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千島土地 アーカイブ・ブログ

1912年に設立された千島土地㈱に眠る、大阪の土地開発や船場商人にまつわる多彩な資料を整理、随時公開します。

甲東園と芝川家2 果樹園の開設

2022-11-08 11:08:51 | 芝川家の土地開発
さて、二代目芝川又右衛門が貸金の抵当流れから手に入れた大市(甲東園)の土地。先の記事でご紹介した確証の地目から、その殆どが田畑であったことがわかります。しかし、それらは「1反歩5斗の年貢すら皆納せしことなき貧弱至極の地所」(『芝蘭遺芳』より)だったようで、用水池を開削するなど改善を試みますが、上手くいきませんでした。そこで、店員の岡本市太郎を派遣し、実地調査の上で今後の方針を探ることに。結果、水田としては水を保てず、畑としては旱魃に耐え難い、果樹を植樹するほかないとの結論に達し、試験的に果樹栽培が行われることになります。明治29年のことでした。

果樹園には、蜜柑や葡萄のほか、桃、林檎、梨、レモンなど様々な果樹が植えられました。また明治31年には、樅、栂、槇、桜、梅、サツキ、クチナシなど果樹以外の樹木を購入し、植え付けました。果樹以外の樹木の多くは後に売却されましたが、その一部は今も甲東園に残っているのかも知れません。

なお芝川家の記録には、明治33年4月に果樹園の名称を変更することになり、「甲東園」に改称したとあります。ではそれまで何という名称だったのか気になるところですが、現在のところ、それが明らかになる資料はまだ見つかっていません。残念!

さて、果樹園が開設されたのは、字・山畑新田。昭和15年の資料には、阪急電鉄西宝線の西側に「芝川農園」の記載があり、その位置を知ることができます。


「兵庫県武庫郡甲東村土地宝典」(昭和15年)より(千島土地株式会社所蔵資料K03_013)

そしてこちらの資料。詳しい年代は不明ですが、もう少し新しいものと思われ、農園の詳細を知ることができます。


「農園略図」(千島土地株式会社所蔵資料K03_002)
柿、桃、葡萄、李。よく見ると小さな文字で樹齢や前作の樹木名も記載されています。また、麦、いも、野菜の栽培ほか、鶏舎や豚舎も記載されており、養鶏や養豚が行われていたことがわかります。寒さに弱い豚さんのための施設でしょうか、豚舎の脇には210坪の「温熱暖床」も!


明治45年に洋館、昭和2年に和館が建設された「芝川又右衛門邸」との位置関係はこんな感じ。上の「農園略図」を反時計回りに90度、くるりんと回転すると、赤枠にすっぽり収まりますね。

青枠の芝川又右衛門邸についてはまた改めてご紹介したいと思います。


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甲東園と芝川家1 土地入手の経緯

2022-11-08 11:08:03 | 芝川家の土地開発
「西宮七園」のひとつで、現在も高級住宅地として知られる甲東園。戦前、芝川家はここに広大な土地を所有していました。
「甲東園と芝川家」初回は、大阪で貿易業(のち不動産業)を営んでいた芝川家が、甲東園に土地を入手した経緯についてご紹介します。


明治14年「田畑書入質確証」(千島土地株式会社所蔵資料K03_246)

これは、明治14年5月に高田又右衛門と2代目芝川又右衛門が交わした書類です。「書入質」とは、現在の「抵当」のこと。つまり、高田氏が摂津国武庫郡上大市村字山畑新田他の所有地10町7反7畝12歩(地価合計1,254円58銭9厘)を抵当に、月32円50銭の利子で、芝川より2,500円の借金をしたという書類なのです。


明治17年「地所永代売渡確証」(千島土地株式会社所蔵資料K03_260)

3年後の明治17年3月、上記の土地を芝川又右衛門が買収したことを示すのがこの書類です。買収金額は高田氏への貸金と同額の2,500円。『芝蘭遺芳』には、抵当流れとなりやむを得ず買収することになったと記されています。

こうして、芝川家は西宮甲東園に約10万㎡に及ぶ土地を所有することとなったのです。


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初代芝川又右衛門の葬儀

2022-06-27 14:22:57 | 芝川家の人々
大正元年12月21日、芝川又平(初代又右衛門)が亡くなりました。齢90歳の大往生でした。

遺体は大阪・伏見町の芝川邸に運ばれ、葬儀は26日に執り行われましたが、当時は大きな葬儀場がなかったため、長柄墓地のそばにあった大阪市所有の空き地に臨時の斎場が作られました。
芝川家としては明治23年に初代又右衛門夫人・きぬが亡くなって以来の葬儀で、勝手がわからず、又平が生前から親交の厚かった朝日新聞の村山龍平氏、弁護士の高谷宗範氏が芝川邸洋館の応接間に詰めて、葬儀を取り仕切って下さったといいます。

葬儀の日は伏見町芝川邸から出棺し、長柄の墓地まで行列で行きました。長柄墓地で撮影したものと思われる写真が当社に保存されています。民俗史料として貴重なものかと思いますので、ここにご紹介します。




























(いずれも千島土地株式会社所蔵資料P19)

明治後期の火葬率はまだ30%ほどだったそうで、写真から、遺体は土葬で葬られたことがわかります。

また、村山龍平氏の計らいで、又平の死は当時の「大阪朝日新聞」に大きく掲載され、報じられました。


大阪朝日新聞(大正元年12月22日)

少し長くなりますが、芝川又平の履歴についても紹介されていますので、全文を以下に掲載します(文字は原文ママ)。

●芝川又平翁逝く 
貿易史上の一偉人

△九十歳の高齢
大阪の富豪百足屋の業を興し陶器、漆器の輸出を盛にし明治維新に際して神戸港の開始時代に阪神貿易商人団体実際の活動を為し次で大阪商業会議所設立の発起人となり堂島米商会所頭取に挙げられし大阪町人の大元老たる芝川又平翁は明治八年五十三歳にして家督を今の二代目又右衛門氏に譲り晩年須磨の別荘に優遊し故田能村直入翁を無二の心友として屡(しばしば)別荘に延(ひ)き時に自ら画筆を執りて余生を楽みにしに心臓の宿痾遽(にはか)に革(きは)まり二十日朝当主又右衛門氏は須磨に向ひしに二十一日午前五時九十歳の高齢を以て心臓麻痺のため翁は終に逝去せり

