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千島土地 アーカイブ・ブログ

1912年に設立された千島土地㈱に眠る、大阪の土地開発や船場商人にまつわる多彩な資料を整理、随時公開します。

初代芝川又右衛門の葬儀

2022-06-27 14:22:57 | 芝川家の人々
大正元年12月21日、芝川又平(初代又右衛門)が亡くなりました。齢90歳の大往生でした。

遺体は大阪・伏見町の芝川邸に運ばれ、葬儀は26日に執り行われましたが、当時は大きな葬儀場がなかったため、長柄墓地のそばにあった大阪市所有の空き地に臨時の斎場が作られました。
芝川家としては明治23年に初代又右衛門夫人・きぬが亡くなって以来の葬儀で、勝手がわからず、又平が生前から親交の厚かった朝日新聞の村山龍平氏、弁護士の高谷宗範氏が芝川邸洋館の応接間に詰めて、葬儀を取り仕切って下さったといいます。

葬儀の日は伏見町芝川邸から出棺し、長柄の墓地まで行列で行きました。長柄墓地で撮影したものと思われる写真が当社に保存されています。民俗史料として貴重なものかと思いますので、ここにご紹介します。




























(いずれも千島土地株式会社所蔵資料P19)

明治後期の火葬率はまだ30%ほどだったそうで、写真から、遺体は土葬で葬られたことがわかります。

また、村山龍平氏の計らいで、又平の死は当時の「大阪朝日新聞」に大きく掲載され、報じられました。


大阪朝日新聞(大正元年12月22日)

少し長くなりますが、芝川又平の履歴についても紹介されていますので、全文を以下に掲載します(文字は原文ママ)。

●芝川又平翁逝く 
貿易史上の一偉人

△九十歳の高齢
大阪の富豪百足屋の業を興し陶器、漆器の輸出を盛にし明治維新に際して神戸港の開始時代に阪神貿易商人団体実際の活動を為し次で大阪商業会議所設立の発起人となり堂島米商会所頭取に挙げられし大阪町人の大元老たる芝川又平翁は明治八年五十三歳にして家督を今の二代目又右衛門氏に譲り晩年須磨の別荘に優遊し故田能村直入翁を無二の心友として屡(しばしば)別荘に延(ひ)き時に自ら画筆を執りて余生を楽みにしに心臓の宿痾遽(にはか)に革(きは)まり二十日朝当主又右衛門氏は須磨に向ひしに二十一日午前五時九十歳の高齢を以て心臓麻痺のため翁は終に逝去せり

△翁の壮年時代
翁は文政六年五月二十四日を以て京都富小路丸太町に生れ幼時より絵画を好み近藤雅楽に就て研究し家業の蒔絵に出精せしが奈良鹿背山の陶窯が久しく廃絶せしを再興せんとし肥前有田の名工萬平といひし人を聘して盛んに製陶業を起し漆器と共に輸出品として早くも眼を貿易事業の上に着けたり、嘉永三年二十八歳にして大阪の百足屋新助に婿養子たるに及び益事業の手を拡げて芝川家の家名を揚げ翌年二十九歳にして新宅を伏見町心斎橋筋に設け盛んに唐物取引商を営み大阪貿易商人の先鞭を着けたり、翁は其の頃奈良興福院住職の引立に依りしを徳とし維新の際同院より発行したる銭鈔(ぜにふだ)の引替騒ぎに当りて県財政の上に尽力少からず奈良県会より其功労を賞せられし事あり

