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常識を変えよう! Change commonsense

常識が変われば 世界はもっと広がる

哲学の成り立ちとまっさらな認識活動

2017年05月12日 | 日記

認識とは ①物事を見分けて本質を理解し、正しく判断しようとする心の働き ②人間(主観)が事物(客観的対象)を認めて、それらを知ろうとする働き です。

まとめますと『①は「本当の事が知りたい」との人間の切なる願いであり ②は自分と社会との客観的関係性を知る働き』になりますが・・つまり 人間は「本当の事が知りたい。生きる意味って何なの?」その答えを見出すために、これまで認識活動を行ってきた! と言っても過言じゃないわけですね。

しかし今は、そういった人間の切なる願いである認識活動も、時代とともにどんどん純粋さを失くして「理屈や解釈がいっぱいつけられた、たんなる論理と化す」傾向も見てとれます。

そもそも 認識論には「人が理解できる限界について考察する学問」として発展してきた経緯もあり、これって最初は『科学哲学』や『科学認識』と称されていたと聞きます。哲学の始祖であるプラトンは、つねづね「知識なんてものは、師や賢者が一方的に教えられるものではない。弁論術による対話を通じてようやく到達できるものである」と弟子たちに言い聞かせており、つまり彼は「これが真実だ!なんてものはすべて嘘である」と皆に口酸っぱく説いていたことになりますし・・また その弟子のアリストテレスやソクラテスなんかも「知には常に何らかの前提が存在している。だから その前提となる事象そのものが、その都度問われるべきである」としていました。

彼らが提唱した 最初の哲学に基づくなら・・やはり、何かを認識する際には、今ある前提のすべてをいったん排除してしまう必要が出てくるかもしれませんね。何もない まっさらなところから、新たな気持ちで物事を再認識してゆく。これが理解を深めてゆく上では、最も大切なことなのかもしれません。


品性の意味とは

2015年02月23日 | 日記

世間では、よく品が大事と言われます。【品・品性】とは “道徳的” な基準から見た その人の性質・人格・人柄ですが・・では、この “道徳” とは一体どんなものなのでしょう。

【道徳】とは 人々が善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体で、外面的・物理的強制を伴う法律とは異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。これは小・中学校で行われる指導領域のひとつで、昭和33年に教育課程として設けられた。と辞書には出ています。つまり、これって 学校教育の一環として作られた “道徳の意味づけ” ですが・・まさしく一般の方が想像する道徳とは、このような当時の教育関係者がこしらえた道徳そのもの! と言えるかもしれません。

しかし 元々の道徳の意味とは 《道と徳を説く》であって、中国の老子の哲学なんですよ。老子のいう「道徳」とは、人や物の存在を成り立たせる根本的な原理を指し、物事が “道理としての道” に合っていて、はじめて他に何かを与えられる “徳“ になりえるというもの。つまりこれを『道と徳がひとつとなった』道徳と表してるのです。したがって、この視点から上記の例に照らし合わすなら【品性】とは『物事の道理に合っていて、他の徳を与えているかどうか』といった基準から見た その人の性質・人格・人柄となりますから、その意味合いもずいぶん変わってくるではありませんか。

たとえば ファッションなら、自分の装いが 他も含めたすべての環境と共にあり、なおかつ その行いの産物として、自他ともに何らかの効能を生み出す。これが品格ある装いになると思われます。よって、その装いに シチュエーションに応じた環境が考慮されており、自身だけでなく、相手に何らかの効果を及ぼさないなら、これは当然、下品ということにもなってしまうわけですね。つまり、その場その場で装いとは変わるものであって、もし「装いをマニュアル化してる」ならば、そんな装いなんて 何も効果を与えない! ということでしょう。

さらに老子はこうも述べています。「上徳の人物は、そういった哲学を自らが身につけてる事すら意識しないが、下徳の者は、自分の“異なる品性“を維持するためだけに毎日努力している」 さらに老子は、世間で言われる偽りの「礼・礼儀なんて、いさかいがあることを前提とする人たちのあだ花にすぎない」 ようするに、彼らがいう礼節など、はなから間違ってるのだから、そんなもてなしをすれば、相手の気分を害するので争いが起きるに決まっている。よって、最初から諍いが生じる礼など尽くしてるゆえに、何事にも言い訳を用意しておく必要があるのだ! と述べてるわけです。

一流のデザインは『機能・性能・効能』を兼ね備えてこそ。上徳をもたらす者が、自らにも他の人にも徳をもたらすなら、徳とは 維持するものでもなければ、画一化されたものでもないのでは? その時々で機能・性能・効能も異なるように、こういった道理は変化の中にしか期待できないと思うのです。すべては一体であり密接に関連しています。ゆえに自然に関する概念も、人間社会すべてに共通してるのが道理でしょう。