△翁の壮年時代
翁は文政六年五月二十四日を以て京都富小路丸太町に生れ幼時より絵画を好み近藤雅楽に就て研究し家業の蒔絵に出精せしが奈良鹿背山の陶窯が久しく廃絶せしを再興せんとし肥前有田の名工萬平といひし人を聘して盛んに製陶業を起し漆器と共に輸出品として早くも眼を貿易事業の上に着けたり、嘉永三年二十八歳にして大阪の百足屋新助に婿養子たるに及び益事業の手を拡げて芝川家の家名を揚げ翌年二十九歳にして新宅を伏見町心斎橋筋に設け盛んに唐物取引商を営み大阪貿易商人の先鞭を着けたり、翁は其の頃奈良興福院住職の引立に依りしを徳とし維新の際同院より発行したる銭鈔(ぜにふだ)の引替騒ぎに当りて県財政の上に尽力少からず奈良県会より其功労を賞せられし事あり

△商社と釐金制
翁すでに伏見町に百足屋の名声を揚げ盛んに唐物取引を為せしうち世は慶応三年を押し寄せて兵庫の開港は五月二十七日を以て差許され十二月七日よりは大阪市中にても貿易の為外人の居留を免され諸国の物産手広に運出商売勝手たるべき旨触れ出されぬ、活動の機は正に来れり、大阪城代牧野越中守を経て大阪町奉行柴田日向守は幕命を奉じて三郷総年寄に対し開港交易御用取扱を命じ屈指の町人を挙げて商社世話役を為し中之島に商社会所を設け金貨融通の為七種の金札(紙幣)を発行せしめたり、翁其の事に与り常に阪神両地を往来して拮据最も力(つと)めたり、神戸の貿易事業日を逐うて発展するに及び幕府は又貿易商人に対し売込金高の千分の五を徴収せんがため商人をして元祖商社を組織せしめ五釐金の制度を設け又平翁を筆頭として佐渡屋、布屋、大黒屋、泉屋、日野屋、小西等及び神戸の外国商人を合せ二十一名の社員を人選し神戸の外国事務局の一室に事務所を開かしめ明治四五年の交に及べり、三井組、小野組等は即ち其後を承けて貿易事業の一転機を形成しなり

△翁の事業
維新後の阪神貿易は此くの如く翁の先見と手腕とに負ふ所最も深きは争ふべからず、翁は又今の澁澤男爵等と東西相呼応して新事業を開きしもの少からず、硝石製造の如きは殊に斯界に喧伝されし所なり、翁は又紙製漆器の業を創め各種博覧会には蒔絵の新意匠を闘はし、明治八年退隠の後も翁は依然大阪実業界の重鎮たりしに今や即ち亡し悼むべき哉、葬儀は二十六日午後一時伏見町の自宅出棺長柄墓地に於て営むべしといふ


■参考文献
『小さな歩み』芝川又四郎、1969


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それぞれの太平洋戦争2 芝川(伊藤)敦

2018-09-05 10:22:05 | 芝川家の人々
■参考
それぞれの太平洋戦争1 芝川又彦

※本記事は芝川敦の手記を基に作成しており、一部、事実確認が不十分な点がありますことを予め
ご了承下さい。本件に関して間違い等がございましたら、ご教示いただけますと幸いです。




昭和20年3月 海軍経理学校卒業(芝川菫所蔵)
両親と


同上
最後列左が伊藤敦

 
昭和20年 海軍主計大尉(芝川菫所蔵)
北海道より上京した折に実家にて撮影


大正11年生まれの芝川(旧姓・伊藤)敦は、横浜一中を4年修了で東京商科大学(現・一橋大学)に進学し、又彦同様、昭和18年に半年繰り上げで卒業しました。当時の旧制中学校の修業年数5年を修めていれば、大学中退で学徒出陣となるところでした。

卒業後は住友本社に入社するも、戦況が悪化する中、3日出勤しただけで休職となり、合格していた海軍経理学校に補修学生(*)として入校します。5か月の基礎教育を経て卒業。卒業時に勤務の希望を聞かれ、敦はただ一首「大君の命のまにま南に北ぞ征かん丈夫のとも」と記しました。勇ましがったのではなく、戦争という大きな流れの中で、どう足掻いても無駄だとの諦めからだったといいます。

監査官附を命じられた敦は会計監査の手ほどきを受け、海軍艦政本部出仕兼海軍航空本部出仕として室蘭の監督官事務所への配属となしました。
室蘭の監督官事務所は、日本製鋼所構内の木造の平屋を借りた小規模な事務所で、陸軍の監督官事務所との共有でした。仕事は、日本製鋼所や日本製鉄、函館船渠、帝国繊維といった傘下の工場の原価計算の指導と査定でしたが、コストよりモノをという時勢の中、主に労務者の確保や資材入手の斡旋、輸送の確保などに取り組みました。

敦は日本製鋼所の出張者用のクラブの一室を借り、そこに暮らします。当初あった休日もなくなり、早朝から夜更けまで業務を行う毎日となりましたが、室蘭ではまだ空襲もなく、食事に不自由することもなかったといいます。

そんな中、監督機構の拡大と人員増員に伴い、室蘭の事務所は札幌へ移ることとなりました。雪の降りしきる中、札幌グランドホテルの1階に事務所を確保しましたが、新たな赴任者の宿舎と食糧を用意するのに苦労しました。軍需省軍需監理官の肩書きが加わり、短現の同期の仲間が10人近くも赴任してきましたが、体調を崩した敦は暫く療養した後、横須賀鎮守府附を命じられて北海道を後にしました。