△商社と釐金制
翁すでに伏見町に百足屋の名声を揚げ盛んに唐物取引を為せしうち世は慶応三年を押し寄せて兵庫の開港は五月二十七日を以て差許され十二月七日よりは大阪市中にても貿易の為外人の居留を免され諸国の物産手広に運出商売勝手たるべき旨触れ出されぬ、活動の機は正に来れり、大阪城代牧野越中守を経て大阪町奉行柴田日向守は幕命を奉じて三郷総年寄に対し開港交易御用取扱を命じ屈指の町人を挙げて商社世話役を為し中之島に商社会所を設け金貨融通の為七種の金札(紙幣)を発行せしめたり、翁其の事に与り常に阪神両地を往来して拮据最も力(つと)めたり、神戸の貿易事業日を逐うて発展するに及び幕府は又貿易商人に対し売込金高の千分の五を徴収せんがため商人をして元祖商社を組織せしめ五釐金の制度を設け又平翁を筆頭として佐渡屋、布屋、大黒屋、泉屋、日野屋、小西等及び神戸の外国商人を合せ二十一名の社員を人選し神戸の外国事務局の一室に事務所を開かしめ明治四五年の交に及べり、三井組、小野組等は即ち其後を承けて貿易事業の一転機を形成しなり

△翁の事業
維新後の阪神貿易は此くの如く翁の先見と手腕とに負ふ所最も深きは争ふべからず、翁は又今の澁澤男爵等と東西相呼応して新事業を開きしもの少からず、硝石製造の如きは殊に斯界に喧伝されし所なり、翁は又紙製漆器の業を創め各種博覧会には蒔絵の新意匠を闘はし、明治八年退隠の後も翁は依然大阪実業界の重鎮たりしに今や即ち亡し悼むべき哉、葬儀は二十六日午後一時伏見町の自宅出棺長柄墓地に於て営むべしといふ


■参考文献
『小さな歩み』芝川又四郎、1969


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それぞれの太平洋戦争2 芝川(伊藤)敦

2018-09-05 10:22:05 | 芝川家の人々
■参考
それぞれの太平洋戦争1 芝川又彦

※本記事は芝川敦の手記を基に作成しており、一部、事実確認が不十分な点がありますことを予め
ご了承下さい。本件に関して間違い等がございましたら、ご教示いただけますと幸いです。




昭和20年3月 海軍経理学校卒業(芝川菫所蔵)
両親と


同上
最後列左が伊藤敦

 
昭和20年 海軍主計大尉(芝川菫所蔵)
北海道より上京した折に実家にて撮影


大正11年生まれの芝川(旧姓・伊藤)敦は、横浜一中を4年修了で東京商科大学(現・一橋大学)に進学し、又彦同様、昭和18年に半年繰り上げで卒業しました。当時の旧制中学校の修業年数5年を修めていれば、大学中退で学徒出陣となるところでした。

卒業後は住友本社に入社するも、戦況が悪化する中、3日出勤しただけで休職となり、合格していた海軍経理学校に補修学生(*)として入校します。5か月の基礎教育を経て卒業。卒業時に勤務の希望を聞かれ、敦はただ一首「大君の命のまにま南に北ぞ征かん丈夫のとも」と記しました。勇ましがったのではなく、戦争という大きな流れの中で、どう足掻いても無駄だとの諦めからだったといいます。

監査官附を命じられた敦は会計監査の手ほどきを受け、海軍艦政本部出仕兼海軍航空本部出仕として室蘭の監督官事務所への配属となしました。
室蘭の監督官事務所は、日本製鋼所構内の木造の平屋を借りた小規模な事務所で、陸軍の監督官事務所との共有でした。仕事は、日本製鋼所や日本製鉄、函館船渠、帝国繊維といった傘下の工場の原価計算の指導と査定でしたが、コストよりモノをという時勢の中、主に労務者の確保や資材入手の斡旋、輸送の確保などに取り組みました。

敦は日本製鋼所の出張者用のクラブの一室を借り、そこに暮らします。当初あった休日もなくなり、早朝から夜更けまで業務を行う毎日となりましたが、室蘭ではまだ空襲もなく、食事に不自由することもなかったといいます。

