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常識を変えよう! Change commonsense

常識が変われば 世界はもっと広がる

連鎖で作られて崩壊したバブル経済

2014年11月13日 | 日記

物事って、たいていは【連鎖と波及で出来てる】ように思います。つまり「この連鎖や波及の流れが行き着く先を、ある程度世間より早く読み取れたならば、ほとんどのビジネスはうまくいく」とも考える事ができるかもしれませんね。ところで、あの日本のバブル経済って どうやって発生し、そして崩壊したのでしょう? これを例にとって、連鎖と波及について少し考察してみることに致します。

まずは、電電公社がNTTとして民営化されたところからが始まりですよ。これを機に、証券会社と政府が「なんとか日本にも株式文化を根付かせようではないか」と、よこしまな考えを持ったと推測されるのです。そこへ新聞などのメディアが乗っかり、ことさらに「株を購入するようけしかけ」そしてほどなく、この思惑はまんまと成功。今まで株には縁のなかった一般の方々が、一斉に株を購入し始めたがために、日経平均が38,000円代へ突入する事態を向かえたのです。

すると、当然ながら “大企業は株式を新たに発行するだけで莫大な資金調達ができます” から、銀行からお金を借りなくなってしまいます。企業がお金を借りてくれないので困り果てた銀行は、貸し出しの目を “じつはお金を借りる必要性がまったくない一般市民“ へと移してしまうのですね。そこで「この絵画を買いませんか? お金はいくらでも当行が貸し出します」「この土地やマンションを買って運用しませんか? お金も貸しますし、新たな買い手も私たちが探しますよ」といった、いわゆる当時よく見られた “銀行によるお金を借りてください行脚” が全国で始まってしまったのですね。

こうなると、土地や建物・絵画などの値段は上昇の一途を辿り、ついには【運用に縁なき一般市民が土地も建物も購入できない状態】が発生してしまいます。そこで「私たちにも家をよこせ」といった地元のクレームに困り果てた政治家たちはどうしたのか? とうとう官僚へ圧力をかけて、強制的にこの流れを断ち切るよう指示を出さずにはいられなくなって、ほどなく財務省から銀行に対して貸出禁止のお達しが出される。お金の流れが完全に止められれば、当たり前のように 誰もお金を借りられなくなって・・その後はご存じのとおり、土地を買わない、もちろん絵画など買わない!  価格も価値も大暴落!あえなく バブルは崩壊といった具合になったわけです。

上記を簡単に図式化してみますと『株式マーケットを構築するために官民一体となって株価のつりあげ工作が行われる ⇒ 企業がお金を借りなくなったために、銀行は一般市民へ過剰な貸し出しを行うようになる ⇒ 不動産ころがしなどが始まり 価格が高騰する ⇒ いったん あぶく銭を手にすると、みんなもはや歯止めがきかなくなる ⇒ 不動産価格高騰のため 家を買えない人が続出 ⇒ 政府が強制的に貸し出しを終了させる ⇒ バブル崩壊』という流れになるでしょう。

ちなみにリーマン・ショックでは、これが『低所得者向け住宅金融(サブプイムローン)』へ名目が変わっただけで、じつは貸出過剰の流れとしてはほとんど同じことが起こっただけ・・まさに、これって連鎖と波及以外の何物でもありませんでしょ。よって、世間では「あんな狂乱は二度と起こらないよ」なんて、まことしやかにささやかれたりしてますが・・実体は、おそらく また金融マーケット手法による同様の流れが出来れば、再度同じような現象が起こるのは目に見えてるような気がしませんか。これらを回避するにはきっと、ビジネスが連鎖と波及で出来てる事を、よくよく認識しておく必要があるのかもしれませんね。


利益誘導社会を生き抜くために

2014年11月10日 | 日記

「世の中なんて・・国の政策にしろ 経済や健康関連にしろ、何もかもが嘘だらけだ。」とお思いの方も多いのではないでしょうか? もちろん経済や国の政策などは マーケットと同じく “ある程度は創作せねば立ち行かない” のも確かですよね。しかし、ものは考えよう。どうせすべて嘘なら『その目的そのものを変えてしまう方策』もある気がします。

つまり 世の中では、ある種の【利益誘導】が目的化してるわけですから・・そこから生じる益が ①利益誘導を目論む者のみにあるのか? または②誘導している側と誘導されている側 双方に生じるのか? が問題になってくるということなんです。

しかるに、利益誘導という目的は同じであっても、誘導先が“自分だけなのか?” それとも“自他共なのか?” は【その方策が知的であるかどうか?】にもかかわってくるように思われてなりません。目的が自己利益なら、それはたんなる捏造や嘘にすぎませんし、それが社会貢献という他の利益を念頭に置いたものなら、嘘も知的となり、より多くの要素を含む発展・進化を目算したものになるのも道理でしょう。

ただ、ここでひとつの疑問が頭をもたげてきませんか? それは上記の①でも②でもなく・・自己犠牲によって、他の利益にのみ生きる人生もあるのではないのか? といった考え方です。けれど、それはボランティア活動限定でのお話かもしれませんね。経済においては 一方的な自己犠牲はタブーとされており、それでは継続性が生じないので、結果として誰のためにもならない! との解釈もあるからです。

よって、双方の益を目指す知的行為こそが経済の基本となるのは間違いありません。ならば やはりビジネスの基本は、最初の目的を見直すことに尽きるような気がしますね。「これは自らと社員だけの益なのか? それとも 自らを含めた すべての方に益がある事業なのか?」を、経営者はつねに再考しておく必要があるのでしょう。


