の幅
  白錆手提籠果物盛り合せ
  カントン木瓜実 八ツ頭芋 牡丹の実 瓢柑 桜の実

○次之間
襖>半江筆天保九如

○抹茶席 松花堂好(平面図③)
※茶室「松花堂」について詳しくは過去記事「松花堂の建築」をご参照ください。

床>張即之書 松花堂箱書八幡伝来
  花生 時代竹組掛籠
  花 大山蓮
風炉>透木 了全作
羽釜>宗品 雲花
水差>唐物薬鑵
茶碗>青井戸小服 銘浅香山
替茶碗>ノンコウ黒在印 藪内竹以箱 銘玄亀
棗>五郎作黒無地袋藤種
同替茶器>直齋書付橋立松
茶杓>利休作無銘如心斎啐啄ノ箱
建水>古高取遠州公切形の内
蓋置>青竹引切
炭取>金森宗和箱書小瓢
炮烙>左入作赤
香箱>青貝一文字布袋加州候蔵帳内
煙草盆>一閑宗旦好折溜
煙草入>唐彫桃形椰子
火入>織部焼台付
菓子鉢>和蘭陀藍絵花鳥
菓子盆>宗旦書付利休桜盆随流箱
菓子>結び羊羹
干菓子>玉子素麺
茶>綾之森

○煎茶席(中裏広間八畳:平面図④?)

床>伊孚九山水幅 蒹葭堂箱書付
香炉>古雲鶴菊形
香盆>黒無地唐物四方
花生>青磁桶側平
   花 河骨 白蝶草
棚>花鳥庵好竹柱桐台子
水差>紫高麗
茶碗>木米作群仙之図
茶盆>桃形広島モール
茶托>錫水仙式
茶合>黒檀笏頭式
茶巾入>白蝋石
箸立>木米作三椒粉器
茶入>染付壺形
昆炉>木米作風窓風神
急須>木米作白高麗翔鳳
昆炉台>錫丸形
水差>秋草金象嵌
炭取>唐物白錆四方
菓子鉢>呉劦赤絵魁小丼
菓子盆>黄成作楊成極●(草冠に麦:蕎麦の合字)形
菓子>夏木立
干菓子>千代結び
煙草盆>松木地三ツ入
火入>阿蘭陀細手色絵
煙草入>籠地唐物
茶>寿星眉
旗>直入翁

○休息之間(中裏四畳半)

床>蕪村山水之幅
床柱九霊芝
帖朱南鎮花卉
巻半江花卉
同沈白山水
地袋上>漁船硯
花生>白玉扁壺式花瓶遊環
   花 赤姫百合 忍冬
万暦古赤絵筆架皿
青貝大筆
唐物箔柄中筆
絵高麗船水滴
丸形龍鳳祥呈唐墨
染付瓢形墨台
詩箋
文鎮 鉄丸形水龍象眼

○陳列席(三階之下座敷:平面図④の3階部分?)

応挙浪ノ屏風 一双
紫檀大卓
花瓶>●素●壷
   花 宮城野萩 宜男草 額草
翡翠玉皿盛物 黄苺 紅蕪 竹島百合根
碁 将棋盤

    (同二階:平面図④の2階部分?)
新書画大福十対

○酒飯席
床>一休禅師書 三幅対
無学添巻
香炉>仁清作獅子
平卓>唐物黒無地
書院>唐物中鉦
青貝軸盆

○懐石
向>鱸切身塩焼 蓼酢
汁>薄赤味噌練り胡麻 茄子 白瓜
煮物>鱧切落し 蛤 牛蒡笹掻き 椎茸 五分三つ葉 白豆腐雷仕立割胡椒
焼物>鮎山椒味噌饅頭焼
吸物>松露 梅干
八寸>鮑ノ塩煮 青唐辛子付焼
強肴>洗ヒ鱸 青紫蘇 山葵 根芋 平豆切合セ 芥子醤油
香ノ物>沢庵漬
膳椀向付小吸物椀等総じて四種類を以って交互之を組合せ使用す
飯後 桜の実 枇杷 摘ミ菓子 羽二重餅 煎茶

記事冒頭でご紹介した十八会規約には、「抹茶、煎茶は随意」と書かれていましたが、抹茶席、煎茶席を共に設け、他に陳列席として、所蔵の器物や書画を鑑賞に供したことがわかります。これは、第三回村山邸での十八会でも同様でした。

当日の具体的な流れはわかりませんが、四畳半の茶室はもちろん、六畳、八畳の部屋は16名の参加者には狭すぎるように思われますから、順次ご案内する形だったのでしょうか。


この十八会、中之島香雪美術館の展示解説によると、明治35年1月から明治36年11月の間に計17回が開催され、その後は日露戦争の政情不安のため打ち切られたとのこと(*)。結局一巡することなく幕を閉じたということになります。

十八会規約には、茶会記を記すことも定めていました。
他の回のお茶会は一体どのようなものだったのか。
関西の財界人が趣向を凝らし、毎度異なる空間、異なる道具立てで開催された十八会の茶会に興味が尽きません。