そんな中、監督機構の拡大と人員増員に伴い、室蘭の事務所は札幌へ移ることとなりました。雪の降りしきる中、札幌グランドホテルの1階に事務所を確保しましたが、新たな赴任者の宿舎と食糧を用意するのに苦労しました。軍需省軍需監理官の肩書きが加わり、短現の同期の仲間が10人近くも赴任してきましたが、体調を崩した敦は暫く療養した後、横須賀鎮守府附を命じられて北海道を後にしました。

敦が室蘭にいた頃か、或いは札幌にいた頃か、具体的な時期は不明ですが、北海道在任中に軍需大臣主催の査察が行われました。陸・海・空、そして民の工場に眠る機材を掘り起し、情報共有して増産を図るという趣旨の下、特別仕立ての貸切列車で中央から高官らがやって来ましたが、形だけの訓示、激励と視察のあとは連夜の宴会で、実状は比較的平穏で物資もあった北海道からお土産を抱えて帰る旅行だったといいます。当時は誰もが刹那的になり、個人的に生き延びることに必死だったとはいえ、連日の空襲で数多の国民が命や財産を失い、若者が次々と戦地で命を散らす戦況を思うと何ともやり切れない気持ちになります。

さて、敦は北海道から横須賀に赴任するも、軍令部附になっているとのことですぐに東京に引き返すこととなります。当時、東京は既に瓦礫の山が続く焼け野原で、軍令部内ではもはや戦況より物資のやり取りが話題の中心となっていました。

その後、敦は山中湖畔(山梨県)に疎開している臨時戦史部へ行くことを命じられます。臨時戦史部は湖畔の富士ニューグランドホテルを占拠していました。女子理事生も大勢いましたが、疎開を兼ねた名門子女の徴用逃れとも言われており、ホテルの倉庫は彼女達のピアノや家財で一杯だという噂もあったといいます。

ホテルのロビーには天井まで届く書架が組まれ、書類がぎっしり詰まっていました。「極秘」と表示された「武蔵」の戦闘詳報などもありましたが、触れる人もなく埃をかぶっていました。敦は前任者から「大東亜戦争中の財政金融史」というテーマの引き継ぎを受けたものの、主計科の現実の任務は部員の食糧集めでした。山中湖畔は食糧事情が厳しく、とうもろこしや稗を常食としていました。毎日食糧を求めて出歩く中、三島の駅ではグラマンの機銃掃射を経験し、甲府郊外では原爆の知らせを聞きました。しかしながら、山中湖の自然は美しく、ホテル住まいも快適で、機体を輝かせて連日東京方面へ向かうB29の編隊をどこか他人事のように眺めていたといいます。

終戦の詔勅は東京・芝の水交社(*2)で聞きました。当時、東京で海軍の出張者が食事できるのはここくらいだったとのこと。爆音が止み、静まり返った芝生の庭に、居あわせた数名が立ち並んで玉音放送を聞きました。数日来の中央部局の動きから予感はしていましたが、やっと終わったという安堵感と、これからどうなるのだろうかという漠然とした不安感が胸の内に広がったといいます。

敦が山中湖に戻ると、林のあちこちに大きな穴を掘り、書類の焼却が始まっていました。連日連夜、膨大な書類の焼却が続き、焼き尽くしたところで解散となりました。

後に敦は軍隊での生活について、戦場の辛苦も空襲の悲惨さも知らぬままであったが、沈鬱な2年間であったと振り返っています。


*)二年現役士官(短期現役士官、いわゆる「短現」)と呼ばれる任期付きの主計科士官を養成するための学生。旧制大学や旧制専門学校の卒業者、高等文官試験合格者から志願者を募り、東京帝国大学や東京商科大学、慶應義塾大学など有名大学の卒業生の多くが志願し、戦後の政財官界で活躍する人物を多く輩出した。(Wikipedia「海軍経理学校」参照)