敦が室蘭にいた頃か、或いは札幌にいた頃か、具体的な時期は不明ですが、北海道在任中に軍需大臣主催の査察が行われました。陸・海・空、そして民の工場に眠る機材を掘り起し、情報共有して増産を図るという趣旨の下、特別仕立ての貸切列車で中央から高官らがやって来ましたが、形だけの訓示、激励と視察のあとは連夜の宴会で、実状は比較的平穏で物資もあった北海道からお土産を抱えて帰る旅行だったといいます。当時は誰もが刹那的になり、個人的に生き延びることに必死だったとはいえ、連日の空襲で数多の国民が命や財産を失い、若者が次々と戦地で命を散らす戦況を思うと何ともやり切れない気持ちになります。

さて、敦は北海道から横須賀に赴任するも、軍令部附になっているとのことですぐに東京に引き返すこととなります。当時、東京は既に瓦礫の山が続く焼け野原で、軍令部内ではもはや戦況より物資のやり取りが話題の中心となっていました。

その後、敦は山中湖畔(山梨県)に疎開している臨時戦史部へ行くことを命じられます。臨時戦史部は湖畔の富士ニューグランドホテルを占拠していました。女子理事生も大勢いましたが、疎開を兼ねた名門子女の徴用逃れとも言われており、ホテルの倉庫は彼女達のピアノや家財で一杯だという噂もあったといいます。

ホテルのロビーには天井まで届く書架が組まれ、書類がぎっしり詰まっていました。「極秘」と表示された「武蔵」の戦闘詳報などもありましたが、触れる人もなく埃をかぶっていました。敦は前任者から「大東亜戦争中の財政金融史」というテーマの引き継ぎを受けたものの、主計科の現実の任務は部員の食糧集めでした。山中湖畔は食糧事情が厳しく、とうもろこしや稗を常食としていました。毎日食糧を求めて出歩く中、三島の駅ではグラマンの機銃掃射を経験し、甲府郊外では原爆の知らせを聞きました。しかしながら、山中湖の自然は美しく、ホテル住まいも快適で、機体を輝かせて連日東京方面へ向かうB29の編隊をどこか他人事のように眺めていたといいます。

終戦の詔勅は東京・芝の水交社(*2)で聞きました。当時、東京で海軍の出張者が食事できるのはここくらいだったとのこと。爆音が止み、静まり返った芝生の庭に、居あわせた数名が立ち並んで玉音放送を聞きました。数日来の中央部局の動きから予感はしていましたが、やっと終わったという安堵感と、これからどうなるのだろうかという漠然とした不安感が胸の内に広がったといいます。

敦が山中湖に戻ると、林のあちこちに大きな穴を掘り、書類の焼却が始まっていました。連日連夜、膨大な書類の焼却が続き、焼き尽くしたところで解散となりました。

後に敦は軍隊での生活について、戦場の辛苦も空襲の悲惨さも知らぬままであったが、沈鬱な2年間であったと振り返っています。


*)二年現役士官(短期現役士官、いわゆる「短現」)と呼ばれる任期付きの主計科士官を養成するための学生。旧制大学や旧制専門学校の卒業者、高等文官試験合格者から志願者を募り、東京帝国大学や東京商科大学、慶應義塾大学など有名大学の卒業生の多くが志願し、戦後の政財官界で活躍する人物を多く輩出した。(Wikipedia「海軍経理学校」参照)

*2)水交社:海軍幹部関係者を会員とする社交クラブ。


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それぞれの太平洋戦争1 芝川又彦

2018-09-03 16:57:05 | 芝川家刊行文献
先代の会長、社長として千島土地を支えた芝川又彦(大正10年生)と芝川(旧姓・伊藤)敦(大正11年生)。1歳違いの両者は、太平洋戦争只中に大学を卒業後、戦争に巻き込まれていきます。生前のお二人から伺った戦争にまつわる回想をまとめ、ここにご紹介いたします。

なお、これらはヒヤリング等の内容を基に作成しており、一部、事実確認が不十分な点がありますことを予めご了承下さい。本件に関して間違い等がございましたら、ご教示いただけますと幸いです。






芝川又彦(千島土地株式会社所蔵資料P69_078(上)、P69_079(下))
海軍航空隊入隊に際して西宮甲東園にて撮影したものか。


家族と共に(同P69_077)
父母(芝川又四郎・竹)、姉(百合子)とその子供達と。


芝川又彦は、昭和18年秋に神戸商業大学(現・神戸大学)を半年繰り上げで卒業し(*)、海軍の航空隊に入隊。家族は入隊に反対したが、既に日本の敗戦を予想していた又彦は、「一億玉砕と言われる中で、兵士と国民、どちらが長生きするかはわからない。」と思っていたといいます。

入隊後は3か月の基礎訓練を経て、年明けから6か月間、飛行機の実地訓練を行い(*2)、6月から青島航空隊の教育部隊に教官として配置されました。(*3)

当時の青島航空隊は、中華航空(*4)の飛行場を間借りしており、宿舎はカネボウ(鐘淵紡績㈱)の女子寮を借りて徐々に設備を整えていく状態だったといいます。


戦時中のエピソードのひとつは、大村(長崎県)の海軍航空廠に魚雷を受け取りに行った時のこと。
魚雷は重量があるため十分な燃料を積むことができず、京城で燃料補給する必要がありました。しかしながら操縦者の技術が未熟で、着陸の際、魚雷の重さで機体がぐっと沈んだところでエンジンを噴かしてしまいます。結果、滑走路の長さが足りず、前方の牧場に突っ込みそうになりハンドルを切ったところ、慣性の法則で直進しようとする飛行機胴体と、曲がろうとする脚部が分解してしまいました。
飛行機が壊れてしまったため、青島に迎えを要請しますが、「けしからん!そのような者に迎えの飛行機が出せるか!」と叱られ、魚雷は仁川から船で運び、又彦は操縦士と二人、奉天から北京、済南、青島と3日3晩かけて汽車で戻る羽目になったといいます。


さて、又彦は海軍が開発した電波探知機の講習を受けることを命じられ、横須賀に向かいます。昭和20年4月に講習を終えて青島へ戻ると、既に特攻隊の編成が終わっていました。特攻隊員とならずに現地に残った者は、爆撃の際に逃げ込む穴を山で掘るなどしながら、ここで敵の本土進攻を食い止める心積もりでいたといいます。

