水にただよう浮草日記

自称文人、でもあっちへこっちへ行方定まらない。そんな浮草が芝居、映画、文学、美術、旅に関してのコメントを書き連ねます。

マッドマックス 

2015-07-24 10:24:01 | 日記・エッセイ・コラム

映画 マッドマックス 怒りのデスロード

梅雨が明けて暑いですね。35度、外にいるだけで汗が流れ目に浸みる!

陽ざしを浴びると倒れそう!こんな酷暑に耐えられそうもありません。

そういう時はマッドマックスだ!

マッド(狂気)がマックス(最大限)

これは、私に言わせればマッド オーバー ザ マックス (狂気の限界超え)だ!

その世紀末的退廃度、その美意識、妄想未来の絶望度、改造車のとっぴ度、登場人物の狂気の度合いと異常性、どれをとっても私の驚きがちっぽけなゴミのように思える。

未来もので退廃的な美しさと言えば、ブレードランナーがあったなあ。あれば文明が発達した姿だった。

これは核戦争で文明壊滅45年後 、砂漠と化した地球。緑、水、燃料などはほとんど枯れ果てた。土壌も汚染され作物は育たない。生き延びた人間のほとんどが核汚染物質の影響で奇形で病気だ。生命維持装置を付けた悪の親玉、ドクロをそのまま人間にしたような様相、長男はレスラーのようなガタイなのに、肺気腫なのか酸素を背負い鼻から酸素を供給している。 

白血病なのだろうか、長く生きれない若者たちはウオーボーイ(戦闘員)と呼ばれ、狂気の戦いに真っ白なその肉体を惜しげもなく投じる。跳躍するその白い姿は暗黒舞踏か駱駝館のように妖しく退廃的だ。車やバイクに取り付けた竹のように、べらぼうに長い棒に肉体をくくりつけ、テコの応用で裏切りものの車に飛び移る。どうせすぐ死ぬのだ、かっこよく死にたい、それが彼らの一番望むものだ。

文明は滅んで、デジタル的なもなのはなく、鉄くずを集めて作ったのだろう、5、60年代くらいのレベルのエンジンで最高50Kくらいしか出ない、でかい排気口を何本もつけ、人が口からオイルを含んでその排気口に吹きかけると、炎があがりエンジンが唸る。 キャデラックみたいな車体を2個重ねて(親亀の上に子亀状態)にタイヤはオフロード用のでかいやつ、ごっつくて情けないのだけれど、走る姿はなぜかかっこいい。前作でメルギブソンが乗ったインターセプターという車も出てきたらしい。よく分からないけれど、私には。

ドクロ親分の車の前には、ねぶた祭りのでかい太鼓そっくりな太鼓を叩きまくり、ギターをかき鳴らし、景気を盛り上げる巨大トラックが先導し、裏切りものを追いかけ戦いを挑みに行くのだ。

バイクはマシン的なふつうのバイクに、日本の戦国武将が馬に長い旗竿を括り付けような旗を立て、隊列を組んで砂漠を疾駆する、その俯瞰図は、絵巻物のようでかっこいいのだ。

裏切りものは、汚れても美しいシャーリーズ セロン(ドクロ親分の片腕だった)とドクロ親分の5人の美しい妻たち。砂漠と絶望の中だからこそ、美しさが際立つ。

美女たちたちはドクロから逃れて、かつての緑の地へ向かう。しかし、汚染が進み緑は消え果て砂漠と化していた。

おっと、主役のマックスを忘れていた。 ドクロ軍団に捕まった一匹オオカミのマックスは白血病のウオーボーイの輸血要員にされていたが、何かの拍子に逃げ出して美女軍団と行動を共にする。マックス役の俳優、続編の契約書にサイン済みとか。 

3DでなくてもOK. 