*2)水交社:海軍幹部関係者を会員とする社交クラブ。


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芝川又之助と『紫水遺稿』 ~その生涯と昆虫採集~

2010-07-02 13:36:10 | 芝川家の人々
昭和11(1936)年に芝川得々(二代目又右衛門)により発行された『紫水遺稿』は、大正5(1916)年に27歳の若さで早逝した二代目又右衛門の三男・芝川又之助の日記や、又之助が熱中した昆虫採集に関わる原稿、昆虫標本目録などを収めた3冊から成る本です。

この『紫水遺稿』を中心に、又之助の生涯を追ってみましょう。



又之助は明治21(1888)年に誕生しました。大阪伏見町の芝川本邸を中心に須磨の別荘や甲東園にもよく出かけ、長兄・又三郎の狩猟のお伴をしたり、山歩きをしたりと豊かな自然の中で育ちます。


▲子供時代の又之助(二列目左:千島土地株式会社所蔵資料P12_028)

又之助が昆虫採集に夢中になったのは北野中学校在学の頃。そのきっかけとなったのは1904(明治37)年の兄・又三郎の戦死でした。


▲北野中学在学時の又之助(千島土地株式会社所蔵資料P46_034)

又之助について次兄の又四郎が後年、生来頭が良くて大変敏感な性格だったと述懐していますが、尊敬する兄の突然の死は繊細な又之助に大きな衝撃を与えました。兄を喪った悲しみから気持を逸らそうと又之助は昆虫採集に取り組みます。

日本における昆虫学の先駆者・桑名伊之吉の著書『昆虫学研究法』との出会いなどがその熱意に拍車をかけ、又之助はどんどん昆虫採集の魅力に引き込まれていきました。

大学への進学にあたり又之助は農学部への進学を希望しますが、芝川家の男子として許されず、山口高等商業学校(現・山口大学)に進みます。卒業後は京都帝国大学法科大学選科で学び、こちらは体調の関係で中退を余儀なくされますが、実業界に入って後も昆虫採集に対する情熱は衰えることはありませんでした。

1915(大正4)年には結婚し、神戸住吉の反高林に自らが設計したものを建築家・武田五一にまとめてもらったという家を建てます。*)


▲1930年代後半頃の反高林の芝川邸
 写真の女性は義母の粕淵とき(千島土地株式会社所蔵資料P18_316)

1916(大正5)年には女児も誕生しますが、その数日後、又之助は腸チフスで27歳の若さで亡くなりました。



又之助が亡くなる前年の1915(大正4)年2月、又之助は野平安藝雄、江崎悌三、鈴木元治郎ら京阪の有志とともに昆虫学専門誌『昆虫学雑誌』を発行し、次いで発起人の一人として大日本昆虫学会の創立に携わります。当時関西では比較的昆虫採集に対する関心が高かったものの、昆虫学の専門誌や学会はまだなかったようで、又之助は会の委員を務め、記事を寄稿したりもしていました。


▲『昆虫学雑誌』第壹巻第壹号(大阪市立自然史博物館所蔵)



又之助の死後、又之助が発行に尽力したこの『昆虫学雑誌』には又之助への弔詞とともに写真と絶筆原稿が掲載されました。

 
▲『昆虫学雑誌』第二巻第二号(大阪市立自然史博物館所蔵)
 又之助への弔詞(左)と写真、絶筆原稿(右)

また又之助が採集した昆虫標本は甲東園芝川家別荘に保管され、又之助の北野中学の後輩で昆虫採集の仲間でもあった戸澤信義に管理が委嘱されます。1933(昭和8)年には戸澤の編纂により『紫水遺稿』(別巻)に「芝川家所蔵昆虫標本目録」としてまとめられましたが、標本は後に宝塚昆虫館*2)に移され、更に1979(昭和54)年には大阪市立自然史博物館に移管されました。

標本は宝塚昆虫館閉館後の保管状態が良くなかったことなどから、残念ながら現在、又之助が採集した昆虫標本の特定は難しいそうですが、又之助に献名された「シバカワツリアブ」、「シバカワコガシラアブ」、「シバカワトゲシリアゲ」の昆虫名は今も生き続けています。