しかしながら8月に終戦。降伏を予期していなかった又彦は、俄かに信じられない思いでした。

青島は食料も豊富で、鉄鉱石も採れ、匪賊の出没はあれど比較的治安も良かったことから、船舶が不足する中で本土へ帰るのは最も後回しになるだろうと食料の確保などに奔走していたところ、米国海軍が青島に到着。又彦は中学で英語を学んでいたことを理由に米軍との連絡係を命じられますが、高校で学んだドイツ語ならまだしも、英語は苦手。帝塚山で姉達と共に竹鶴リタさんから英語を学んでおけば良かったと後悔しますが、蓋をあけてみれば米軍の連絡将校は日本語が堪能で、驚きつつも胸を撫で下ろしたといいます。

米軍の言うことには、船で本国に帰してやるとのこと。つい先日までの敵の発言に信じられない思いでしたが、米国の輸送船が到着する3日後までに乗船名簿を作成するよう指示され、運輸省、航空隊、病院関係者など1万人分の名簿を作成しました。正金銀行、三井商事、三菱商事などの支店のタイピストの助けを借りて、手書きの名簿を英字でタイピングしてもらい、周囲に積み上げたカンパンを齧りながら3日3晩徹夜で作業しました。現地の人からの告発によって戦犯となった人は現地に残されたため、戦犯であるとわからないよう、名簿に偽名を載せてくれとこっそり頼みに来る者もあったといいます。

又彦を乗せた引揚船は、長崎・早岐港に入港。そこから汽車で神戸に向かいましたが、連絡係として様々な情報をキャッチできる立場にあった又彦は、爆撃を受けた地名のひとつに「ミカゲ」が上がっていたことから、「御影の家はやられたな。」と思い、三宮で降りずに梅田まで向かいました。車窓からの眺めは一面の焼け野原であったといいます。

その後、宝塚へ向かい、甲東園へ。一族の者が皆そこにおり、又彦の急な帰還に驚いていました。
なお、又彦の弟・又次は長崎大学の学生だったため、随分と心配していましたが、こちらも無事でした。
何でも原爆が投下された日、たまたま学校を休んで御影の家に帰っていたとのこと。

戦争では、ほんの少しの違いが人の生死を分けたということを改めて感じさせられます。


*)半年繰り上げとはいえ、又彦の学年が卒業できた最後の学年だった。次の学年は又彦達の3か月後に中退、学徒動員された。

*2)教育期間中は物理学も学んだ。空中戦では飛ぶ相手をこちらも飛びながら攻撃するため、飛行機の動きを考慮しないことには爆弾は当たらない。その原理を学ぶためだった。また実地訓練では、飛行機の操縦ではなく、後部座席に座る人員としての訓練を受けたという。具体的には、航法術による航跡把握(飛行機は風に流されるので、常に経度緯度を測り、現在地を把握することが重要だった)、電信、射撃など。爆撃・雷撃においては、操縦者に飛行方向やスピードを指示する役割も担った。

*3)青島には「青島航空基地」と「滄口航空基地」の2つの海軍基地があった。又彦が派遣されたのがどちらの基地かは不明だが、開隊後間もない様子であること、カネボウの寮を宿舎としたこと鑑みると「滄口航空基地」だったのではないか。(当時、滄口には広大なカネボウの工場、社宅があった。)

*4)中華航空株式会社。中華民国臨時政府、同維新政府、蒙疆連合委員会の出資を仰ぎ、昭和13年設立。終戦まで日本軍占領地域での航空輸送を担った。


■参考
「中華航空株式会社」について:「中華航空株式会社設立要綱」国立国会図書館サイト
青島の2つの航空基地について:「旧海軍の基地と施設」桜と錨の海軍砲術学校サイト


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追記・村山龍平と芝川家6 茶道・十八会 お茶会の舞台裏

2018-08-20 09:10:22 | 芝川家周辺の人々
前回ご紹介した、芝川又右衛門が担当した「十八会」のお茶会
重鎮の方々をお招きする訳ですから、当然、念には念を入れた準備が行われたはず。

準備の様子まではわかりませんが、当日の役割分担に関する資料が残されています。

六月十八日役割
一、道修町受付 戸田貞吉
   下役 植木屋利三郎、手伝久七
一、二階受付 春海儀平 山中與七
一、来客の携帯品預かり並陳列掛 戸田政之助
一、庭廻り案内 大畠操
一、抹茶席 狩野宗匠、当主
一、煎茶席 花月庵先生
一、四畳半 西尾亀之助
一、三階下座敷及二階 黒崎奈良之助、中桐新十郎
一、給仕方 西尾亀之助、戸田貞之助、戸田政之助、春海儀平
一、出納方並車掛 三木房次郎
一、番人 黒崎奈良之助、岡本珪蔵
一、二階にての中継人 堺卯 下女
一、自動車掛 但西洋館の庭 譲吉
一、総取締役 奥村あさ
一、道具方 園田芳之助

抹茶席、煎茶席は、それぞれ又右衛門の師であった三代・狩野宗朴宗匠、花月庵田中翁が担当し、抹茶席では芝川又右衛門自らお客様をおもてなししたようです。戸田政之助(谷松屋戸田商店)、山中與七(高山中)など道具商の方々のお名前も見られるほか、三木房次郎、黒崎奈良之助、岡本珪蔵、園田芳之助といった芝川店の関係者もお手伝いをしたようです。

中でも気になったのは「奥村あさ」。
堺卯の下女を除けば唯一の女性で、しかも「総取締役」という大変重要そうなお役を担っておられます。

この方、芝川店の関係者であることは明らかなのですが、詳しいことは何もわかりません。
ただ、写真が数点残されていますのでご紹介いたします。


奥村あさ(千島土地株式会社所蔵資料P35_005)
聡明なお顔立ちの美しい方です。


芝川又四郎、たけ婚礼写真(明治42年、同P01_006)
前列左から 奥村あさ、芝川りく、芝川たけ、香村さき
後列左から 芝川又太郎、芝川又右衛門、芝川又四郎、香村文之助
香村文之助は芝川店支配人。香村さきは夫人でしょうか。奥村あさの名前の脇には「別家」の表記もあります。「別家」とは、主人からのれん分けを許されて独立することを言いますが、芝川店においては支配人格の家族の集まりのことを指したようです。(*)


