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千島土地 アーカイブ・ブログ

1912年に設立された千島土地㈱に眠る、大阪の土地開発や船場商人にまつわる多彩な資料を整理、随時公開します。

芝川家の六甲山別荘

2017-07-18 09:10:47 | 芝川家の建築
六甲山は、明治28(1895)年に英国人貿易商のグルームが六甲山に山荘を建てて以来、居留地在住の外国人たちが相次いで別荘を構え、「外人村」と言われる別荘地として開けていきました。

大正3(1914)年に第一次世界大戦が勃発すると、外国人貿易商たちは祖国に帰国するため次々と六甲山から撤退しますが、代わって大戦による好景気の中で、日本人の富豪たちが六甲に別荘を構えるようになります。

さらに昭和2(1927)年に阪神電鉄㈱が有野村から六甲山上の土地を買収すると、昭和7(1932)年までの間に、表裏六甲ドライブウェイ、六甲登山ロープウェイ、六甲ケーブル、山上回遊道路などのインフラが整えられ、別荘地の分譲や観光施設の開業など、保養地・行楽地としての開発が進められました。



▲六甲山頂の土地利用(稲見悦冶、森昌久「六甲山地の観光・休養地化について」より)
阪神電鉄は、六甲山のエリア別に開発計画を立てて、それぞれの土地の特色を生かした多角的な観光地、保養地の開発を行った。


そんな中、昭和6年から7年にかけて、芝川又四郎は阪神電鉄から、現在のサンセットドライブウェイ沿いに土地を購入します。

この土地の購入について、又四郎は自叙伝の中で次のように述べています。
「私の知人の山口吉郎兵衛、阪野兼通*1)、塩野吉兵衛、広岡恵三*2)さんたち、大阪の知人がみな六甲に別荘を持ちました。…(中略)…普通は南向きの土地を買うのですが、六甲は夏案外暑く、縁側をガラス戸にすると日がガンガンさすので、避暑に夏だけ行くように、北向きの土地を買ったのです。」

そして昭和7年に、竹中工務店に依頼して木造平屋建ての別荘を建設しました。








▲立面図(千島土地株式会社所蔵資料 S04_002_002)


▲北東からの外観(同 P52_002)
建物北側に広い開口部が設けられているのがわかる。


▲平面図(同 S04_002_001)


▲寝室(同 P57_034)


▲食堂兼居間(同 P52_003)
柱のない大空間


▲暖炉には「有雅商店特製草葉焼付タイル」が使用された


別荘を建てるにあたっては、六甲山の気候の特徴を考慮して様々な工夫がなされたことが又四郎の自叙伝から伺えます。
「非常に湿度の高いところですので、押し入れには鉄板を張り、床は板敷きにしてベッドを使うことにしました。」
「しっけるので、壁も普通の竹の下地に土壁を塗ることができませんので、いまではいろいろの壁板がありますが、その時分唯一のタイガー・ボードを使いました。」
「普通の屋根がわらは六甲では割れるので、広島県の薬がけかわらをふくのですが、幸い岸本吉左衛門さんが八幡製鉄の製品の問屋で、そこで鉄かす処理の方法として、鉄製の屋根がわらをつくっていましたので、これを使うことにしました。」


▲仕様書
壁や天井に用いられたのは「浅野物産発売に依る和製「セロテックス」」であり、屋根は「特許●(金偏に瓦)鋳造合資会社製造による●(金偏に瓦)葺」とすることが記されている。


戦後、芝川家の六甲山別荘は貸別荘として運営されていましたが、その後、建物は売却されました。一時、ステーキレストランとして活用されていましたが、現在は閉店され、所有者の方の山荘として使われています。

実は先日、建物を拝見し、現在の所有者の方のお話を伺う機会に恵まれたのですが、湿度の高い六甲山での建物維持のご苦労はあるものの、実際に使ってみると、特殊な気候に対する工夫が随所に為されており、とてもよくできた建物だと感心しているとお話し下さいました。

