成瀬仁蔵による日本女子大学校の創設については、各界の女性たちの支援を抜きにしてはありえなかった。
成瀬の女子教育論に感銘し、支援活動に邁進した広岡浅子(三井家出身)を筆頭に、三井三郎助夫人の壽天、大隈重信夫人の綾子ら、枚挙にいとまがない。
彼女たちは、夫の寄附行為とは別に、女性の立場から寄付金を出したり、同窓会館や寄宿舎などを寄贈している。
関西の実業家・広岡信五郎に嫁いだ広岡浅子を別格にすれば、三井壽天は、三井家一門の寄付金参万弐千四百四拾八円とは別に、千円と桜楓会館(木造3階建)、大隈綾子は五百円(重信は千五百円を寄付)、桂かな子は参百円、阿部抵子は弐百円、鳩山春子、下田歌子は百円を寄付、樺山伯爵夫人登茂子は寄宿舎(四千五百円)を寄付している(『日本女子大学校学報』第一号)。
ちなみに、創立者の成瀬仁蔵は千円、その右腕で後継者となる麻生正蔵は五百円を寄付している。
日本女子大学校創立後、卒業生の組織である桜楓会が設立されたが、それを補助する桜楓会補助団も浅子の主導により設立された。
その発起人や補助団員には、大隈綾子、渋沢兼子(栄一夫人)、広岡浅子、三井苞子(八郎右衛門夫人)、三井壽天子、西園寺新子(公望の娘)、森村菊子(市左衛門夫人)、大倉夏子(孫兵衛夫人)、住友萬壽子、長井テレーゼ、村井キャロライン、一柳まき子らが名を連ねている。
桜楓会補助団の趣意書には、「さめよ女、起てよ我が友、今こそは百年の計画をもて、担える使命に赴かんとするの日なり」とある。女子の高等教育と(卒業後の)生涯学習の推進に向けて女たちの力が結集されたといえよう。2016年2月1日、2日の当ブログ参照。
森村菊子は、桜楓会補助団幹事として貢献していたが、明治45年1月13日、逝去された。17日、女子大学校の新講堂で追悼会が開催され、翌18日、青山斎場で佛葬が営まれた。


成瀬の女子教育論に感銘し、支援活動に邁進した広岡浅子(三井家出身)を筆頭に、三井三郎助夫人の壽天、大隈重信夫人の綾子ら、枚挙にいとまがない。
彼女たちは、夫の寄附行為とは別に、女性の立場から寄付金を出したり、同窓会館や寄宿舎などを寄贈している。
関西の実業家・広岡信五郎に嫁いだ広岡浅子を別格にすれば、三井壽天は、三井家一門の寄付金参万弐千四百四拾八円とは別に、千円と桜楓会館(木造3階建)、大隈綾子は五百円(重信は千五百円を寄付)、桂かな子は参百円、阿部抵子は弐百円、鳩山春子、下田歌子は百円を寄付、樺山伯爵夫人登茂子は寄宿舎(四千五百円)を寄付している(『日本女子大学校学報』第一号)。
ちなみに、創立者の成瀬仁蔵は千円、その右腕で後継者となる麻生正蔵は五百円を寄付している。
日本女子大学校創立後、卒業生の組織である桜楓会が設立されたが、それを補助する桜楓会補助団も浅子の主導により設立された。
その発起人や補助団員には、大隈綾子、渋沢兼子(栄一夫人)、広岡浅子、三井苞子(八郎右衛門夫人)、三井壽天子、西園寺新子(公望の娘)、森村菊子(市左衛門夫人)、大倉夏子(孫兵衛夫人)、住友萬壽子、長井テレーゼ、村井キャロライン、一柳まき子らが名を連ねている。
桜楓会補助団の趣意書には、「さめよ女、起てよ我が友、今こそは百年の計画をもて、担える使命に赴かんとするの日なり」とある。女子の高等教育と(卒業後の)生涯学習の推進に向けて女たちの力が結集されたといえよう。2016年2月1日、2日の当ブログ参照。
森村菊子は、桜楓会補助団幹事として貢献していたが、明治45年1月13日、逝去された。17日、女子大学校の新講堂で追悼会が開催され、翌18日、青山斎場で佛葬が営まれた。