同上(同P01_001)
前列左から 黒﨑さと、園田ひで、奥村あさ、井上しか、橘いと
後列左から 奥村栄枝、島谷かえ、園田そえ、立田よね
皆さんの名字から芝川店関係者のご夫人方の集合写真ではないかと思われます。ということは、奥村あさは芝川又右衛門の総理代(総代理人)を務めた奥村利三郎の夫人である可能性が高いと言えます。なお、全員が芝川家の女紋が付いた着物を着ていますが、別家の人々は、新年や芝川家にお祝いごとがあった折には、濃紫、無地の揃いの着物を着て、「別家一同」として芝川家に挨拶行ったとも言われており(*)、それはまさにこの写真のような様子だったのかも知れません。


左から香村文之助、芝川又四郎、奥村あさ(同P06_073)
何の折に撮影された写真かはわかりませんが、芝川店の支配人、芝川家の次代当主と共に写っていることを考えると奥村あさは芝川店においてかなり重要な人物であったことが想像できます。それにしても背筋の伸びた凛とした姿は気品に溢れています。

こうして写真を見てみると、想像以上に家族ぐるみで主家に仕える様子が伺えます。更にこうした大切な茶会において重要な役目を任されるとは、いわゆる「奥様会」の枠を超えた重責ではないでしょうか。実際には、「総取締役」がどのような役割であったのか、その詳細は全くわからないのですが、明治30年代に「夫のサポート」を超えて女性が活躍する姿を想像してついワクワクしてしまいます。



随分と話が逸れてしまいましたが、18日に開催された「十八会」のお茶会、実は大変興味深いことに、翌19日にもう一度お茶会が開かれているのです。こちらはおつき合いのあった道具商や画家、親族や芝川店の重役などを招いた、いわば「内輪のお茶会」。料理の献立などは前日に比べ質素ですが、抹茶席、煎茶席を設け、恐らく前日のしつらえをそのままに、身内の茶会を楽しんだのでしょう。


*)芝川家別家の一人・園田友七のご子孫へのヒヤリング(2011年実施)において伺ったお話による。


■参考資料
「芝川茶会記録」、管宗次氏所蔵資料
『近藤就運書 芝川家記録抄 家長原簿』(千島土地株式会社所蔵資料B01_201)


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村山龍平と芝川家6 茶道・十八会

2018-08-20 09:03:33 | 芝川家周辺の人々
■参考
村山龍平と芝川家
村山龍平と芝川家2 朝鮮貿易
村山龍平と芝川家3 大阪共立商店
村山龍平と芝川家4 三平舎(三平株式会社)
村山龍平と芝川家5 大阪殖林合資会社
追記・村山龍平と芝川家5 大阪殖林合資会社 経営地写真


7月7日(土)から9月2日(日)まで中之島香雪美術館において開催されている開館記念展の第三期「茶の道にみちびかれ」では、茶の湯の会「十八会」についても紹介されています。

「十八会」とは、関西を中心とした実業家18名が参加する茶の湯の会で、藤田伝三郎、上野理一、村山龍平が発起人であったといいます。会員が持ち回りで幹事を務め、毎月18日に自邸で茶会を開きました。

二代目芝川又右衛門もこの「十八会」の会員でした。芝川家の記録によると、明治35年1月に山中吉郎兵衛邸に集まり、会の名称を「後楽会」にすること、会員は20名以下とすること、毎月18日に幹事の自宅で茶会を開催すること、7~9月は暑中のため休会すること、煎茶、抹茶は随意であること…といった「十八会々規」が定められます。

続く第2回は松本重太郎邸で開催され、この席において、籤によって下記のように幹事が決められました。

第3回 明治35年3月 村山龍平
第4回     4月 樋口三郎兵衛
第5回     5月 田中市兵衛
第6回     6月 田村太兵衛
第7回     10月 嘉納治兵衛
第8回     11月 藤田伝三郎
第9回     12月 住友吉左衛門
第10回 明治36年1月 高谷恒太郎
第11回     2月 西村輔三
第12回     3月 上野理一
第13回     4月 阪上新次郎
第14回     5月 磯野小右衛門
第15回     6月 芝川又右衛門
第16回     10月 嘉納治郎右衛門
第17回     11月 豊田善右衛門
第18回     12月 小綱與八郎
第19回 明治37年1月 殿村平右衛門

そして村山邸で開催された第3回。中之島香雪美術館の展示では、ここで実際に使われたお道具類を拝見することができます。そしてこの時に会の名称が「十八会」に改められました。


さて、芝川は明治36年6月の第15回を担当。大阪市中央区伏見町の芝川家本邸と、その南隣に建ち、「中裏」と呼ばれた道修町別邸(隠居屋敷)での開催でした。残念ながら当社に資料は残っていないのですが、武庫川女子大学の管宗次教授が所蔵しておられる芝川家旧蔵の茶会記にしたがって、この時の模様をご紹介したいと思います。少し長くなりますがお付き合い下さい。


<招待状>
※異体字や旧仮名遣いは常用漢字や現代仮名遣いに直して表記しています。
※判読できない文字は●で記しています。
拝啓 陳は来る十八日拙宅にて十八会開催●候間 同日午後二時より三時迄の内御●●御来臨下されたく ●覧に●するもの之無もご遊覧下され候はば大慶奉存候 追って御愛蔵品一二点ご携帯被成下度 当準備の都合之有候間 お差支えの節は予め御一報下されたく候 道修町心斎橋東へ入る北側の入口より御入来下されたく候 六月 芝川又右衛門

文中に「御愛蔵品一二点ご携帯下されたく」とありますが、十八会の規約には、30円以上の品に限り一品持参し、入札によって売却することと記されています。他にも、持参者が売らずに引く時は、10円の罰金が科せられ、高札人(最高値をつけた人)がこれを取得すること。入札に際しては5円を出し、これは2番札の人が取得することなどが定められていました。