*)この家の竣工時期は不明だが、又之助の遺児・弥生子によると、棟上げの時、既に又之助は亡くなっていたという。

*2)当時阪急の社員であった戸澤信義が社長・小林一三の「宝塚に新しい集客施設を」との命を受けて創設を提案。1939(昭和14)年に開館し、戸澤は館長を務めた。


■参考資料
芝川又四郎、『小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―』、1969(非売品)
芝川得々、『紫水遺稿』(乾・坤)、昭和11(非売品)
戸澤信義編纂、『紫水遺稿』(別巻)、芝川得々、昭和11(非売品)
江崎悌三、『江崎悌三著作集 第二巻』、昭和59
初宿成彦、「「宝塚昆虫館報」について」、『館報池田文庫 第26号』、平成17
初宿成彦、「芝川又之助」、『第34回特別展 なにわのナチュラリスト』、大阪市立自然史博物館、2005
長谷川仁、「明治以降 物故昆虫学関係者経歴資料集」、『昆虫』Vol.35,No.3、1967
野平安藝雄編纂、『昆虫学雑誌』第一巻第一号、大正4
野平安藝雄編纂、『昆虫学雑誌』第一巻第二号、大正4
野平安藝雄編纂、『昆虫学雑誌』第二巻第二号、大正5


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初代・芝川又右衛門 ~「芝川組」と「新芝組」~

2010-06-01 16:06:29 | 芝川家の人々
「芝川組」と「新芝組」は明治時代に芝川又平(初代又右衛門)が開業した諸国荷受問屋です。諸国荷受問屋とは、生産地の荷主から送られた荷物を仲買人に委託販売する業者のことで、荷物の保管や荷為替を担保として金融業を営むなど、現在の倉庫業や銀行業に相当する業務を行うものもありました。

1879(明治12)年11月、芝川出店の名義で荷受問屋が開店します。川から船で運び込まれる荷物の積み下ろしが可能な浜付倉庫を備える必要があったことから、店は川沿いの大阪市西区立売堀に構えられました。

芝川家が出資したのに対し、実質的な運営を行ったのは、芝川又平と共に大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)の理事を務めた加藤祐一です。加藤は東京の福沢諭吉に対し関西随一の新知識と言われ、五代友厚の片腕として活躍した人でした。

さて、開店後の諸般事務が一段落すると、2名の店員が手拭い、盃、扇子、風呂敷といった宣伝用品を持って山陽・山陰地方を中心に各地の有力商店を回り、開店披露と得意先開拓の営業活動を行います。なんと約2ヶ月で680余店を訪問したのだとか。

そんな営業活動の甲斐あって1880(明治13)年9月には独立経営の見込みが立ち、資本金6,000円の組合事業として「芝川組」が創立されました。社長は加藤祐一。出資金は芝川又平、加藤祐一、園田友七(芝川家別家)の3名がそれぞれ2000円ずつを出しますが、加藤、園田の2000万円は芝川家が貸付けていたことから、資本関係は従来と実質的には変わりませんでした。

事業は徐々に軌道に乗り、周防の半紙、薩摩の錫、石見の荒銅や鉄、長門の米など各地の多岐にわたる品物が取り扱われ、取引高も増加していきます。

しかしながら、1882(明治15)年になると入荷が次第に減少し、経営に翳りが見られるようになります。それに追い打ちをかけたのが、或る事件により社長である加藤が収監されたことでした。これにより加藤は組合脱退を余儀なくされ、「芝川組」は解散することとなります。

その翌月、「芝川組」の権利義務一切を引き継いで「新芝組」が創立され、新社長に就任した井上卯吉が中心となって経営の再建に努めますが、結局事業不振が改善されぬまま、「新芝組」は1883(明治16)年7月末日をもって閉店することとなりました。