昭和初期に建てられた六甲山の近代建築も、六甲山ホテル旧館(昭和4年)、ヴォーリズ六甲山荘(昭和9年)などほんの僅かしか残っていない今、所有者に恵まれ、今もかつての面影をよく残しながら活用されている芝川家が建てたこの別荘建築は、戦前の避暑地としての六甲山の歴史を物語る貴重な建物のひとつといえるのではないでしょうか。



*1)阪野兼通:坂野兼通の誤りと思われる。子供服のファミリア創業者・坂野惇子の夫・坂野通夫の父。山口銀行(後の三和銀行、現・三菱東京UFJ銀行)の近代化に貢献し、山口家の大番頭として活躍した大阪財界、銀行界の重鎮。

*2)広岡恵三:広岡浅子の一人娘・亀子の夫で、加島銀行頭取、大同生命社長などを務めた実業家。実妹の一柳満喜子は建築家のW.M.ヴォーリズの妻。
芝川家と広岡浅子に関しては「二代目・芝川又右衛門 ~日本女子大学校設立への関わり~」をご参照ください。



■参考資料
稲見悦冶、森昌久「六甲山地の観光・休養地化について」、『歴史地理学紀要』歴史地理学会編、1968
神戸建築物語 第14回 六甲山開化物語 講演録
『小さな歩み』芝川又四郎、1969


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。




帝塚山の竹鶴邸と芝川邸

2016-11-02 13:30:14 | 芝川家の建築
以前の記事で、ニッカウヰスキー㈱創業者の竹鶴政孝氏の大阪住吉帝塚山の居住地について、あくまでも推測という形でご紹介いたしました。それは「帝塚山タワープラザ」(大阪市住吉区帝塚山中1丁目3-2)の南に竹鶴邸、その西隣に芝川邸があった、というものでしたが、後にこの推測が正しかったことがわかりました。

これは、2014年に放映されたNHKの連続テレビ小説「マッサン」放映を機に「すみよし歴史案内人の会」が中心となって調査をされた結果、明らかになったものです。

詳細は、「すみよし歴史案内人の会」のますの隆平氏が「大阪春秋 第161号」でご紹介しておられますので、そちらをご覧いただけたらと思いますが、当社所蔵の「給水装置申込書」の資料が、竹鶴邸の地番と、竹鶴夫妻がこの家に住み始めたと思われる時期を知るきっかけとなりました。


▲「給水装置申込書」
(千島土地株式会社所蔵資料G00991_301)
竹鶴政孝氏のお名前の漢字が違うのが少し気になりますが、こちらは記録ミスである可能性が高いと思われます。




▲帝塚山の芝川邸と竹鶴邸

大正5-6年頃
芝川又四郎が帝塚山に転居

大正9年11月
竹鶴政孝・リタ夫人がスコットランドから帰国
摂津酒造の阿部喜兵衛社長が用意した家(旧竹鶴邸Ⅰ)に住む

大正11年春
竹鶴政孝氏、摂津酒造を退社

大正12年春
竹鶴政孝氏、寿屋(現・サントリーホールディングス㈱)に勤務

大正12年12月頃
竹鶴夫妻が又四郎の借家(旧竹鶴邸Ⅱ)に転居

大正14年1月
竹鶴夫妻、山崎に転居

大正15年1月
芝川又四郎、神戸住吉に転居

又四郎の述懐には、芝川邸の近所に住んでいた竹鶴夫妻が、帝塚山学院初代学長の庄野貞一先生の紹介で芝川邸を訪れ、又四郎の所有地の上に家を建てて貸してほしいと依頼された、とあります。また、摂津酒造退社後、竹鶴氏が桃山学院で化学の教師をしていた折には、「試験の採点を手伝ったことがある」とも述べていることから、大正11年-12年頃に、竹鶴夫妻から依頼を受けた又四郎が、又四郎の父・又右衛門が建築家・武田五一を通してあめりか屋に建てさせた洋館を西宮甲東園から移築し、大正12年12月頃から、竹鶴夫妻が又四郎の借家に暮らし始めた…ということだったのではないかと推測しています。