更に当日の入口について、「道修町心斎橋東へ入る北側の入口」と書かれていますが、以下平面図の道修町通り沿いの入口(①)のことを指すのでしょうか。伏見町本邸の入口(②)に比べると裏口のようにも見えるのですが…。




伏見町芝川本邸(上)と道修町別邸(下)(千島土地株式会社所蔵資料B01_230)


<出席者>
西村輔三、豊田善右衛門、殿村平右衛門、嘉納治兵衛、田中市兵衛、田村太兵衛、高谷恒太郎、村山龍平、上野理一、山中吉郎兵衛、松本重太郎、藤田伝三郎、小綱與八郎、阪上新次郎、住友吉左衛門、芝川又右衛門 以上16名


<各室のしつらえ>
※特定或いは推測できる部屋については、上記平面図に番号を付していますので、当日の動線を想像しながらご覧下さい。

○待合席 広間

床>応挙 龍の幅 
  吉野山料紙文庫硯箱
書院>花生砂張釣り船遠州公箱書付
   花 時計草 萩 丸葉白 秋海棠

○六畳之間

床>辺寿民 松の幅
  白錆手提籠果物盛り合せ
  カントン木瓜実 八ツ頭芋 牡丹の実 瓢柑 桜の実

○次之間
襖>半江筆天保九如

○抹茶席 松花堂好(平面図③)
※茶室「松花堂」について詳しくは過去記事「松花堂の建築」をご参照ください。

床>張即之書 松花堂箱書八幡伝来
  花生 時代竹組掛籠
  花 大山蓮
風炉>透木 了全作
羽釜>宗品 雲花
水差>唐物薬鑵
茶碗>青井戸小服 銘浅香山
替茶碗>ノンコウ黒在印 藪内竹以箱 銘玄亀
棗>五郎作黒無地袋藤種
同替茶器>直齋書付橋立松
茶杓>利休作無銘如心斎啐啄ノ箱
建水>古高取遠州公切形の内
蓋置>青竹引切
炭取>金森宗和箱書小瓢
炮烙>左入作赤
香箱>青貝一文字布袋加州候蔵帳内
煙草盆>一閑宗旦好折溜
煙草入>唐彫桃形椰子
火入>織部焼台付
菓子鉢>和蘭陀藍絵花鳥
菓子盆>宗旦書付利休桜盆随流箱
菓子>結び羊羹
干菓子>玉子素麺
茶>綾之森

○煎茶席(中裏広間八畳:平面図④?)

床>伊孚九山水幅 蒹葭堂箱書付
香炉>古雲鶴菊形
香盆>黒無地唐物四方
花生>青磁桶側平
   花 河骨 白蝶草
棚>花鳥庵好竹柱桐台子
水差>紫高麗
茶碗>木米作群仙之図
茶盆>桃形広島モール
茶托>錫水仙式
茶合>黒檀笏頭式
茶巾入>白蝋石
箸立>木米作三椒粉器
茶入>染付壺形
昆炉>木米作風窓風神
急須>木米作白高麗翔鳳
昆炉台>錫丸形
水差>秋草金象嵌
炭取>唐物白錆四方
菓子鉢>呉劦赤絵魁小丼
菓子盆>黄成作楊成極●(草冠に麦:蕎麦の合字)形
菓子>夏木立
干菓子>千代結び
煙草盆>松木地三ツ入
火入>阿蘭陀細手色絵
煙草入>籠地唐物
茶>寿星眉
旗>直入翁

○休息之間(中裏四畳半)

床>蕪村山水之幅
床柱九霊芝
帖朱南鎮花卉
巻半江花卉
同沈白山水
地袋上>漁船硯
花生>白玉扁壺式花瓶遊環
   花 赤姫百合 忍冬
万暦古赤絵筆架皿
青貝大筆
唐物箔柄中筆
絵高麗船水滴
丸形龍鳳祥呈唐墨
染付瓢形墨台
詩箋
文鎮 鉄丸形水龍象眼

○陳列席(三階之下座敷:平面図④の3階部分?)

応挙浪ノ屏風 一双
紫檀大卓
花瓶>●素●壷
   花 宮城野萩 宜男草 額草
翡翠玉皿盛物 黄苺 紅蕪 竹島百合根
碁 将棋盤

    (同二階:平面図④の2階部分?)
新書画大福十対

○酒飯席
床>一休禅師書 三幅対
無学添巻
香炉>仁清作獅子
平卓>唐物黒無地
書院>唐物中鉦
青貝軸盆

○懐石
向>鱸切身塩焼 蓼酢
汁>薄赤味噌練り胡麻 茄子 白瓜
煮物>鱧切落し 蛤 牛蒡笹掻き 椎茸 五分三つ葉 白豆腐雷仕立割胡椒
焼物>鮎山椒味噌饅頭焼
吸物>松露 梅干
八寸>鮑ノ塩煮 青唐辛子付焼
強肴>洗ヒ鱸 青紫蘇 山葵 根芋 平豆切合セ 芥子醤油
香ノ物>沢庵漬
膳椀向付小吸物椀等総じて四種類を以って交互之を組合せ使用す
飯後 桜の実 枇杷 摘ミ菓子 羽二重餅 煎茶

記事冒頭でご紹介した十八会規約には、「抹茶、煎茶は随意」と書かれていましたが、抹茶席、煎茶席を共に設け、他に陳列席として、所蔵の器物や書画を鑑賞に供したことがわかります。これは、第三回村山邸での十八会でも同様でした。

当日の具体的な流れはわかりませんが、四畳半の茶室はもちろん、六畳、八畳の部屋は16名の参加者には狭すぎるように思われますから、順次ご案内する形だったのでしょうか。


この十八会、中之島香雪美術館の展示解説によると、明治35年1月から明治36年11月の間に計17回が開催され、その後は日露戦争の政情不安のため打ち切られたとのこと(*)。結局一巡することなく幕を閉じたということになります。