■参考資料
「五代友厚伝」、宮本又次、有斐閣、昭和56
「投資事業顛末概要三 芝川組 新芝組」、津枝謹爾編纂、昭和8
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)


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初代・芝川又右衛門 ~蒔絵への情熱 芝川漆器合名会社~

2010-02-08 17:39:56 | 芝川家の人々
明治23(1890)年に設立された浪花蒔絵所(後の日本蒔絵合資会社)は、シカゴ万国博覧会をはじめ、国内の博覧会や共進会にも積極的に出品し、数々の賞も受賞してきました。

しかしながら、将来を担う良工の育成を主眼としていたこの事業は、そもそも営利目的ではなく、会社組織として運営する際に色々と不都合が生じてくるようになります。出資者である住友家、芝川家協議の結果、明治31(1898)年、合資会社を解散し、以後は芝川家の個人経営に切り替えられることとなりました。

一方、かねてより漆器類には、欧米の空気の乾燥によって破損してしまうという弱点があり、シカゴ万博の際にも、その出品作品の素地に充分な乾燥対策を施す必要が議論されていました。

こうした弱点を克服するために素地の改良に取り組むべく設立されたのが「芝川紙製漆器工場(後の「芝川漆器合名会社」)」です。

この事業は、東京高等工業学校校長 手島精一氏の紹介で、ドイツ人科学者 ゴットフリート・ワグネルの下で応用科学を研究した間瀬正信氏に芝川家が出資する形で始まったもので、明治27(1894)年より、当初は日本蒔絵合資会社の事業として三軒屋の芝川家所有の土蔵において試験的に製作が開始されました。

その後、「ヘンリーペーリー会社製350噸の汽働水圧器」を購入して本格的な製造を開始し、明治33(1900)年、蒔絵会社から分離した芝川家単独経営の「芝川紙製漆器工場」が千島新田の木津川沿いで始業しました。そこでは「紙製漆器の素地は全部型により圧搾し製出するものなるが故に新型の製作、既製型の修繕等鉄工を要するもの多」いとして鉄工業も事業として行われます。

数年後、「我紙製漆器は其の生地能く水湿と乾燥に耐え、堅牢緻密にして膨張収縮の憂なく・・・品質を根本的に改良せり」と、理想に近い製品を製造することができるようになります。しかしながら、製造に木製漆器以上の手数がかかることなどから、なかなか価格を抑えることができなかった上、間瀬氏の病気による退任や経済界の不況も重なり、その経営状況は厳しいものでした。

明治36(1903) 年には紙製漆器工場に注力するため蒔絵事業を閉鎖し、また農商務省より試験費の補助を受けるなど立て直しが図られますが、明治44(1911)年、工場での火事の発生を契機に殆ど休業状態となり、蒔絵に情熱を傾けた又平(初代又右衛門)の死去4年後の大正5(1916)年、芝川漆器合名会社は遂に解散することとなりました。

後年、又平の孫・芝川又四郎は、当時の紙製漆器を取り巻く状況について、エナメルを吹きつけて製作したドイツ製品が日本の本物の漆とは比較にならないほど安価で、日本の製品は、評判はよくても売ろうと思えば売れなかったと振り返っています。一方、「美術の技術はあくまでも保存し、りっぱなものを輸出したいというのが祖父の考えでした」との一文に、自らも蒔絵師であった又平の真の意図を垣間見ることができるようにも思われます。


■参考
初代・芝川又右衛門  ~蒔絵への情熱 日本蒔絵合資会社の設立~
初代芝川又右衛門 ~蒔絵への情熱 シカゴ万博への出品~


■参考資料
「投資事業顛末概要九 紙製漆器工場」
「世界の祭典 万国博覧会の美術」、東京国立博物館ほか編集、NHK/NHKプロモーション/日本経済新聞社、2004
「小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―」、芝川又四郎、1969(非売品)


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