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千島土地 アーカイブ・ブログ

1912年に設立された千島土地㈱に眠る、大阪の土地開発や船場商人にまつわる多彩な資料を整理、随時公開します。

それぞれの太平洋戦争2 芝川(伊藤)敦

2018-09-05 10:22:05 | 芝川家の人々
■参考
それぞれの太平洋戦争1 芝川又彦

※本記事は芝川敦の手記を基に作成しており、一部、事実確認が不十分な点がありますことを予め
ご了承下さい。本件に関して間違い等がございましたら、ご教示いただけますと幸いです。




昭和20年3月 海軍経理学校卒業(芝川菫所蔵)
両親と


同上
最後列左が伊藤敦

 
昭和20年 海軍主計大尉(芝川菫所蔵)
北海道より上京した折に実家にて撮影


大正11年生まれの芝川(旧姓・伊藤)敦は、横浜一中を4年修了で東京商科大学(現・一橋大学)に進学し、又彦同様、昭和18年に半年繰り上げで卒業しました。当時の旧制中学校の修業年数5年を修めていれば、大学中退で学徒出陣となるところでした。

卒業後は住友本社に入社するも、戦況が悪化する中、3日出勤しただけで休職となり、合格していた海軍経理学校に補修学生(*)として入校します。5か月の基礎教育を経て卒業。卒業時に勤務の希望を聞かれ、敦はただ一首「大君の命のまにま南に北ぞ征かん丈夫のとも」と記しました。勇ましがったのではなく、戦争という大きな流れの中で、どう足掻いても無駄だとの諦めからだったといいます。

監査官附を命じられた敦は会計監査の手ほどきを受け、海軍艦政本部出仕兼海軍航空本部出仕として室蘭の監督官事務所への配属となしました。
室蘭の監督官事務所は、日本製鋼所構内の木造の平屋を借りた小規模な事務所で、陸軍の監督官事務所との共有でした。仕事は、日本製鋼所や日本製鉄、函館船渠、帝国繊維といった傘下の工場の原価計算の指導と査定でしたが、コストよりモノをという時勢の中、主に労務者の確保や資材入手の斡旋、輸送の確保などに取り組みました。

敦は日本製鋼所の出張者用のクラブの一室を借り、そこに暮らします。当初あった休日もなくなり、早朝から夜更けまで業務を行う毎日となりましたが、室蘭ではまだ空襲もなく、食事に不自由することもなかったといいます。

そんな中、監督機構の拡大と人員増員に伴い、室蘭の事務所は札幌へ移ることとなりました。雪の降りしきる中、札幌グランドホテルの1階に事務所を確保しましたが、新たな赴任者の宿舎と食糧を用意するのに苦労しました。軍需省軍需監理官の肩書きが加わり、短現の同期の仲間が10人近くも赴任してきましたが、体調を崩した敦は暫く療養した後、横須賀鎮守府附を命じられて北海道を後にしました。

敦が室蘭にいた頃か、或いは札幌にいた頃か、具体的な時期は不明ですが、北海道在任中に軍需大臣主催の査察が行われました。陸・海・空、そして民の工場に眠る機材を掘り起し、情報共有して増産を図るという趣旨の下、特別仕立ての貸切列車で中央から高官らがやって来ましたが、形だけの訓示、激励と視察のあとは連夜の宴会で、実状は比較的平穏で物資もあった北海道からお土産を抱えて帰る旅行だったといいます。当時は誰もが刹那的になり、個人的に生き延びることに必死だったとはいえ、連日の空襲で数多の国民が命や財産を失い、若者が次々と戦地で命を散らす戦況を思うと何ともやり切れない気持ちになります。

さて、敦は北海道から横須賀に赴任するも、軍令部附になっているとのことですぐに東京に引き返すこととなります。当時、東京は既に瓦礫の山が続く焼け野原で、軍令部内ではもはや戦況より物資のやり取りが話題の中心となっていました。

その後、敦は山中湖畔(山梨県)に疎開している臨時戦史部へ行くことを命じられます。臨時戦史部は湖畔の富士ニューグランドホテルを占拠していました。女子理事生も大勢いましたが、疎開を兼ねた名門子女の徴用逃れとも言われており、ホテルの倉庫は彼女達のピアノや家財で一杯だという噂もあったといいます。