*)中之島香雪美術館開館記念展「珠玉の村山コレクション ~愛し、守り、伝えた~」Ⅲ 茶の道にみちびかれ 展示解説による。


■参考資料
『芝蘭遺芳』、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
「芝川茶会記録」、管宗次氏所蔵資料


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。


 

村山龍平と芝川家5 大阪殖林合資会社

2018-06-25 15:28:11 | 芝川家周辺の人々
■参考
村山龍平と芝川家
村山龍平と芝川家2 朝鮮貿易
村山龍平と芝川家3 大阪共立商店
村山龍平と芝川家4 三平舎(三平株式会社)


二代目芝川又右衛門は、堅実な貯蓄法として植林事業に着目していましたが、植林は門外漢が簡単に取り組めるような事業ではないため、折々に山林経営者から話を聞いたり各地の山林を視察したりといった準備を進めながら機会を待っていました。


売込十来ノ他人山林図(千島土地株式会社所蔵資料G00331)
他所より売り込まれたと思われる山林に関する資料。和歌山や奈良吉野のものが多く見られる。

1895(明治28)年頃のこと、懇意にしていた村山龍平を介して奈良県出身の代議士・植田理太郎から山林の買収話が持ち込まれます。山林は、和歌山県日高郡龍神村(現・田辺市)および寒川村(現・日高川町)の両村にまたがる、総面積が1,135町歩(11,236,500㎡)にも及ぶものでした。

この頃には既に山を見る目が養われていた二代目又右衛門は、そばに日高川が流れており、伐採した木材をいかだにして下流まで運び出せることに着目し、買収の話に応じます。


日高郡龍神村山林買得及び一件書類より小川山図面(同G00327)

1896(明治29)年、植林を行って計画的に伐採した木材を売却することで、長期的に利益を得ることを目的とする「大阪殖林合資会社」を設立。村山、植田に大阪の実業家である外山脩造を加えた4名による組合形式で経営することとしました。


大阪殖林合資会社契約証書(同G00332)
出資者に名前のある外山秋作は外山脩造の長男。『芝蘭遺芳』によると、外山秋作は会社設立後、田辺と南部(みなべ)の間の小に移住して明治38年まで事業を監督した。

1907(明治40)年には、専門家による事業調査書と意見書に基づいて原生林の伐木事業を開始することを決定し、翌1908(明治41)年に道路の掘削や作業小屋の建設などの準備工作を進めたうえで、木材の伐採に着手しました。伐採された木材は、質の良さと独自に改良した伐木法が材木商の間で好評を博し、高い値段で取引されたと言います。 




渡辺貞臣「小川山伐木事業調査書」(上・同G00340)と滋賀泰山林学博士による「森林施業意見書」(下・同 G00329)
渡辺貞臣は明治45年から大阪殖林合資会社の理事となり、御坊に移住したということ以外詳細不明。
滋賀泰山は1854(安政元)年に愛媛に生まれ、東京開成学校で鉱山学を履修した後、ドイツに留学して林学を学んだ。


小川山林産標本(同G00723)

一方、植林事業は1912(大正元)年度から毎年26町5反(262,350㎡)ずつ進められました。その後は年を追うごとに山林の手入れと植林、伐木で多忙を極めるようになり、1919(大正8)年には一部の木を立木のまま売却することもあったといいます。

その後も事業は順調に推移し、1920(大正9)年には増資も行いましたが、村山が死去した翌年の1934(昭和9)年に、二代目又右衛門は大阪殖林の事業から撤退しました。

大阪殖林は、1975(昭和50)年に住友林業株式会社に株式が譲渡された後、1987(昭和62)年には吸収合併されました。


■参考資料
『芝蘭遺芳』、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
飯塚寛「松野礀と滋賀泰山」、『森林計画学会誌32』、1999


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村山龍平と芝川家4 三平舎(三平株式会社)

2018-06-20 13:22:57 | 芝川家周辺の人々
■参考
村山龍平と芝川家
村山龍平と芝川家2 朝鮮貿易
村山龍平と芝川家3 大阪共立商店


大阪で硝子商を営んでいた平栗種吉は、当時輸入品であったランプのバーナーを国産化しようと思い立ち、1880(明治13)年、岡本清忠、阿部平兵衛の3人で「赤心社」を設立。平栗宅でバーナーの製造を開始しましたがたちまち資金的に行き詰まり、旧知の間柄である村山龍平に援助を求めます。

村山から赤心社への資金援助の相談を受けた芝川又平、又右衛門父子は、その事業が有望であると判断して出資を決意し、平栗、村山と共同で事業に取り組むことにしました。


バーナー製造のための仮約定書(千島土地株式会社所蔵資料B01_193_001)

赤心社は1880(明治13)年、大阪市北区中之島のかつて日出(ひじ)藩の蔵屋敷だった建物*)を借り受けて工場を移転。翌1881(明治14)年には、村山龍平、平栗種吉、芝川又平の姓名の中から「平」の1字をとって工場名を「三平舎」と改称し、同年9月には、西成郡曽根崎村(現・大阪市北区)の芝川家所有地に工場を新築・移転しました。

