世間では、よく品が大事と言われます。【品・品性】とは “道徳的” な基準から見た その人の性質・人格・人柄ですが・・では、この “道徳” とは一体どんなものなのでしょう。
【道徳】とは 人々が善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体で、外面的・物理的強制を伴う法律とは異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。これは小・中学校で行われる指導領域のひとつで、昭和33年に教育課程として設けられた。と辞書には出ています。つまり、これって 学校教育の一環として作られた “道徳の意味づけ” ですが・・まさしく一般の方が想像する道徳とは、このような当時の教育関係者がこしらえた道徳そのもの! と言えるかもしれません。
しかし 元々の道徳の意味とは 《道と徳を説く》であって、中国の老子の哲学なんですよ。老子のいう「道徳」とは、人や物の存在を成り立たせる根本的な原理を指し、物事が “道理としての道” に合っていて、はじめて他に何かを与えられる “徳“ になりえるというもの。つまりこれを『道と徳がひとつとなった』道徳と表してるのです。したがって、この視点から上記の例に照らし合わすなら【品性】とは『物事の道理に合っていて、他の徳を与えているかどうか』といった基準から見た その人の性質・人格・人柄となりますから、その意味合いもずいぶん変わってくるではありませんか。
たとえば ファッションなら、自分の装いが 他も含めたすべての環境と共にあり、なおかつ その行いの産物として、自他ともに何らかの効能を生み出す。これが品格ある装いになると思われます。よって、その装いに シチュエーションに応じた環境が考慮されており、自身だけでなく、相手に何らかの効果を及ぼさないなら、これは当然、下品ということにもなってしまうわけですね。つまり、その場その場で装いとは変わるものであって、もし「装いをマニュアル化してる」ならば、そんな装いなんて 何も効果を与えない! ということでしょう。
さらに老子はこうも述べています。「上徳の人物は、そういった哲学を自らが身につけてる事すら意識しないが、下徳の者は、自分の“異なる品性“を維持するためだけに毎日努力している」 さらに老子は、世間で言われる偽りの「礼・礼儀なんて、いさかいがあることを前提とする人たちのあだ花にすぎない」 ようするに、彼らがいう礼節など、はなから間違ってるのだから、そんなもてなしをすれば、相手の気分を害するので争いが起きるに決まっている。よって、最初から諍いが生じる礼など尽くしてるゆえに、何事にも言い訳を用意しておく必要があるのだ! と述べてるわけです。
一流のデザインは『機能・性能・効能』を兼ね備えてこそ。上徳をもたらす者が、自らにも他の人にも徳をもたらすなら、徳とは 維持するものでもなければ、画一化されたものでもないのでは? その時々で機能・性能・効能も異なるように、こういった道理は変化の中にしか期待できないと思うのです。すべては一体であり密接に関連しています。ゆえに自然に関する概念も、人間社会すべてに共通してるのが道理でしょう。
まさしくそういった観念に従った生き方こそが共生と呼ばれる気がしますが、ならば デザインも立体として一体形成型なのは当然であって、3Dプリンターなどの技術を通じて 科学はやっとここへ追いつきつつあるようにも感じられます。
すなわち、道など説かなくても、それが科学技術という実証によって、自然な形で社会へ反映される時代になってきた! これからは、鮮明で壮大な立体の世界が待ち受けてることが予想されますから、セルフデザインこそが、あなたの環境そのものを変えてしまう時代の幕開けなのかもしれませんよ。だとしたら 仕事にも装いにも、品ある性能や効能・機能性を追求してゆきたいものです。