成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

広岡浅子と日本基督教女子青年会YWCA、そして津田梅子 明治45年

2015年07月06日 | 歴史・文化
 浅子が創立準備時代に身を粉にして支援した日本女子大学校から女子青年会(YWCA)や御殿場での活動へ軸足を移すのは、明治44年クリスマスの受洗以後のことであろう。
 果断で実行力のある浅子のことなので、はやくも明治45年2月24日、女子青年会の委員例会が麹町区三番町の女子青年会本部において開催されたとき、浅子と津田梅子は、同会中央委員に推挙承認されている。
 女子青年会の中央委員は、当時、日本人の委員長、副委員長、外国人の幹事、副幹事などのほか、東京在住委員、地方在住委員(大阪、京都、名古屋、広島、函館)などから成っていたようである。
 浅子は、大阪在住委員であるケー・ツリスツラム、荒木幸子に加えて、三人目の大阪在住委員になっている。
 上述の委員例会の席上、外国人幹事のマクドナルドは、同会の発展を計るため日本人の総幹事1名を任用することを提案、承認され、その費用を募集することになった。津田梅子は、井深花子(中央委員長)、マクドナルドらとともに、日本人総幹事の候補者を推挙する委員となっている。
 ちなみに、小橋三四子は、この委員例会で支部報告などを行っている。
 日本人総幹事を聘するための募金経過については、金額の上位でみると、組織・団体としては、東京基督教女子青年会が金百拾円、個人としては、ミセス・フィシャー(東京在住委員)と広岡浅子がそれぞれ金壱百円を寄付している。津田梅子は、浅子には及ばないものの、金弐拾五円を寄付しており、貢献している。ちなみに井深花子(中央委員長)、三谷民子(記録書記)はそれぞれ金拾円を寄付している。
 浅子はさらに、娘の亀子と連名で、万国女子青年会への献金として、金五円を寄付している。献金の合計額は金参拾壱円四拾六銭であり、浅子母子の献金額は、大阪ウヰルミナ女学校の七円四銭につぐものであり、ついで東京女子青年会が四円九十九銭を寄付している。
 また浅子は、機関紙『明治の女子』誌を500部購入し(1部郵税共5銭)、女子青年会に寄付、学校、諸所の寄宿舎、看護婦会等、凡そ20箇所に配布されたという。
 このようにみてくると、浅子は、かつて日本女子大学校の創立を支援したように、受洗以後、女子青年会を強力に支援し、また講演などの活動を行っていることがわかる。
 浅子は嘉永2年(1849)生まれ、一方、津田梅子は元治元年(1864)生まれで、15歳、歳が違う。明治45年当時、浅子は63歳、梅子は48歳である。明治33年、麹町区一番町で女子英学塾を開校した梅子は(塾生10名)、明治36年、校舎を同区五番町に移転している。
 梅子は、明治38年、日本キリスト教女子青年会の初代会長に選出されたが、その後、3年ほどで辞任、病気保養と視察を兼ね、米国とイタリアを訪ねている。明治45年、梅子は浅子らとともに、再度、女子青年会の委員に就任したことになる。
 ちなみに、平塚らいてうは、明治39年、日本女子大学校を卒業し、英語を身につけるため女子英学塾、漢文を学ぶため二松学舎に通っている。「自伝」によると、「卒業とともに、英語の力をつけることにさしあたりの目標をおいたわたくしは、両親には無断で、麹町の女子英学塾の予科二年に入学しました。入学試験は女子大在学中に受けましたが、万一の心配を考え、本科をやめて、予科の二年というのを受けたのでした。そして本科に進む考えでした」と述べられている。














「津田塾大学デジタルアーカイブ」より。〈五番町〉女子英學塾校舎(震災前)、1903[明治36]年2月1日落成。麹町区元園町の校舎より移転した。
 平塚らいてうは、この校舎で英語を学び、近くの二松学舎で三島中州の漢文の講義を聴いていた。「女子英学塾でも、入りたてのころ、津田梅子校長にお目にかかって、「働きながら勉強したいと思っているので、学校で速記をとる必要のあるときは使っていただきたい」と頼みましたが、どうも津田先生には、こちらの気持ちが通じない様子でした。長く外国にいられた先生は、アメリカのことにはくわしくても、日本の生きた社会のことはあまりご存知なく、どちらかといえば世間知らずの人のようでしたから、こんなことを頼むわたくしを、
へんな新入生だと思われたのでしょうか」(『自伝』181頁)
ちなみに、らいてうは、当時、生活のために、速記術を習っていた。


「津田塾大学デジタルアーカイブ」より。
津田梅子 1 (つだうめこ 1)女子英学塾 開校当時の肖像(1901年頃)
この写真は、明治の写真師・柴田常吉 T.Shibataが撮影したものである。
柴田常吉は、広岡浅子のポートレート写真も撮影している。
2016年1月20日の当ブログ「三越の柴田常吉」を参照。


「津田塾大学デジタルアーカイブ」より。津田梅子 15 (つだうめこ 15)18歳頃
この写真はいわゆる名刺判写真で、明治の写真師・武林盛一S.Takebayashiが撮影したものである。
麹町区一番町に武林写真館があった。


「津田塾大学デジタルアーカイブ」より
女子英学塾・最初の校舎にて。(一番町)1901[明治34]年3月29日撮影。
この写真の台紙には写真師の名前が記されていないが、年代的に柴田
常吉が撮影したものかもしれない。


「津田塾大学デジタルアーカイブ」より
女子英学塾開校時の協力者たちとともに。(左より津田梅子、アリス・ベーコン、瓜生繁子、大山捨松)
(1901[明治34]年頃?)
この写真は写真館で撮ったものと思われるが、台紙がない。浅子は留学経験もないのに洋装が多いが、
米国留学が長く日本語もおぼつかない梅子が着物姿で写っており、着こなしやポーズもわるくない。
明治2年、津田家が牛込から向島へ移転したとき、当時5歳の梅子は、浅草で日本舞踊を習い、踊りが
好きであったらしい。その素養がいきているのかもしれない。

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