十八会規約には、茶会記を記すことも定めていました。
他の回のお茶会は一体どのようなものだったのか。
関西の財界人が趣向を凝らし、毎度異なる空間、異なる道具立てで開催された十八会の茶会に興味が尽きません。


*)中之島香雪美術館開館記念展「珠玉の村山コレクション ~愛し、守り、伝えた~」Ⅲ 茶の道にみちびかれ 展示解説による。


■参考資料
『芝蘭遺芳』、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
「芝川茶会記録」、管宗次氏所蔵資料


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。


 

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追記・村山龍平と芝川家5 大阪殖林合資会社 経営地写真

2018-06-29 11:30:03 | 所蔵資料から
前回記事(村山龍平と芝川家5 大阪殖林合資会社)で、芝川家と村山龍平氏との共同事業である「大阪殖林合資会社」について書きましたが、社内にはこの経営地に関する写真アルバムも残されています。今回はアルバムの写真をご紹介しながら、経営地の様子を見ていきたいと思います。



社内のアルバムの写真が撮影された時期は不明ですが、大正あるいは昭和初期に撮影されたものではないかと思われます。撮影したのは芝川本店の社員で、業務というより視察を兼ねた社員旅行のような形で訪れたようにも見えます。

ルートは以下の通りです。



高野山大門にて(千島土地株式会社所蔵資料P42_002)
いざ出発!


新子渓谷(同P42_022)


新子の村を望みて(同P42_039)


新子 橋本旅館前(同P42_025)


護摩壇山へ向かって(同P42_006)
皆さん軽装だと思ったら…お荷物、持っていただいていたんですね。
ちなみに全員分の荷物を持って下さっているのは「人夫の小川氏」だそうです。
これだけの荷物を持って山を登るなど、都市生活者にはきっと真似できません。


笹ノ茶屋(同P42_027)


護摩壇山 頂上にて(同P42_009)


小森にて(同P42_011)




龍神温泉(上:同P42_023、下:同P42_013)


枯れ木の間より十津川を眺む(同P42_031)




小川山、龍神間の橋(上:同P42_029 下:同P42_026)
この橋、特に下の橋のなんとスリリングなこと!とても私は渡れません…。

いよいよ経営地に近づきます。



小川山の人家(上:同P42_014 下:同P42_050)


小川山の人々(同P42_016)


事務所(同P42_048)


小川山谷間(同P42_051)


小川山(同P42_053)


小川山 手入れ(同P42_057)






(上から:同P42_052、P42_055、P42_059)

経営地の山中はまさに道なき道で、うっかり入ると間違いなく迷ってしまうでしょう。
植林事業は、山、そして山の木を知り尽くした「山人」と呼ばれる現地の人々があってこその事業であったことを痛感します。



さて、これらの写真が撮影されるより前、会社設立後間もない頃に、社主である二代目芝川又右衛門が初めて経営地に入山した時の記録を最後にご紹介いたしましょう。

和歌山まで汽車にて、それより海岸を人力車にて走り、途中湯浅に一泊し、翌日、南部在の外山宅(南部に滞在し現地を監督した社員・外山秋作の家)に着せり。翌日、加藤助次郎なりしか、大和の山林家なりという者一人加わりて案内者となり出発せり。翁(芝川又右衛門)は駕籠にて、他は徒歩にて途中ある一小に一泊して入山せり。着山後に植林地を一見し事務所まで下りしに天気模様急に険悪となりければ、山に一泊の予定を変更し、休憩の後、早々帰途に就き、夕暗迫る頃ある一に一泊して外山宅へ帰り、また一泊の上出発帰途に上り再び湯浅に一泊して帰れり。
<中略>
この頃は事業着手後日尚浅く、何ら見るべき事績もなかりしが、途中にて山の稼ぎ人達が土下座して低頭平身して出迎え居りたりしには真に一驚を喫したり。山林巡視の際、山人は翁を背負わんとして背を翁に向け、如何に翁の辞するも聞かず、翁も否み兼ね彼等の好意を容れ、負われて山に登り巡視せり。(『芝蘭遺芳』p.321-322より)


これら資料に見られる山へ至る道、山そして山で暮らす人々の様子に、隔世の感を禁じ得ません。


■参考資料
『芝蘭遺芳』、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
「店員生年月日調査表」、『大正15年度芝川店書類仮綴』(千島土地株式会社所蔵資料G00963_336)
『雇人証書』(同G01109)


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村山龍平と芝川家5 大阪殖林合資会社

2018-06-25 15:28:11 | 芝川家周辺の人々
■参考
村山龍平と芝川家
村山龍平と芝川家2 朝鮮貿易
村山龍平と芝川家3 大阪共立商店
村山龍平と芝川家4 三平舎(三平株式会社)


二代目芝川又右衛門は、堅実な貯蓄法として植林事業に着目していましたが、植林は門外漢が簡単に取り組めるような事業ではないため、折々に山林経営者から話を聞いたり各地の山林を視察したりといった準備を進めながら機会を待っていました。


売込十来ノ他人山林図(千島土地株式会社所蔵資料G00331)
他所より売り込まれたと思われる山林に関する資料。和歌山や奈良吉野のものが多く見られる。

1895(明治28)年頃のこと、懇意にしていた村山龍平を介して奈良県出身の代議士・植田理太郎から山林の買収話が持ち込まれます。山林は、和歌山県日高郡龍神村(現・田辺市)および寒川村(現・日高川町)の両村にまたがる、総面積が1,135町歩(11,236,500㎡)にも及ぶものでした。

この頃には既に山を見る目が養われていた二代目又右衛門は、そばに日高川が流れており、伐採した木材をいかだにして下流まで運び出せることに着目し、買収の話に応じます。


日高郡龍神村山林買得及び一件書類より小川山図面(同G00327)

1896(明治29)年、植林を行って計画的に伐採した木材を売却することで、長期的に利益を得ることを目的とする「大阪殖林合資会社」を設立。村山、植田に大阪の実業家である外山脩造を加えた4名による組合形式で経営することとしました。


大阪殖林合資会社契約証書(同G00332)
出資者に名前のある外山秋作は外山脩造の長男。『芝蘭遺芳』によると、外山秋作は会社設立後、田辺と南部(みなべ)の間の小に移住して明治38年まで事業を監督した。