▲帝塚山芝川邸
(千島土地株式会社所蔵資料P04_032)


▲芝川百合子(又四郎長女)、帝塚山芝川邸建物前にて
(千島土地株式会社所蔵資料P18_039)

帝塚山芝川邸の一部が写っている貴重な写真です。芝川邸の建物は、吉野の製材所で購入した杉の柱を使い、天然スレート葺きの屋根は、又四郎の注文により「将棋のこまみたい」な形であったと
いいます。

竹鶴邸、芝川邸は、建築図面も写真もほとんど残っていませんが、竹鶴家、芝川家の転居後も取り壊されることなく、新しい住人を得て使い続けられました。こちらは、昭和37年に全線が開通した「南港通(柴谷平野線)」の敷設計画図ですが、こちらの資料から、在りし日の芝川邸と竹鶴邸の様子を知ることができます。


▲「都市計画路線 平野柴谷線 平面図」
(千島土地株式会社所蔵資料Y02_001_005)


「南港通」の開通により、かつての芝川邸の敷地の一部は道路となり、芝川邸、竹鶴邸も今はともにもうありません。しかし、こうしてその場所が特定され、敷地内の様子が明らかになったことによって、竹鶴夫妻と芝川家の交流をより鮮やかに思い起こすことができるような気がしています。


■参考資料
『小さな歩み』、芝川又四郎、1969
『ニッカウヰスキー80年史 1934-2014』、80年史編纂委員会、2015
「大阪春秋 大161号」、新風書房、2016


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茶室「松花堂」の建築

2010-08-05 16:20:52 | 芝川家の建築
西宮甲東園に別荘を構え、その周辺の整備を行った二代目 芝川又右衛門は茶道に造詣が深く、邸内に「山舟亭」、「松花堂」、「土足庵」の3棟の茶室を建て、度々知人を招いてお茶会を楽しみました。

「山舟亭」は1913(大正2)年に落成、続いて1920(大正9)年に「松花堂」を中心とする広間と茶庭が整備され、竣工年はわからないのですが「土足庵」という立礼式のお茶室も須磨の芝川別邸から移築されました。

これらは3棟とも取り壊されて現存しないと思っていたのですが、なんと!「松花堂」のお茶室は実は移築されて現存していたのです。

ひょんなことからこの事実が判明、移築先の「粟津神経サナトリウム」さまにご連絡したところ、松花堂の見学を快諾いただき、さっそくお邪魔して拝見して参りました。

* * *

現存する「松花堂」のレポートの前に、移築前の「松花堂」についてご紹介いたしましょう。

芝川家刊行の書籍によると、「松花堂」はもともと大阪・伏見町の芝川邸内に建っていたそうです。写真などは残っていないのですが、以前こちらのブログで幕末~明治23年までの伏見町芝川邸をご紹介した際に掲載した芝川邸の平面図に付属した図面を見てみると、それがまさに「松花堂」の平面図であることがわかります。

▲伏見町芝川邸平面図(千島土地株式会社所蔵 F02_001_002)

図面からお茶室が独立して建っていた訳でなく別の建物に接続していたことがわかりますが、断片的な図面なので全体がどのようにつながっていたのかはよくわかりません。下記配置図に「茶室」の記述がありますがこれが「松花堂」だったのでしょうか。


▲伏見町芝川本邸見取図(千島土地株式会社所蔵資料 F02_003_002)