ホテルのロビーには天井まで届く書架が組まれ、書類がぎっしり詰まっていました。「極秘」と表示された「武蔵」の戦闘詳報などもありましたが、触れる人もなく埃をかぶっていました。敦は前任者から「大東亜戦争中の財政金融史」というテーマの引き継ぎを受けたものの、主計科の現実の任務は部員の食糧集めでした。山中湖畔は食糧事情が厳しく、とうもろこしや稗を常食としていました。毎日食糧を求めて出歩く中、三島の駅ではグラマンの機銃掃射を経験し、甲府郊外では原爆の知らせを聞きました。しかしながら、山中湖の自然は美しく、ホテル住まいも快適で、機体を輝かせて連日東京方面へ向かうB29の編隊をどこか他人事のように眺めていたといいます。

終戦の詔勅は東京・芝の水交社(*2)で聞きました。当時、東京で海軍の出張者が食事できるのはここくらいだったとのこと。爆音が止み、静まり返った芝生の庭に、居あわせた数名が立ち並んで玉音放送を聞きました。数日来の中央部局の動きから予感はしていましたが、やっと終わったという安堵感と、これからどうなるのだろうかという漠然とした不安感が胸の内に広がったといいます。

敦が山中湖に戻ると、林のあちこちに大きな穴を掘り、書類の焼却が始まっていました。連日連夜、膨大な書類の焼却が続き、焼き尽くしたところで解散となりました。

後に敦は軍隊での生活について、戦場の辛苦も空襲の悲惨さも知らぬままであったが、沈鬱な2年間であったと振り返っています。


*)二年現役士官(短期現役士官、いわゆる「短現」)と呼ばれる任期付きの主計科士官を養成するための学生。旧制大学や旧制専門学校の卒業者、高等文官試験合格者から志願者を募り、東京帝国大学や東京商科大学、慶應義塾大学など有名大学の卒業生の多くが志願し、戦後の政財官界で活躍する人物を多く輩出した。(Wikipedia「海軍経理学校」参照)

*2)水交社:海軍幹部関係者を会員とする社交クラブ。


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それぞれの太平洋戦争1 芝川又彦

2018-09-03 16:57:05 | 芝川家刊行文献
先代の会長、社長として千島土地を支えた芝川又彦(大正10年生)と芝川(旧姓・伊藤)敦(大正11年生)。1歳違いの両者は、太平洋戦争只中に大学を卒業後、戦争に巻き込まれていきます。生前のお二人から伺った戦争にまつわる回想をまとめ、ここにご紹介いたします。

なお、これらはヒヤリング等の内容を基に作成しており、一部、事実確認が不十分な点がありますことを予めご了承下さい。本件に関して間違い等がございましたら、ご教示いただけますと幸いです。






芝川又彦(千島土地株式会社所蔵資料P69_078(上)、P69_079(下))
海軍航空隊入隊に際して西宮甲東園にて撮影したものか。


家族と共に(同P69_077)
父母(芝川又四郎・竹)、姉(百合子)とその子供達と。


芝川又彦は、昭和18年秋に神戸商業大学(現・神戸大学)を半年繰り上げで卒業し(*)、海軍の航空隊に入隊。家族は入隊に反対したが、既に日本の敗戦を予想していた又彦は、「一億玉砕と言われる中で、兵士と国民、どちらが長生きするかはわからない。」と思っていたといいます。

入隊後は3か月の基礎訓練を経て、年明けから6か月間、飛行機の実地訓練を行い(*2)、6月から青島航空隊の教育部隊に教官として配置されました。(*3)

当時の青島航空隊は、中華航空(*4)の飛行場を間借りしており、宿舎はカネボウ(鐘淵紡績㈱)の女子寮を借りて徐々に設備を整えていく状態だったといいます。


戦時中のエピソードのひとつは、大村(長崎県)の海軍航空廠に魚雷を受け取りに行った時のこと。
魚雷は重量があるため十分な燃料を積むことができず、京城で燃料補給する必要がありました。しかしながら操縦者の技術が未熟で、着陸の際、魚雷の重さで機体がぐっと沈んだところでエンジンを噴かしてしまいます。結果、滑走路の長さが足りず、前方の牧場に突っ込みそうになりハンドルを切ったところ、慣性の法則で直進しようとする飛行機胴体と、曲がろうとする脚部が分解してしまいました。
飛行機が壊れてしまったため、青島に迎えを要請しますが、「けしからん!そのような者に迎えの飛行機が出せるか!」と叱られ、魚雷は仁川から船で運び、又彦は操縦士と二人、奉天から北京、済南、青島と3日3晩かけて汽車で戻る羽目になったといいます。