1907(明治40)年には、専門家による事業調査書と意見書に基づいて原生林の伐木事業を開始することを決定し、翌1908(明治41)年に道路の掘削や作業小屋の建設などの準備工作を進めたうえで、木材の伐採に着手しました。伐採された木材は、質の良さと独自に改良した伐木法が材木商の間で好評を博し、高い値段で取引されたと言います。 




渡辺貞臣「小川山伐木事業調査書」(上・同G00340)と滋賀泰山林学博士による「森林施業意見書」(下・同 G00329)
渡辺貞臣は明治45年から大阪殖林合資会社の理事となり、御坊に移住したということ以外詳細不明。
滋賀泰山は1854(安政元)年に愛媛に生まれ、東京開成学校で鉱山学を履修した後、ドイツに留学して林学を学んだ。


小川山林産標本(同G00723)

一方、植林事業は1912(大正元)年度から毎年26町5反(262,350㎡)ずつ進められました。その後は年を追うごとに山林の手入れと植林、伐木で多忙を極めるようになり、1919(大正8)年には一部の木を立木のまま売却することもあったといいます。

その後も事業は順調に推移し、1920(大正9)年には増資も行いましたが、村山が死去した翌年の1934(昭和9)年に、二代目又右衛門は大阪殖林の事業から撤退しました。

大阪殖林は、1975(昭和50)年に住友林業株式会社に株式が譲渡された後、1987(昭和62)年には吸収合併されました。


■参考資料
『芝蘭遺芳』、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
飯塚寛「松野礀と滋賀泰山」、『森林計画学会誌32』、1999


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村山龍平と芝川家4 三平舎(三平株式会社)

2018-06-20 13:22:57 | 芝川家周辺の人々
■参考
村山龍平と芝川家
村山龍平と芝川家2 朝鮮貿易
村山龍平と芝川家3 大阪共立商店


大阪で硝子商を営んでいた平栗種吉は、当時輸入品であったランプのバーナーを国産化しようと思い立ち、1880(明治13)年、岡本清忠、阿部平兵衛の3人で「赤心社」を設立。平栗宅でバーナーの製造を開始しましたがたちまち資金的に行き詰まり、旧知の間柄である村山龍平に援助を求めます。

村山から赤心社への資金援助の相談を受けた芝川又平、又右衛門父子は、その事業が有望であると判断して出資を決意し、平栗、村山と共同で事業に取り組むことにしました。


バーナー製造のための仮約定書(千島土地株式会社所蔵資料B01_193_001)

赤心社は1880(明治13)年、大阪市北区中之島のかつて日出(ひじ)藩の蔵屋敷だった建物*)を借り受けて工場を移転。翌1881(明治14)年には、村山龍平、平栗種吉、芝川又平の姓名の中から「平」の1字をとって工場名を「三平舎」と改称し、同年9月には、西成郡曽根崎村(現・大阪市北区)の芝川家所有地に工場を新築・移転しました。

三平舎の製品は、当初こそ外国製品と比べて技術が未熟で、製造コストも割高だったことから経営は困難を極めたものの、新しい機械の導入や職人の技術の熟達によって製品の原価引き下げに努めた結果*2)、数年後には低価格で販売できるようになり、輸入品を駆逐するまでになりました。*3)

三平舎は、大阪・東京をはじめとする国内各地はもとより、中国最後の統一王朝である清国にも販路を拡大し、着実に成長を遂げていきます。1889(明治22)年には清国向けに黄銅製ボタンの製造・販売も手がけるようになったほか、従来の匿名組合から資本金5万円の「有限責任三平社」に組織を改め*4)、さらに1897(明治30)年には、資本金を15万円に増資して「三平株式会社」(以降、三平社)となりました。


三平株式会社ガスバーナーラベル(同)

以後も三平社は、火災による工場消失といった苦難を経ながらも業績を伸ばし、紡績会社を除けば大阪府下で最大の職工を抱えたといいます。1903(明治36)年には成績優秀な模範工場であるとして、宮内省から廣幡忠朝侍従の工場視察を受けました。


侍従視察の際に作成、献上された「三平社事業概要」の写し(同B01_194_002)

1912(明治45)年、三平社は資本金を50万円に増資して同業者を買収・合併します。ここにおいて、村山氏と芝川又右衛門は相談役に退き、事実上、会社の経営からは手を引くことになりました。*5)

その後も三平社は増資を重ね、1917(大正6)年には、ついに資本金を100万円として事業のさらなる拡大を図ります。しかし、ランプのバーナーは徐々に時代遅れの製品となり、需要が減少していきます。電球や自転車バルブの製造にも着手し、それなりの業績を上げますが、景気の低迷もあって経営の好転を果たすことはできませんでした。1929(昭和4)年には電球部を売却して社名を三平金属工業株式会社に変更しますが、翌年、ついに廃業することになりました。


三平株式会社営業報告書(同B01_229_041ほか)


*)中之島4丁目5番地(現在の関西電力株式会社本店ビルの南側付近)の蔵屋敷を高瀬田鶴から借り受けたとある。

*2)明治20年に三平社の製造能力は創業時の25倍以上になっていたという。

*3)創業当時、バーナー1ダースの輸入価格が1円10銭余りであったのに対し、三平舎の製造原価は1円20銭だった。努力の末、これを30銭の低価格で販売するまでになるが、その後の同業者との競争の激化で18銭にまで値下げせざるを得なくなったという。明治20年には同業3社と共同販売店を設立し、値崩れ防止に努めた。

*4)三平舎は設立後しばらく決算を行わなかったが、従来の匿名組合の組織変更を検討するにあたり、明治22年にこれまでの総決算を実施し、その際の5万円の利益を資本金として有限責任三平社が設立された。

*5)1922(大正11)年に村山、芝川は相談役を辞任した。 


■参考資料
『村山龍平伝』朝日新聞大阪本社社史編修室、1953
『投資事業顛末概要八 三平株式会社』津枝謹爾編纂、昭和8
『芝蘭遺芳』、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)


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