まさしくそういった観念に従った生き方こそが共生と呼ばれる気がしますが、ならば デザインも立体として一体形成型なのは当然であって、3Dプリンターなどの技術を通じて 科学はやっとここへ追いつきつつあるようにも感じられます。

すなわち、道など説かなくても、それが科学技術という実証によって、自然な形で社会へ反映される時代になってきた! これからは、鮮明で壮大な立体の世界が待ち受けてることが予想されますから、セルフデザインこそが、あなたの環境そのものを変えてしまう時代の幕開けなのかもしれませんよ。だとしたら 仕事にも装いにも、品ある性能や効能・機能性を追求してゆきたいものです。


ストレスの正体。ストレスとはいったい何でしょう?

2015年01月14日 | 日記

現在はストレス社会と言われます。しかし そもそもストレスの正体って、いったい何なのでしようか? 少し難しくなりますが、ストレスの正体をはっきりさせるために、これを科学的見地から考察してみる事にいたします。

辞書でストレスを引きますと「寒冷・外傷・精神的ショックなどによって起こる 精神的緊張や生体内の非特異的な防衛反応。または その要因となる刺激や状況。生物学的には、何らかの刺激によって生体に生じた歪みの状態を指す。」と出てきます。つまり、その人にとって 嫌な事・不快な事・怪我の他に、物理的な寒暖などによって “通常ではない刺激や状況” が生じ、肉体的・精神的な歪みが出る! これをストレスと呼ぶ! という解釈ですね。

しかし 何事においてもそうですが・・・こういった意味付けにおいて留意せねばならないのは、上記のような解釈が『商用利用目的で創作されたもの。いわゆる “お金儲けやマーケット的な観点で流布された作り話話ではないか?”』という疑念をつねに持っておくことではないでしょうか。

そもそもストレスとは、医学とはまったく無関係の「元々は材料力学上の専門用語に属する言葉」であって・・つまり そういったある意味 “別分野の使えそうな語句” を、商売に利用できそうだ!として、適当にそれらしく関連付けたものが、現在の常識になってしまったのではないか? といった考え方・物の見方なんです。

材料工学におけるストレスの意味とは・・たとえば スプリングを引き伸ばしたり、ゴム球を押し縮めたりした時に、その物質の内部に生じた歪みや応力の度合いを指す用途で使われ、ここには以下のような解釈があり・・それは ①この加えられた力は、その後 元に戻る力(復元力)として働く!といった力学的認識 ②その物質にかかった力が物理的限界を超えた場合には形態自体が崩壊する!といった物質の加工や形成に関わる論理的見解の二つになるでしょう。

さて、このように分けてみますと・・最初の辞書の解釈が『いかにも』に感じられてくるから不思議ですね。ようするに “もしも この材料工学用語を人間に置き換えるとしたら” ①人間にはストレスが必要である。それは元に戻る力を呼び覚ますからだ。これを利用すれば、免疫力の向上がはかられるのみならず、あらゆる実践的・経験的知性の鼓舞にもながるだろう。よって ストレスとは人間にとって有益かつ良いものである!との結論が導かれるはずなんです。ただし ②ストレスが限界を超えた場合には、人格的・肉体的崩壊が起こるかもしれない。だから その都度、解消したり緩和したりして、ストレスを蓄積させない事が重要になる。よって 人間にとって、ストレスとは有益であるとともに悪いものにも成りえる。といった二つの側面が出てくるのは当然に思われますよ。しかしながら、たいていのマーケットでは良い点が排除されて、悪い部分だけがクローズアップされてはいませんか? これは世間で言われる その他のリスクに関しても同様かもしれませんね。

まとめますと・・・物事には必ず良い面と悪い面がある! けれど その悪い面だけを殊更に強調して恐怖を植え付け「これを克服せねばならない」といったリスク回避における飢餓感を植え付ける行為が世間では横行していて、その最たるものが、何でもかんでも『ストレスが原因。ストレスは速やかに解消すべきもの。』といった観念かもしれない! ということなんです。

そもそもストレスの原因は、ストレッサーと呼ばれ、その外的刺激の種類から ●物理的ストレッサー(寒冷、騒音、放射線など)●化学的ストレッサー(毒・薬・麻薬など)●生物的ストレッサー(病や孤独感など)●感染心理的ストレッサー(不安心理)に分類されています。また ストレッサーが作用した際に生体は、刺激の種類に応じた特異的反応(パターン的免疫作用など)と、刺激の種類とは無関係な一連の非特異的反応(イレギュラー的ストレス反応)の二つを引き起こすことも知られてるみたいですね。

