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成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

岩崎家&三井家と日本女子大学校、そして広岡浅子 明治30-31年

2016年01月12日 | 歴史・文化
岩崎家(のちに三菱財閥)と三井家(のちに三井財閥)は、成瀬仁蔵の女子大学校の創立計画に対して、多額の寄付金と、校地あるいは理科教室などを寄贈し、支援している。
 『創立事務所日誌』をみるかぎりでは、最初、岩崎家の支援が先行し、それを三井家が追う形で始まっていることがわかる。
明治30年10月の同日誌には、創立委員を「承諾したか、未だか」の一覧があり、岩崎弥之助がイロハ順のトップで承諾している。
  この一覧は、21名から成り、各氏名の頭のところに「諾」あるいは「未」(未定)の一字が記されている。
  承諾者は10名であるが、大隈重信、内海忠勝、近衛篤麿、西園寺公望、渋沢栄一、広岡信五郎(浅子の夫)、住友吉左衛門らの名前があるが、三井家の名前は誰も記されていない。なお、未(未定)は2名である。
  なお、それに先立って、8月9日、「女子教育演舌」を「発起人賛助賛成人等ニ贈る」というところがあり、宛先人の名前として56名が列記されており、そこには、岩崎男(爵)と三井三郎助の名前がみえる。
 また創立委員・広岡信五郎の夫人・浅子は、成瀬仁蔵の女子教育論に感銘・賛同し、『創立事務所日誌』には、東奔西走している様子が窺える。
「廣岡夫人女子大学用ニテ大和大瀧村土倉庄三郎君ヘ往新田同伴」「廣岡夫人下田歌子ヘ面晤ノ為須磨行 即日帰阪」「東京廣岡夫人ヨリ来状(但同家宛内々)」「廣岡夫人此夕東京ヨリ帰阪」などという記録がみえる。まさに本業をおいての支援ぶりで、寄付金のみならず、ご本人が実際に東奔西走したのは、浅子一人だけである。
 ところでこれらの記録をみると、浅子夫人には、実家(身内)の三井家への働きかけは後回しにするという目論見があったやにもみえる。
 ともあれ、結果として、1年後の明治31年10月、「成瀬 松村 麻生三氏三井邸ニ於テ廣岡夫人ト会合シ募金ノ事ニツキ下相談ヲナス」と記されている。
 三井邸というのは、浅子は三郎助の異腹の姉であるから、東京小石川の三井三郎助邸であると思われ、浅子が主導していることが窺えよう。


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