さて、又彦は海軍が開発した電波探知機の講習を受けることを命じられ、横須賀に向かいます。昭和20年4月に講習を終えて青島へ戻ると、既に特攻隊の編成が終わっていました。特攻隊員とならずに現地に残った者は、爆撃の際に逃げ込む穴を山で掘るなどしながら、ここで敵の本土進攻を食い止める心積もりでいたといいます。

しかしながら8月に終戦。降伏を予期していなかった又彦は、俄かに信じられない思いでした。

青島は食料も豊富で、鉄鉱石も採れ、匪賊の出没はあれど比較的治安も良かったことから、船舶が不足する中で本土へ帰るのは最も後回しになるだろうと食料の確保などに奔走していたところ、米国海軍が青島に到着。又彦は中学で英語を学んでいたことを理由に米軍との連絡係を命じられますが、高校で学んだドイツ語ならまだしも、英語は苦手。帝塚山で姉達と共に竹鶴リタさんから英語を学んでおけば良かったと後悔しますが、蓋をあけてみれば米軍の連絡将校は日本語が堪能で、驚きつつも胸を撫で下ろしたといいます。

米軍の言うことには、船で本国に帰してやるとのこと。つい先日までの敵の発言に信じられない思いでしたが、米国の輸送船が到着する3日後までに乗船名簿を作成するよう指示され、運輸省、航空隊、病院関係者など1万人分の名簿を作成しました。正金銀行、三井商事、三菱商事などの支店のタイピストの助けを借りて、手書きの名簿を英字でタイピングしてもらい、周囲に積み上げたカンパンを齧りながら3日3晩徹夜で作業しました。現地の人からの告発によって戦犯となった人は現地に残されたため、戦犯であるとわからないよう、名簿に偽名を載せてくれとこっそり頼みに来る者もあったといいます。

又彦を乗せた引揚船は、長崎・早岐港に入港。そこから汽車で神戸に向かいましたが、連絡係として様々な情報をキャッチできる立場にあった又彦は、爆撃を受けた地名のひとつに「ミカゲ」が上がっていたことから、「御影の家はやられたな。」と思い、三宮で降りずに梅田まで向かいました。車窓からの眺めは一面の焼け野原であったといいます。

その後、宝塚へ向かい、甲東園へ。一族の者が皆そこにおり、又彦の急な帰還に驚いていました。
なお、又彦の弟・又次は長崎大学の学生だったため、随分と心配していましたが、こちらも無事でした。
何でも原爆が投下された日、たまたま学校を休んで御影の家に帰っていたとのこと。

戦争では、ほんの少しの違いが人の生死を分けたということを改めて感じさせられます。


*)半年繰り上げとはいえ、又彦の学年が卒業できた最後の学年だった。次の学年は又彦達の3か月後に中退、学徒動員された。

*2)教育期間中は物理学も学んだ。空中戦では飛ぶ相手をこちらも飛びながら攻撃するため、飛行機の動きを考慮しないことには爆弾は当たらない。その原理を学ぶためだった。また実地訓練では、飛行機の操縦ではなく、後部座席に座る人員としての訓練を受けたという。具体的には、航法術による航跡把握(飛行機は風に流されるので、常に経度緯度を測り、現在地を把握することが重要だった)、電信、射撃など。爆撃・雷撃においては、操縦者に飛行方向やスピードを指示する役割も担った。

*3)青島には「青島航空基地」と「滄口航空基地」の2つの海軍基地があった。又彦が派遣されたのがどちらの基地かは不明だが、開隊後間もない様子であること、カネボウの寮を宿舎としたこと鑑みると「滄口航空基地」だったのではないか。(当時、滄口には広大なカネボウの工場、社宅があった。)

*4)中華航空株式会社。中華民国臨時政府、同維新政府、蒙疆連合委員会の出資を仰ぎ、昭和13年設立。終戦まで日本軍占領地域での航空輸送を担った。


■参考
「中華航空株式会社」について:「中華航空株式会社設立要綱」国立国会図書館サイト
青島の2つの航空基地について:「旧海軍の基地と施設」桜と錨の海軍砲術学校サイト


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