三平舎の製品は、当初こそ外国製品と比べて技術が未熟で、製造コストも割高だったことから経営は困難を極めたものの、新しい機械の導入や職人の技術の熟達によって製品の原価引き下げに努めた結果*2)、数年後には低価格で販売できるようになり、輸入品を駆逐するまでになりました。*3)

三平舎は、大阪・東京をはじめとする国内各地はもとより、中国最後の統一王朝である清国にも販路を拡大し、着実に成長を遂げていきます。1889(明治22)年には清国向けに黄銅製ボタンの製造・販売も手がけるようになったほか、従来の匿名組合から資本金5万円の「有限責任三平社」に組織を改め*4)、さらに1897(明治30)年には、資本金を15万円に増資して「三平株式会社」(以降、三平社)となりました。


三平株式会社ガスバーナーラベル(同)

以後も三平社は、火災による工場消失といった苦難を経ながらも業績を伸ばし、紡績会社を除けば大阪府下で最大の職工を抱えたといいます。1903(明治36)年には成績優秀な模範工場であるとして、宮内省から廣幡忠朝侍従の工場視察を受けました。


侍従視察の際に作成、献上された「三平社事業概要」の写し(同B01_194_002)

1912(明治45)年、三平社は資本金を50万円に増資して同業者を買収・合併します。ここにおいて、村山氏と芝川又右衛門は相談役に退き、事実上、会社の経営からは手を引くことになりました。*5)

その後も三平社は増資を重ね、1917(大正6)年には、ついに資本金を100万円として事業のさらなる拡大を図ります。しかし、ランプのバーナーは徐々に時代遅れの製品となり、需要が減少していきます。電球や自転車バルブの製造にも着手し、それなりの業績を上げますが、景気の低迷もあって経営の好転を果たすことはできませんでした。1929(昭和4)年には電球部を売却して社名を三平金属工業株式会社に変更しますが、翌年、ついに廃業することになりました。


三平株式会社営業報告書(同B01_229_041ほか)


*)中之島4丁目5番地(現在の関西電力株式会社本店ビルの南側付近)の蔵屋敷を高瀬田鶴から借り受けたとある。

*2)明治20年に三平社の製造能力は創業時の25倍以上になっていたという。

*3)創業当時、バーナー1ダースの輸入価格が1円10銭余りであったのに対し、三平舎の製造原価は1円20銭だった。努力の末、これを30銭の低価格で販売するまでになるが、その後の同業者との競争の激化で18銭にまで値下げせざるを得なくなったという。明治20年には同業3社と共同販売店を設立し、値崩れ防止に努めた。

*4)三平舎は設立後しばらく決算を行わなかったが、従来の匿名組合の組織変更を検討するにあたり、明治22年にこれまでの総決算を実施し、その際の5万円の利益を資本金として有限責任三平社が設立された。

*5)1922(大正11)年に村山、芝川は相談役を辞任した。 


■参考資料
『村山龍平伝』朝日新聞大阪本社社史編修室、1953
『投資事業顛末概要八 三平株式会社』津枝謹爾編纂、昭和8
『芝蘭遺芳』、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)


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村山龍平と芝川家3 大阪共立商店

2018-06-15 13:13:31 | 芝川家周辺の人々
■参考
村山龍平と芝川家
村山龍平と芝川家2 朝鮮貿易


明治12(1879)年、二代目芝川又右衛門、村山龍平ほか大阪の実業家9名が発起人となり、「大阪共立商店」を創設しました。

大阪共立商店は、明治11(1878)年に日本に紹介された英国の「協力商店(Co-operative Store)」にならった消費組合で、当時、「会社」や「商社」と称して資金を募り、出資者をだまして損害を負わせるケースが続出していたため、こうした組織の健全性・正当性を広く社会に喧伝(けんでん)しようと設立が企図されたものです。
消費組合としては、同年に設立された東京の「同益社」に次ぐ、全国で二番目の設立でした。

広く一般から募集した社員(株主)の出資金をもとに日用雑貨をまとめて購入し、相場に即して社員に販売する方式で、取扱商品は、日常生活に不可欠な米、薪、炭の3品に絞り込み、社員には、これら3品について、自ら使用する分は必ず共立商店から購入することが義務づけられました。

大阪共立商店は営業開始と共に大きな反響を呼び、続々社員加盟の申し込みがありました。
このため、米、薪、炭を取り扱う商人が脅威を感じて大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)に共立商店の解散を求めたこともあったと言います。

明治13(1880)年には相当な利益があり、社員数も230名に及んだとされていますが、その後の消息は明らかではありません。
恐らく、この時期の他の消費組合と同様、数年で消滅したのではないかと考えられますが、大阪共立商店は、後に全国津々浦々に設立された消費組合(戦後の消費生活協同組合)のさきがけとなりました。


■参考資料
『村山龍平伝』朝日新聞大阪本社社史編修室、1953
『大阪府生活協同組合連合会50年史』大阪府生活協同組合連合会、2004


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