こまつ座 父と暮らせば

2015-07-16 09:59:53 | 日記・エッセイ・コラム

こまつ座 「父と暮らせば」

広島原爆で亡くなった父が幽霊となって現れて、挫けてしまいそうになる娘を励ます。

娘は原爆で亡くなった友人、父に負い目を感じ、生き残ったことの罪悪感に悩む。

登場人物 父と娘、二人だけ

雨が降れば漏るような古い家

広島弁

広島が河に囲まれた美しい街だったこと、味噌に「いりこ」だかを入れすり鉢で擦った郷土料理があることを楽しそうに語る。それが一瞬にして、2万度の熱風と放射線に焼かれる、その惨状を語る。

広島に落とされた原爆はウラン型、長崎に落とされたのがプルトニウム型。アメリカはマンハッタン計画で実験中であった異なるタイプの原子力爆弾を日本で実験したと言われている。

アーサービナードというアメリカ人がいる、アメリカ人なのに、奇特な人で、日本人の側に立って原爆の不条理を訴える。ピカドン、その言葉こと落とされた側の原爆の言葉以外何ものでもないと訴える。

エノラゲイから撮られた巨大なキノコ雲が原爆なのではなく、ピカっと閃光を放ちドンと爆発し熱風が走る、それこそ原爆なのだ、と。70年経ってもなお後遺症に苦しむもの、であると。

父は娘に語る、「お前は生きなければいけないのだよ、生きて伝えるのだよ」と。

二人の役者の魂の演技に涙しない人はいないと思う


散歩

2015-07-12 21:31:55 | 日記・エッセイ・コラム

久しぶりに駒沢公園へ散歩に行った。長く雨が続き、その上バイトやら、朗読の練習やらで散歩から離れていた。やはり散歩はいい。散歩をすると、気が晴れる。いろいろなくだらないことを考えながら歩く、時々朗読のフレーズをつぶやいたり。

人は歩く動物だなあ、歩いている時にアイデアが浮かんだり、解決の糸口が見つかったり、救われるような気になったりしないだろうか。

すっかり緑が濃くなって、外周トラックは緑のトンネルの中。木の名前分かりませんけど。

暑い、6時になろうとするのに、雲は薄く、空は青色を留め、太陽はぎらぎらで、俺は沈まんぞと言わんばかりに木の間から強い光を射してくる。くたびれたカラスの鳴き声。ハトはどこかへ消えた。

中央広場にでると、高校生だろうか、サッカーの大会のいろいろな色彩のユニフォームの一団。塔は改装を終わり白くきれいだ。たくさんのジョギングの人、たくさんの犬、日曜日。さあ、明日から一週間が始まる


新宿梁山泊 「二都物語」

2015-07-03 21:36:21 | 日記・エッセイ・コラム

演劇の感想が多いです。 ライブ感が麻薬のように私を芝居小屋へ駆り立てるのです。

「二都物語」 

作 唐十郎 新宿梁山泊

唐十郎、テント、新宿花園神社というと、昔を思い出すなあ。懐かしさのあまり涙が出るなあ。

ふつふつと湯が沸くような、熱く高揚していた時代だったなあ。何か今日にでも起きるような気がして落ち着かない日々だったなあ。

その時代にあって、自らの肉体を過酷な状況に追いこんで迫真の演技をする役者たち、妖しいなりで現れて笑わせて、でも哀しくてかっこいいヒロインとヒーローがスポットライトに照らされる。ラストには必ず、待ってました! 想像を超える、どでかい劇的な舞台装置が登場し、ヒロインが長台詞を発しつつ大見得をきるのだ。

窮屈な桟敷席で舞台を見上げていた観客は、浮揚感とカタルシスを覚え、肩で風切って紅テントを出たものだった。

登場人物と言えば、一般市民からはるか遠く離れた底の底にいるような人々や救いようもなく不自由で傷ついている人々、プロパガンダや思想的なことからなどむずかしい講釈を言わず、おのれの肉体のエネルギーとまじないのように発する言葉のダイナミズムに底辺からの一発逆転、起死回生を仕掛けるのだ。

「二都物語」は二つの都市、韓国と日本のどこか。客席めがけて飛び散る大量の水しぶきと共に登場するのは、玄界灘を超えてやってきた国籍をもたない流浪の人々。たんツボを持ち歩く謎の女は朝鮮名のこれ以上落ちようもない女、愛人なのか妹なのか、その男は兄なのか、ひもなのか? 顔を持たない万年筆工場の女たち、国に戻れない元日本兵の幻影、どこにも居場所のない人々の哀しい叫び!朝鮮と日本の間を彷徨って、彼らは玄界灘へ飛翔していくのだ! 

「辺境最深部へ向かって退却せよ」(大田竜)ではないけれど、条例やら法律やら市民生活の基本的な網から外れた人々。これら人々が昭和の残骸や時代はずれでもなく、強い存在感を放ち、熱い血がほとばしるように新鮮で胸を打つのはなぜだろう。

PS でもあの時代は戻らない。