伏見町芝川邸では、「松花堂」で初代又右衛門がお茶を点てたりしていたそうですが、後に二代目又右衛門の別邸がある西宮甲東園に移築されることになります。移築工事は1916(大正5)年に起工*)、お茶室に接続する広間も建設され、太鼓橋の架かった池もある美しい庭園も整備されました。建物、庭園はともに芝川家と懇意だった茶人 高谷宗範(たかや・そうはん)の設計によるもので、その監督の下に造営が進められます。










▲甲東園に移築された茶室「松花堂」と付属広間の平面図、東西南北の立面図
(千島土地株式会社所蔵資料 K01_033_001~005)

当時は関西で多くの立派な和風建築の建設が集中した時期で、職人さんの不足などの事情もあって工事には時間がかかり、これらが完成したのは1920(大正9)年のことでした。


(千島土地株式会社所蔵資料 P41_045)


(千島土地株式会社所蔵資料 P41_036)


(千島土地株式会社所蔵資料 P04_002)


(千島土地株式会社所蔵資料 P18_025)
▲「松花堂」と広間、茶庭

竣工時には新築お披露目のお茶会が14回、約2ヶ月に亘って開催され、71名のお客様をお迎えしたと言います。

「松花堂」と一連の建築は1975(昭和50)年頃、甲東園が住宅地に造成されていく中で解体されますが、幸運にも現在の所有者さんとのご縁があり、茶室「松花堂」は石川県に移築されることになりました。


そして現在…

病院の広いお庭の奥、ふもとの池に流れ込むせせらぎの水音が涼しげな小高い丘の上に、木々に囲まれた小さな建物が見えます。


この建物こそが、甲東園から移築された「松花堂」でした。


正面には「松花堂」の濡額が掛けられています。


移築前は木皮葺であったと思われる屋根は、現在は銅版葺になっています。


正面 観音開きの扉を開けると土間があり、


その奥に3畳のお茶室があります。

一見したところ炉は切られておらず、風炉が置かれていました。

襖の絵は茄子と実のついた枝。
 

地袋にはかわいらしい引き手(把手?)が。
 

天井には、芝川又四郎の「(松花堂には)天井も紙が張ってあって、子供心にも変わったものだと思っていた」という回想の通り、紙が張られていました。


実はこの「松花堂」は、「八幡西村氏邸内の松花堂昭乗の茶室の写し」であると言われています。松花堂昭乗は一流の文化人としても知られる江戸初期の僧侶で、晩年に「松花堂」(以後、区別のため「八幡松花堂」とします)という名の方丈を建てて侘び住まいをしました。その後「八幡松花堂」は所有者が変わり、数回の移築の後(その間、一時西村氏の所有となっていた)、現在は京都府八幡市の「松花堂庭園・美術館」に草庵茶室「松花堂」として保存されています。この「八幡松花堂」の天井もかつては紙張りで(現在は網代)狩野永徳による絵が描かれていたのだとか。*2)

お茶室を出ると板敷きで右手に茶道口があり、


その奥は水屋になっています。


逆にお茶室を出て左手には躙口が設けられていました。


ここは移築前、広間につながる廊下だった部分です。私はお茶室にはあまり詳しくないのですが、躙口を入ると畳でなく板間というのはあまり見たことがなく珍しい気がします。


現在、図面の広間につながる“廊下”と“物入”はひとつの空間となっていますが、その間の壁は切り取られている様子ですし、


天井も一方は切妻(廊下側)でもう一方は方流れ(物入側)と形が異なっています。
 

それに、物入の廊下側の柱にはかつて扉がついていたであろう痕跡も見られます。


* * *

さて、甲東園芝川邸縁の「松花堂」、わずか数畳の小ぶりな建物であるにも関わらず、その物語は尽きることがありません。しかしながら過去最長級のとても長~い記事となって参りましたので、今回はこのあたりでおひらきとさせていただきましょう。

それにしても、もう失われてしまったと思っていた建築が、こんな素敵な環境の中で“第三の人生”(①大阪伏見町芝川邸、②西宮甲東園芝川邸、③石川県「粟津神経サナトリウム」)を送っている姿は、なかなか感動的なものです。

