成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

広岡浅子と村井保固&キャロライン夫人、そして山室軍平

2015年12月23日 | 歴史・文化
 明治42年7月25日、桜楓会愛知県支部は、浅子のお膳立てにより、大倉孫兵衛邸において巡回講演会を開催する。
 当日、麻生正蔵学監の講話から始まり、メインの長井長義博士(化学)の講話と実験(丹下ウメらの補佐)が行われ、昼食後、大倉孫兵衛の挨拶、広岡浅子の講話、村井保固の講話と続いた。出席者は60余名、盛会であった。ちなみに長井長義夫人テレーゼ(ドイツ人)は、桜楓会補助団の発起人であり、補助団員である。
 名古屋の講演会が大倉孫兵衛邸で開催されたのは、孫兵衛が女子大学校の評議員であるだけでなく、夫人の夏子が桜楓会補助団の発起人(20名)の1人であり、さらに同補助団幹事(9名)の1人であることが関係していよう。また村井保固夫人のキャロライン(米国人)も補助団発起人の1人である。
実は、浅子が固めた桜楓会補助団の発起人、幹事、団員には、名古屋勢が多い。森村組の創業者である森村市左衛門の夫人菊子をはじめ、大倉孫兵衛夫人夏子、村井保固夫人キャロライン、廣瀬實榮(評議員)夫人鐵子らが補助団員である。
 これは、東京のほかに、大阪には浅子と広岡勢がいるのに対して、名古屋には森村市左衛門をはじめ森村勢で固め、まずは東京、大阪、名古屋の三都を押さえ、その後の全国展開を磐石のものにしようとする浅子の布石であったのではないだろうか。
 大倉孫兵衛の東京本邸は芝区浜松町にあるが、名古屋の大倉邸は、同市小林町84にあり、孫兵衛・夏子夫妻をはじめ令息、令嬢らが出席、東京から参集した者もいたという。
 東京で生まれた孫兵衛は、森村市左衛門の妹ふじと結婚したこともあり、森村組に入社、書店や洋紙店の仕事から洋食器の製造に転進し、明治37年、市左衛門と共に日本陶器を名古屋で設立、巡回講演会が開催された明治42年当時、日本陶器は躍進の時期にあたっていた。 ちなみに浅子が死去した大正8年、孫兵衛(T10没)と子息・和親は、大倉陶園を東京蒲田で創業、その後、皇室をはじめ、三井家、三越などの専用陶器などを手がけることにもなる。
 大倉孫兵衛は、森村市左衛門や村井保固ほどキリスト教には関心がなかったようだ。しかしキリスト教の一新派である日本教会を設立した松村介石と出合い、金銭的に強力に支援した。
  松村介石は、明治10年に受洗し、明治15年、日本組合教会の牧師となるが、翌16年には沢山保羅により按手礼を受けている。新潟県で最初のキリスト教系私立男子校である北越学館は、明治21年、米国から帰国した内村鑑三が仮教頭に就任したが、成瀬仁蔵らの反対により(北越学館事件)、わずか3ヶ月で辞任、その後任として教頭に就任したのが松村介石であった。
  麻生正蔵は松村の勧めで北越学館に赴任し、知己の成瀬仁蔵との交友が始まる。麻生はその後明治25年、梅花女学校の教頭として赴任するが、北越学館は翌明治26年に閉校となった。
  松村は、明治40年、儒教的キリスト教ともいうべき一心会を設立、その後、日本教会と改称、さらに明治45年、道会と改称し、大倉孫兵衛らの支援を受けて宣教活動を展開した。
  一方、広岡浅子と村井保固、そして森村市左衛門は、実業家でありながら、晩年、キリスト教に入信している点で共通している。浅子は、大阪教会の牧師・宮川経輝と並び、救世軍の山室軍平を師と仰いだが、村井保固は、山室軍平に対して強力な金銭的支援をしている。
 浅子は、この講演会の2年後、明治44年クリスマスに宮川経輝の司式により受洗するが、村井保固は明治40年頃からキリスト教に興味をもち、聖書を読み始めている。明治41年正月には、「本年の一月一日よりは心気を新たにして決心を強くし偏に神の力に依り、、、神と人類の為に心身を捧げ奉公する事を誓するなり」と誓っている。
 その後、大正6年2月、村井保固は、異色の巡回伝道師・好地由太郎の司式により名古屋で受洗している。ちなみにキャロライン夫人は牧師の家庭に生まれている。好地由太郎といえば、森村市左衛門が同じ大正6年の5月に受洗したときの牧師である(2015年1月28日の当ブログ「クリスチャン広岡浅子と森村市左衛門」参照)。
  山室によれば、名古屋に救世軍の会館を設ける際、在米中の村井に金五千円の寄付を願ったところ、帰朝した村井は一万円の寄付を申し出たという。救世軍の仕官学校を神宮前通に新築したとき、その資金捻出のため牛込区本村町の校舎売却計画が出たとき、村井は金四万五千円を寄付し、校舎は売却を免れ学生寄宿舎として衣替えし存続した。昭和5年以降、山室が救世軍から得る手当て分を村井は寄付し、さらに山室の住宅一棟を建て救世軍財団に寄付している。
  昭和11年2月、村井が慶応病院の病室で神に召されたとき、山室軍平は前日に続いて病床を訪れ、祈りを捧げ、見送っている。
巡回講演会での浅子の講話や村井保固&キャロライン夫人については、つぎのブログで取り上げよう。


村井保固夫人キャロライン 1855-1936  明治19年(1886)結婚


村井保固 明治18年1月


村井保固(前列右)と大倉孫兵衛(前列左) 明治18年1月、京都にて、和服・下駄履きで西洋帽子をもつ


村井保固(後列左)と大倉孫兵衛(前列左)・和親(後列右)父子、明治36年、村井は大倉父子と渡欧するが、ドイツで発病し、米国に戻り入院加療している  


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