ただ 本来、ストレス反応とは、ホメオスタシス(恒常性=元に戻してバランスを取ろうとする力)によって、一定に保たれてるわけですから・・・それは同時に、生体の諸バランスが崩れた状態(ストレス状態)から回復する! といった作業が、体内で常時行われているがゆえに維持されるものでもある!ということも示します。よって人間とは、つねにバランスを崩した状態から復元を繰り返すことで生命を維持する!安定的であると同時に、不安定な生物である!ともとらえることができるのです。

もちろん過剰ストレスが限界を超えてしまうと、そのせいで身体や心に摩耗も生じますが、この身体的・精神的摩耗の事を、専門用語ではアロスタティック負荷と呼び・・・たとえば、外敵に襲われるような緊急事態においては、生理的・心理的な反応が即座に起こり、すみやかな避難や回避行動を起こさせたりするのですが、それも本能的な生きる力によるものでしょう。つまり、この生体反応こそが、交感神経系によって副賢髄質から分泌されるアドレナリンの効果と一致して、心拍数増加や心拍出量増加・筋肉血管拡張・呼吸数増加・気管支拡張・筋収縮力増大・血糖値増加などの『緊急事態の回避に有効なストレス反応』を生じさせ、日常生活の危険から私たちの身を守ってくれてもいるわけですね。

ここまで考察してみますと・・・なんとなく、ストレスの正体もおぼろげながらに見えてくると思われますが・・通常のストレスとは、身体内の反応を促進する有効なものだが、それは心拍や呼吸などの変化を伴わないため、普段は自分では意識できないし、また意識されてもいない。しかし、異常および過剰なストレスは、危機回避のために有効なものであると同時に、その際には心拍・呼吸などの増加を伴うため、本人にも その認識が明確に生じる!ということになります。

従って、通常ストレスに関しては何の問題もないし、むしろ免疫力・経験値向上のためには、すすんで作り出すべきものでもあるが・・・それは普段意識されていないのだから、殊更に恐れたり避けたりする必要もないはず。しかし異常や過剰なストレスが生じた時には、それは明確に本人が意識できるので、それに立ち向かうかどうか?は、その都度本人が決めることになるわけで・・・要するに、そういった緊急事態において、心拍や血流の増加が【はっきりとその本人に自覚された際】に、ここへ立ち向かうための闘争を選択するのか? ただ避けるための逃走を選ぶのか? は本人次第であり、その対処法いかんで、人生も決まってしまう!という側面も垣間見えてくるのです。

ちなみに科学では、アドレナリンが この闘争・逃走のどちらにも有効であることがすでにわかっていますから「ストレスが自覚された際に闘争と逃走のどちらを選ぶのか?は、ご本人の選択の問題である」ことは、もはや科学的な純然たる事実と言える気もします。いずれにしろ、私たちには・・ストレスを回避したり、上手に騙しだましつきあうといった消極的な言動だけではなく、あえて活用するという手だてもありそうです。そう考えると、もしかしたら、素晴らしい偉人たちは『あえて自らへ降りかかるストレスを真正面から受け止めて、これを有益なものへと活用できる達人だったのではないか?』そんなふうにも思えるから不思議です。


恥の文化から生じる意気と野暮

2014年12月24日 | 日記

恥じらいや羞恥心とは「自らを恥ずかしいと感じられる事」です。よって、一般的に言われる“恥知らず“の本来の意味とは『自分を恥ずかしいとは感じられない事』を指すのでしょう。しかるに野暮とは、意気の反対語ですから【意気とは何か?を知らない。恥知らずだとわからない。】ゆえの行いと言えるかもしれません。

ちなみに意気とは・・気質・態度・身なりなどがさっぱりと垢抜けしていて、自然に親しむ事を好み、色気のある事ですが、これは江戸における美意識(美的観念)のひとつであり、江戸時代後期に江戸深川の芸者(辰巳芸者)に関して、当時の民がこのように形容したのが始まりとされています。要するに、身なりや振る舞い・生き方が洗練されていて、カッコよい様を賛美した言葉。これが意気なのです。

また野暮とは・・人情の機微に通じず わからず屋で融通のきかない様。言動や趣味などが洗練されず無風流で無骨な事。くどくどしい説明などを用いて利発さを装ったり他を卑下し金銭への執着が激しい人などを指しますが、現代では、非実用的で表面的な見栄えの重視、ブランドへの無批判な信仰と依存、時代遅れのファッションや規則に固執する役人根性 、過剰な多機能なども野暮とみなされてるようです。