所有されている方は、最近 建物の傷みが気になっているとおっしゃっていましたが、これからもこの「松花堂」のお茶室が自身の歴史を語る証人として生き続けてくれることを願わずにはいられません。


この度は現在の所有者さまの特別のご厚意でこうした記事をアップさせていただいたものです。「松花堂」は病院敷地内にあり、非公開の建物です。基本的に見学はできませんのでご了承下さい。


*)千島土地株式会社所蔵資料「大市山新築設計図」による。芝川家刊行書籍『芝蘭遺稿』には、起工は大正7(1918)年とある。

*2)この「八幡松花堂」のほか、大阪市網島町にも松花堂昭乗ゆかりのお茶室「松花堂」(「桜宮松花堂」)が現存しています。こちらは19世紀初頭に大坂の豪商 加島屋の樋口十郎兵衛によって建てられ、後に解体されますが、明治期に富商 貴志弥右門がその解体材を使って再建。終戦後大阪市の所有となり現在に至ります。なお「桜宮松花堂」を再建した貴志弥右門の孫は、芝川家とも交流のあったヴァイオリンニスト・貴志康一です。


■参考資料
『大阪市内所在の建築文化財 大阪市桜宮松花堂調査報告』、大阪市教育委員会事務局、2002
『芝蘭遺芳』、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
『芝川得々翁を語る』、塩田與兵衛、1939
『小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―』、芝川又四郎、1969(非売品)


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大阪住吉別荘のその後

2010-06-24 10:35:46 | 芝川家の建築
以前こちらのブログでご紹介した大阪住吉の芝川家の別荘

前回は触れなかったのですが、実はこの別荘について資料中に「欧州大戦中に岡氏という東紡重役に売った」との記述があります。

「東紡」とは恐らく「東洋紡」のこと。東洋紡重役の岡氏といえば、芝川ビルご近所の近代建築「綿業会館」の建設にあたり100万円を寄付された*)岡常夫氏のことではと思い、以前から気になっていました。

それが今回、当社社員が地籍図や登記簿を調査してこの疑問を解決してくれました!

手がかりは資料中の「住吉神社北門の前」、「南海住吉神社横」という別荘の場所の記述。
まず1911(明治44)年の「大阪地籍図」で住吉大社周辺の土地を調べると、まさに北門付近に芝川又右衛門(二代目)が3筆の土地を所有していたことがわかります。




▲『大阪地籍図 市街及接続郡部』(明治44年発行)より

これを1931(昭和6)年、1977(昭和52)年の地図で確認したところ、現在は神社敷地内である下記の場所(第一本宮の奥:青いポイントの場所)と判明いたしました。






更に調べた地番について法務局で登記簿を確認したところ、この土地は1889(明治22)年に芝川又右衛門が取得し、第一次世界大戦中の1916(大正5)年に売却していたことがわかりました。そして気になる売却先は…予想通り「岡常夫」氏だったのです。

この地は1882(昭和15)年に現在の所有者である住吉大社に売却されています。




▲芝川家別荘があったと思われる場所周辺の様子(現在の住吉大社敷地内)


*)岡常夫氏(東洋紡績専務取締役)の「日本綿業の進歩発展をはかるため」との遺言により、ご遺族から寄付された100万円に関係業界からの醸出金50万円を加えた150万円を基金に綿業会館が建設されました。(「日本綿業倶楽部」サイトより


■参考資料
『市街及接続郡部 大阪地籍地図』、吉江集画堂地籍地図編輯部編纂、明治44
『市街及接続郡部 大阪地籍地図 土地台帳之部』、吉江集画堂地籍地図編輯部編纂、明治44
『芝川得々翁を語る』、塩田與兵衛、1939
『紫草遺稿』、津枝謹爾編輯、芝川得々、1934


