水にただよう浮草日記

自称文人、でもあっちへこっちへ行方定まらない。そんな浮草が芝居、映画、文学、美術、旅に関してのコメントを書き連ねます。

映画「ローマ」

2019-03-24 16:03:44 | 日記・エッセイ・コラム

映画「ROMA」

最初NETFLIXでしか見れなかったというのが、渋谷のユーロスペースでかかっていたので、見ることができた。白黒、昔のドキュメンタリー映画のよう。1970年メキシコ、ある裕福なファミリーの住み込み家政婦のある日常のひとこまを切り取って、メキシコの1970年代にあった経済格差、地震などの災害、反政府デモなどの事件を淡々と描いたもの。ただただ切なく哀しい。主人公のクレオ、という女性がフェリーニの「道」に出てくるジェルソミーナのように哀れで切ない。

同じメキシコ人で、西欧人のような人と先住民族系の人がいて、西欧人風のほうは上流階級で、先住民風の人は住み込みいで家政婦として雇われている。

先住民族のクレアは小柄で、おとなしく無口。一言も不平も言わず黙々とご主人様の洗濯、掃除や4人の子供の面倒を見る。水のすくない乾燥した貧しい農家に生まれ、実家に帰ったところで歓迎されることはない。休みの日、同じ先住民族の男に誘われ言われるがままになり、妊娠して、逃げられ捨てられ、男を追っかけて、やっと見つけたと思ったら「嘘をつけ、家政婦のくせに」を悪しざまにののしられ、その男が反政府デモに交じってゲリラのようになっていた。 そのデモの混乱の中、破水して病院へ行くが、苦しみ抜いた出産の末、死産。ご主人の奥様のほうは、旦那が浮気して、こちらも逃げられてしまった。クレアが色々な出来事や運命をあるがままに、感情をこらえて引き受けているのに対して、ご主人様の奥様は何か起きるといちいち一喜一憂し、わめいたり泣いたりして、対照的だ。

クレアに感情がないのではなく、いかに忍耐強いか、最後の海辺でつぶやいた、「生みたくなかった」の一言で分かる。私はクレアがかわいそうでならない。そういう映画。日本でいれば幼くして子守り奉公に出されていた農村の原風景。経済格差の問題、女の持つ産むという存在の在り方をそのまま観客の前に晒した映画。

なぜラストのエンドロール、洗濯物をもって屋上へのぼったまま、クレアが戻ってこず、そのまま屋上へつづく建物と階段を延々と写し続けていたのか、さっぱり分からない。タイトルがなぜ「ローマ」なのか?、メキシコシティーにローマという場所があるらしいが、それでしょうか。


劇団青年座「SWEAT」

2019-03-14 15:49:47 | 日記・エッセイ・コラム

劇団青年座 「SWEAT」スウェット

作=リン・ノッテージ 翻訳=小田島恒志、小田島則子

日本人がジェイソンだとか、クリスだとか、トレーシーなどという名前で登場すると最初は違和感を覚えるが、次第に劇に引き込まれ、全く問題なくなっていくのが不思議だ。俳優たちの役へののめり込みはいかばかりであろうと思う。

アメリカの鉄鋼産業で働く家族らの物語。工場で働き、労働組合に加入し、オフになればバーで騒ぐ、その生活がどれだけかけがえがなく誇りだあることか。祖父もそうだった、父もそうだった。しかしNAFTA北米自由貿易協定によって鉄鋼業は衰退し、そのシステムが崩壊していく。この物語は、ある事件がおきた2000年と8年後のある時期を切り取ったもの。

工場で働く人種の違う3人の女がバーで楽しく騒いでいる。場面はほとんどこのバーで展開する。

そのうち一人が黒人女性で、現場労働から管理職に昇進する。それからというもの、いろいろなものが壊れ始める。友情は見せかけだけだったのか、人種差別、嫉妬や疑心暗鬼でののしり合い、労働組合はメキシコ移転反対ストを行うが、中米系の移民の安い労働者が雇われていく、そして工場は縮小していく。裏切りものとののしられ、黒人女性は「会社は何故私を出世させたのか、仲間を工場から締め出すという仕事のためだったのか」と叫ぶ。

その女たちの息子らの怒りは、安い労働力の移民へと向かっていく。そしてバーで働く移民オスカーのことで事件が起きる。

ギリギリで生きている人々がお互いを傷つけあうことで成り立つ社会。

問題の本質はどこにあるのか、怒りの矛先をそっちに向けちゃあいけないよ、と観客は心で叫ぶ。短期的利益しか見ないグローバル企業、GAFAに代表される一部の大グローバル企業が富を独占して、それ以外は全員貧しく苦しい。貧しい人々はお互いを傷つけ合うことで自滅していく、その現実を暴き出した優れた劇。

ラストは出所した二人の息子、そして今はバーでマネジャーになっている移民のオスカーが出会い、近況を話すうち、なんとなく明日が見えてきているようにライトが当てられて終わる。救いはあるのだろうか。観客に大いに考えさせて幕は下りる。

青年座では、貧しさと生きがいに苦しむ労働者の話で「鑪」という優れた劇があった。この翻訳劇は、問題提起という点では素晴らしかったが、「鑪」には及ばない。「鑪」では問題提起があり、そしてラスト、強い希望でもって終っていた。その希望とは職人に対する敬意、その道を歩もうとする青年の姿だった。

 

 


映画「グリーンブック」

2019-03-07 19:12:02 | 日記・エッセイ・コラム

グリーンブック

差別問題の映画が、何本作られたら、差別がなくなるのだろう。これからもどれだけ映画の題材にになることだろう。

1960年代の非人間的な黒人差別の実態をコメディータッチで描いた映画。おもしろけれど、腑に落ちない映画。

黒人のクラッシックのピアニストが上司で、イタリア系移民のドライバーが部下。男二人がコンサートツアーで各地を回る珍道中。行く先々での様々な黒人差別。じっと耐えるピアニストとその差別が許せなくなってくるイタリア系のドライバーの男。加えてイタリア系移民の家族的つながりや夫婦の愛なんかをいれてほろりとさせてくれる。

ドライバーはこの役のために20K太った、まさかのヴィーゴ モーテンセン。イタリア人はお下品で食べることばっかり考えているっていう?、黒人はクラッシック音楽やると天才をよばれる? でも最後に酒場でちゃんとジャズピアノをやるから、心配しないで! そうこなっくちゃ。絶対やると思ったよ。ああ、なんというステレオタイプ、安心した。

すごいのはエメラルドグリーンのキャデラック!なんと美しい車!その車に二人が乗って1960年の南部を走っていくんだけど、カーラジオから流れる音楽が懐かしい。違和感なくあの時代に引きずりこまれる。

もうひとつすごいのが、ピアニストが毎晩ホテルの飲むのがカティサーク。なつかしいなあ。昔、すかしたバーへ行くとあったよね。カティサークと聞いて、思い出ボロボロになてしまった。

でも、差別問題をこんな風に茶かして、あたかも過去の問題みたいに軽く流すのよくないと思うけれど。今の差別のほうが、見えにくく凄まじいと言っている人がいた。もし私が黒人かイタリア人だったら、いやーな気がすると思うだけれど。