1930年に『いきの構造』という著書を出した 九鬼周造によりますと・・意気とは「他の言語に全く同義の語句が見られないゆえに、日本独自の美意識として位置付けられる」そうで、いわゆる一種の理想主義だとも表現されてますが、ここでは、ある種のやせ我慢とか反骨精神にこそ、それが顕著にあらわれると記されており、さらによく “いき” は、しばしば「粋(すい)」とも表されますが・・この粋は、本来 恋愛や装飾などの美を突き詰めた文化様式(読み物や着物など)に使用されるものであって、江戸文化の「意気(いき)」とは異なるとの見解もあります。つまり 彼が述べる意気とは、外側の見かけや物質に対する形容ではなく、その人物の中身としての理想・・人としての究極の様を表したものである!といった解釈もできるでしょう。

従って、意気に関する正しい使い方とは・・その方の生み出した二次媒体(仕事の成果や装いなど)ではなく、一時媒体としての その方本人(その仕事を成し遂げた方の“人となり“や 素晴らしい装いをしている本人のセンスのよさなど)に関する形容であることがわかってきます。

つまり 人が意気でいるためには「気質・態度・身なりなどがさっぱりと垢抜けしている=生き方に清潔感がある」「自然に親しむ事を好む=自然科学に精通している」「色気がある=性的魅力 すなわち異性にもてる」「身なりや振る舞いが洗練されている=動きや会話が卓越してる」「カッコ良い=態度・行動が爽やかで誰もが心ひかれる様」を身にまとわねばならないわけで・・もちろん 爽やかとは【心と体が正常で言動が偏らず、何事にもバランスが取れていて、すべてが正常に機能した揺るぎない状態】ですから、心身ともに健全かつ健康である!と同義語になるのは申し上げるまでもないでしょう。

江戸時代の日本人って「意気な人になれ。野暮は蔑まれるべき態度。」と公に推奨しながら、すべての方が健常者であるべき!との指針も世情へ反映してた いかにも意気な人たちだったのかもしれません。


正しさとは事実であって損得ではない

2014年12月02日 | 日記

“正しさ” とは何でしょう? 辞書を引きますと「道理にかなっている。事実に合っている。正確である。」と出てきますが・・これって、つまり 自然科学や哲学における “真理” のようなものかもしれませんね。しかし現在、巷で使用されてる意味は、これとは “似ても似つかないもの“ であり、おそらくは『得があれば正しい。損になれば間違い。』と 受け取られてるように感じます。

正しさというものを分類してみますと・・現代社会では「本人の得になる事=道徳・作法」「社会の得になる事=常識・法律」といった解釈がなされてるのがわかりますが、ようするに これらはもはや、現代では『道徳や作法を守らないとあなたが損をする。常識や法律を順守しないと社会が損をする。』といった考え方に様変わりしてる事も よくおわかりになるのではないでしょうか。

ただやっかいなのは、人間がそういった “正誤の基準=損得を瞬時に判断している点” にこそあるような気がしてならないわけで “瞬間に判断している“ ということは、すなわち【無思考】と同じ。つまり 思考が働く前に結論を下す! これが瞬時の判断になる次第です。従って 人には「これは正しい事なのか?」と熟考する習慣がなく、いつも無思考に正しさを判断してることになるのですが、この “無思考の瞬時の判断“ そのものを【思想】と呼ぶのかもしれません。

もし 人が常時 “その固定化した思想” によって “すべてを無思考かつ自分や社会の損得のみで判断してた” としたらどうでしょう? その選択は常にワンパターンになってしまいませんか? ようするに人は・・一度それが「自分の得になる」と信じ込めば、何も考えることなく 思い返すこともなく・・ずっと「瞬時に、それと似たような事象に関しては正しいと判断する」ものなんですが、これについては、また 反対も真なりで、一度それが「自分の損になる」と感じてしまえば、その後は無思考に 似通った出来事を誤りと思い込んでしまう」そんな見方もできるでしょう。

さて、そもそも得とは? また 正しさとは何なのでしょう? それって 哲学的・自然科学的にいえば、じつはあり得ない事になってしまうのですね。何故なら、もしあなたが “道理に合う事。事実。正確な事“ のみをしているなら、その目算通り・額面通りの事象が起こるだけだからです。つまり 自らが思い描いたとおりの物事が発生するのであれば、こんなの得にも損にも成りえない! そこには起こるべくして起こった事実のみがある! こととなり・・・あえて 損得など考える必要もないゆえに、そんなの初めから存在さえしないことになるわけです。

したがって、もしその方が損得で正しさを判断するような言動や行動をとるのであれば・・これは 未来を予測できていない証拠にも成りえるのでは? との考え方もできますよね。つまり 正しさを損得で選択するのは・・未来を予測したり、事実をきちんと捉えられていないから! とも、とらえることが出来るように思います。