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大阪住吉の別荘

2010-03-23 16:05:53 | 芝川家の建築

芝川又三郎撮影*):住吉別邸の門(千島土地株式会社所蔵資料 P25_001)

芝川家が大阪の住吉に、いつ頃から、どのような経緯で別荘を持つようになったのかは明らかではありません。しかし、1892(明治25)~1893(明治26)年、当時中学校在学中の芝川又三郎の日記には、休日に「列車」で住吉に行ったという記述がしばしば登場します。

と言っても、又三郎のお目当ては「別荘」ではなく「運動場」。
そこで「テント」を張って遊戯したり、1892(明治25)年10月に設置した「運動機械(「体操器械」とも)」を試したり、旗取りをしたりと弟・又四郎らと共に充実した余暇を満喫した様子です。


「住吉運動場」(芝川又三郎撮影:「紫草遺稿」より)
写真はブランコですが、「新設の体操器械を始めて試」みた翌日に「疲労にて手の上下自由ならず」とあることから、鉄棒などの器具もあったのかも知れません。


「住吉運動場」(千島土地株式会社所蔵資料 P40_002)
又三郎の妹 エンの夫・塩田與兵衛著「芝川得々翁を語る」には、「私はその別荘(※筆者注:住吉の別荘のこと)で又平翁が着物の裾を上げて、皆と芝生の上で円陣を作って遊んで居られる写真を見たことがあります。」との興味深い記述があります。まさにこの写真のことかと思われますが、確かに正面中央の男性の後姿は芝川又平にそっくりです。

しかし、この写真が撮影された頃の又平は既に70代。大阪経済界の重鎮であった彼が、こんなに無邪気に家の人々と遊びに興じる姿には、何だか感動を覚えてしまいます。



さて、この「運動場」や「別邸」はどこにあったのでしょうか。

はっきりしたことはわかりませんが、先述の「芝川得々翁を語る」には「住吉神社の北門の前」と記述されており、また、帝塚山学院の創設者・庄野貞一著「紫草の生涯」にも「南海住吉神社*2)横の別荘広場」という記述があることから、住吉大社の北側あたりにあったものと思われます。

そして、又三郎が住吉への行き来に乗った「列車」は阪堺鉄道(現・南海電鉄 南海本線)であり、最寄駅は「住吉停車場」*3)を利用していたのではないでしょうか。


住吉停車場(「阪堺鐵道経歴史」より)



さて、又三郎は住吉を訪れた際、徒歩や自転車でしばしば「松原」へ行ったとの記述を残していますが、当時、住吉大社や帝塚山の付近には松林が多く、殊に1873(明治6)年に開設された住吉公園の辺りは、松が林立する景勝地・海浜の松原として賑わっていたといいます。

芝川家は船場伏見町本邸にも庭園を有していましたが、都市化が進む環境の中、風光明媚でありながら、1885(明治18)年の阪堺鉄道の開通で交通の便も良かったこの地に別荘を構えたのでしょう。

しかし、この住吉の地も、大正から昭和初期にかけて耕地整理や土地区画整理が実施され、住宅地へと変貌していくのです。


*)芝川又三郎は、1893(明治26)年より写真を始めている。
  参考:芝川又三郎 ~写真、釣り、そして狩猟~

*2)「南海住吉神社」とは、南海鉄道(当時)住吉神社駅のことで、現・阪堺電軌上町線「住吉駅」を指すと思われる。

*3)「住吉停車場」は、現在の「住吉大社駅」の少し北、粉浜村新家(現在の住吉警察署の裏付近)にあった。


■参考資料
「住吉村誌」、(財)住吉村常盤会、1976再版
「住吉区史」、(財)大阪都市協会編集、住吉区制七十周年記念事業実行委員会、1996
「阪堺鉄道経歴史」、阪堺鉄道編、1899緒言
「紫草遺稿」、津枝謹爾編輯、芝川得々、1934
「芝川得々翁を語る」、塩田與兵衛、1939


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