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成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

三井系企業の重鎮たちと日本女子大学校 明治32-33年

2016年01月13日 | 歴史・文化
益田 孝、中上川彦次郎、三野村利助、朝吹英二、池田成彬、馬越恭平は、三井直系企業で要職を務めた人たちである。
この内、日本女子大学校賛助員として名前を連ねているのは、益田、中上川、朝吹、三野村の4名である。おそらく三井家当主らから協力の要請を受けて承諾したのではないだろうか。
 成瀬仁蔵は、明治32年から33年にかけて、三井家各家を訪ねると同時に、これらの重鎮たちをくりかえし訪ね、血のにじむような努力を重ねていることがわかる。人力車を利用すると、お金がかかるので、自転車でまわっていたようである。
 しかし『創立事務所日誌』には、「不在」「差支」「取込中」「病気」などと記載されていることが多く、会えないことの方が多かった。意図的に避けられている節がないでもない。
 4名の賛助員の内、中上川彦次郎は金参百円、三野村利助は金弐百円を寄附しているが、益田孝と朝吹英二は名前を連ねているのみである。しかし惜しむらくは寄付をした中上川は明治34年10月に病没(享年47)、三野村は明治34年1月に死去している(享年59)。余命の少ないことを予感していたのであろうか。ほかに、池田成彬が金百円を寄附している。
 三井の大番頭であり茶人としても知られる益田孝は、管理部長の三井三郎助の下で管理部副部長、専務理事を務めることになるが、女子大学の創立には関心がなかったのかもしれない。のちに益田は、外孫娘のために、軽井沢の三郎助別荘からほど近いところにあるマクネア別荘を取得し、さらに小田原の別荘内の田舎屋を軽井沢に移築し、茶会をひらくことになる(2012.9.25記事参照)。
 朝吹英二は、若い頃、福沢諭吉のところに住み込み、澄夫人は、福沢の甥・中上川彦次郎の妹である。大隈重信の政治活動を財政面で支援したが、みずからも負債をかかえていたので、女子大学の創立には関心をもてなかったのかもしれない。子息・常吉が軽井沢の二手橋近くの外国人別荘を譲り受け、またヴォーリズ設計の「睡鳩荘」を建てるのは後年のことである(2012.11.17記事参照)。
 三井家は一門として、金参萬弐千四百四拾八円という最高金額を寄附しているが(後述)、三井系企業の重鎮たちはそれぞれの事情に応じて貢献したといえよう。

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