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ちゃりんこロードマンと放浪日記

ブリヂストン ロードマンのレストアから、ロードマンと走る放浪日記

日東キャンピー(改)、リヤサイドバッグ・クリアランスの為。

2012-09-19 23:01:58 | ブリヂストン ユーラシア
リヤのサイドバッグが若干踵に当たるので、BSアトランティス・キャンピングのキャリアを真似てステーを自作しました。

ここから見ると、あと2~3cmフロント側にずらしたいところですが、ベルトの取り付け位置の関係でずらす事ができませません。


ステンレス8mmのパイプをチューブベンダーと言う工具を使って曲げましたが、素材が固いのであまり滑らかに曲げられませんでした。

テールライトも、オーストリッチのバッグのクラシックな雰囲気には、以前取り付けていた丸型ライトの方が似合うので戻しました。


基本重量配分はフロント3:リヤ7なので、フロントバッグ、サドルバッグに、2サイドの場合はリヤ装着です。
今後、テントを積載して4サイドの場合でも、3:7~4:6のバランスが私的にはベストです。
※積載重量にもよりますが、フロントヘビーで何度か悪路(砂利、泥のわだち)でハンドルをとられた経験がありますので、安全の為フロントはやや軽めの方が良いと思います。

輪行袋の購入にあたり、フロント2サイドに考えを改めました。

フォーク抜きを考えていますので、輪行袋はオーストリッチのR420ですね。

多摩川~昭島市内、史跡めぐり

2012-09-11 15:42:14 | ブリヂストン ユーラシア

多摩川沿いをサイクリングがてらに、昭島市内の史跡巡りをしました。(9月10日月曜日)

◎旧三井家拝島別邸(啓明学園北泉寮)

北泉寮は鍋島直大侯爵の邸宅として明治25年(1892)頃、現在の千代田区永田町の旧首相官邸のところに建てられた和館が原型となっています。
近代日本の上流階級の住宅に多く見られるように鍋島邸も洋館とセットの和・洋並置式邸宅として建築されました。
大正12年(1923)の関東大震災の際、洋館は崩壊しましたが、ほとんど被害を受けなかった和館は三井八郎右衛門が震災後、鍋島侯爵から買受け、昭和2年(1927)三井家別荘として現在の啓明学園内に移築しましたが、その際建物の大幅な増改築がされたようです。
北泉寮の名称は、北は三井北家(三井高維)の北を、泉は住友家(英子夫人の母方の実家)の屋号泉屋に由来しています。
北泉寮は造形的には江戸時代の大名屋敷の伝統を継承し、玄関部分の格式的な構え、主体部分の1階和風客室、2階御居間・次の間、奥様居間、御寝室などの座敷飾りなどに書院造りの流れが認められます。
また、1階洋風客室・次の間・御食堂には近代洋風のデザインが加味された折衷様式となっています。

※指定日を設けて公開していますので、見学希望の方は事前に申し込みが必要です。
啓明学園北泉寮特別公開(9月~12月)。
詳細は、コチラから!


◎九ヶ村用水取水口跡




◎八高線列車衝突事故~1945年(昭和20年)8月24日

八高線小宮駅 - 拝島駅間の多摩川橋梁中央部において上り列車と下り列車(両列車とも機関車1両、客車5両)が正面衝突し、客車が川に転落。少なくとも105名の死亡、67名の重軽傷者が確認された。終戦直後の混乱期のため、列車は通勤通学客に復員兵や疎開先から自宅に帰る人たちも加えて満員で、その多数の乗客が衝突により多摩川の濁流に流された。当日は激しい雷雨により多摩川が川幅いっぱいに増水していたこともあり、遺体が海まで流されて確認されなかった死者も相当数いるのではないかと言われている。

2001年に当時の車両の車輪が川の中州から引き上げられ、2004年に河原の公園脇に設置された(他に該当すると思われる機関車が存在しないため遺物と認定)。


史跡・戦災建造物 旧日立航空機株式会社 立川工場変電所

2012-09-04 17:42:00 | ブリヂストン ユーラシア

以前より気になっていた場所へ、写真撮影に赴きました。

この建物は、昭和13(1938)年に建設された航空機のエンジンを製造していた軍需工場、東京瓦斯電気工業株式会社(翌年、日立航空機株式会社立川工場<立川発動機製作所>に改名)の変電所です。
北隣にあった設備で受電した66,000ボルトの電気を、3,300ボルトに変電して工場内に供給する重要な役目を果たしていました。
外壁に残る無数の穴は、太平洋戦争の時、アメリカの小型戦闘機による機銃掃射やB-29爆撃機の爆弾が炸裂してできたものです。
工場地域への攻撃は3回ありました。
最初は...昭和20(1945)年2月17日、グラマンF6F戦闘機など50機編隊による銃・爆撃。
2回目は4月19日、P-51ムスタング戦闘機数機によるもの。
3回目は4月24日、B-29の101機編隊による爆弾の投下で、あわせて110余名に及ぶ死者を出し、さらに多くの負傷者を出しました。

この変電所は、経営会社がかわった戦後もほとんど修理の手を加えぬまま、平成5(1993)年12月まで工場に電気を送り続けていました。
都立公園として整備されるにあたり、一旦は取り壊される運命にありましたが、貴重な戦災建造物を保存し次代に伝えたいという市民の活動や、元従業員の方々の熱意がひとつの運動となり、保存へと実を結んだのです。
保存にあたっては、最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいただきました。
そして、東大和市は平成7(1995)年10月1日にこの建物を東大和市文化財(史跡)として指定し、末永く保存、公開するために修復工事を施しました。
戦後、戦争の傷跡を残す建物は次々に取り壊され、戦争に対する私たちの記憶もうすらいできています。
この建物から、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて受けとめていただきたいと願うものです。 

平成8(1996)年3月 東大和市教育委員会