能力を発揮して人生を謳歌する

2014年10月21日 | 日記

謳歌とは「声を合わせて歌う事。声をそろえて褒めたたえる事。」ですが・・これが “人生を謳歌する“ になると『恵まれた幸せを 皆で大いに楽しみ喜び合う事』といった意味になるかもしれません。ただ “恵まれた幸せ“ を感じるには【すでに恵まれていた事を自覚できてる必要がある】のも事実ではないでしょうか。

ところで、なぜ人って『人間は元々素晴らしい生き物なんだ』と思えないのでしょうね? それって、幼い頃から「人間は未熟な生物だから、使い方もわからず能力を発揮したらとんでもない事になる。よって 社会や常識が許す範囲の言動しかしてはならない。自由にしてはいけない。」と教育されたり、周りからもそう言われ続けてきたからかもしれませんよ。ならば、大人になっても「自分なんて何もできやしない・与えられた役目だけを果たすべき・誰にも迷惑をかけない範囲でやれることだけをやるのが分相応」なんて思い込んだとしても不思議ではありませんよね。

けれど、そもそも その能力をいかんなく発揮してこそ、人の素晴らしさって 初めて実感できるものではないでしょうか?  小さい時から「発揮するな」 と言われ続けてきた私たちには “能力の発揮の仕方がわかりませんし、そのための訓練を何も受けていない” のが実情に感じられます。

しかるに 最新の科学によれば『赤ちゃんは あらゆる言語や音に関する聞き分け能力を有している』らしいですね。ようするに、これは “大人になるにつれて、普段の生活で使われない不必要な音が省かれていく” ことを示します。しかし、もしも『あなたが普段の生活で使わない音が徐々に聞き取れなくなっている』のなら “普段使っていない音を意識してもう一度使うようにすれば、その能力は取り戻せるかもしれない” とも考えられませんか? 


つまり「音に関して 人間の能力を最大限に発揮したいのであれば、赤ちゃんの時の聞き分け能力をもう一度取り戻す必要がある。そして、そのコツは使う事にある。」というわけですが・・人間の能力が【使わなければ使わないほど失われてゆくもの】なら【人生を謳歌すればするほど能力が取り戻せる】のも、また事実かもしれません。そう考えれば、人生は いろんな変化を楽しんで、より多くの能力を発揮して使った者勝ち! とも言える気がするのですが。


世がマスカレード (Masquerade)ならば・・・

2014年10月10日 | 日記

マスカレード (Masquerade)には、仮面舞踏会のほかに “見せかけや虚構” といった意味があります。見せかけや虚構と聞くと、いかにも悪いイメージを持ちがちですが・・じつはこれって「想像力によって、人物・出来事・場面などを設定して、これらを緻密に組み立てながら、事実ではないことを事実らしく作り上げる行為」を指しているのですね。つまり、マスカレードとは 小説などの創作物すべてに共通する 何かを作り上げるための基本中の基本と言えるものなんです。

では、ビジネスって事実だけで成り立つのでしょうか? いろいろ深く考察してみれば、現在では当たり前の 自家用車も家電商品も、一家に数台も必要なものではありませんよね。よって、厳密に申し上げれば 便利・簡単とか、先進的な暮らしなんてのも、虚構によって作られた一種のマーケットには違いないのです。

そもそも事実とは『自然科学へ属するもの』であって、それは実証科学の分野に限定される事象と言えますが・・もちろん 経済やビジネスは、一部を除いてここには属さないのは申し上げるまでもないでしょう。したがって言い変えれば、ビジネスにおいて問われるのは「フィクションを、いかに既成事実化して真実へと変えてゆくか?」に尽きるような気もするのです。

もしも、世の中のほとんどが マスカレードならば・・作られたものは 新たに作ることでしか払拭できないもの。ならば きっと、何が正しいかを論じるより、新しいものを創造することこそが重要で・・その過程において、役立たない古いものが無価値となって消滅してゆくだけの事なのかもしれませんよ。


医学と科学 そのスタンスの違いについて

2014年09月19日 | 日記

1967年にマーギュリスが提唱した『細胞内共生説』これは「ミトコンドリアや葉緑体・中心体などは 人の細胞内で人間と共生する他の生物」とする説で・・現代科学では、ほぼ これも実証されてきてるのが現状です。

ちなみに ミトコンドリアとは・・独自のDNA(ミトコンドリアDNA)を持つ生物で、多くの生命現象に関わる酸素呼吸の場として活動するもの。葉緑体は・・光合成をおこなう 半自律性の細胞。中心体は・・コケ植物や藻類の一部に見られる細胞を持つのですが、それぞれが独自の核を有する 人とは異なる生命体として、私たちの体の中でたしかに存在するものなのだそうです。

このうち、ミトコンドリアについては、古くからガンの発生に対する関与が指摘されていて「ガンとは・・ミトコンドリア遺伝子の突然変異によって引き起こされたもの」との指摘が随時なされてもいるのですよ。その理由としては「特定の発がん性化学物質が、DNAよりも ミトコンドリアDNAのほうへ結合しやすい事」「ガン組織は 正常組織よりもミトコンドリア遺伝子に高い割合で突然変異が蓄積している」などの観察結果が挙げられています。

けれど、こういった見解って、世間でははあまり取り上げられていませんよね。なぜか? 簡単に言えば、それは・・ここにいくつかの矛盾があるからなんです。ひとつは「母性遺伝するガンの存在が完全には まだ確認されていない事」二つ目は「DNAの影響を完全に排除して、ミトコンドリア遺伝子単独でのガンへの影響を検証する手法がいまだ確立されていない事」が主な理由になっているわけです。しかしながら 2008年の筑波大学のマウス実験では、ガンの転移や悪性化に ミトコンドリアが関与していたとの発見もなされていますし、最近では 人間のガン細胞株においても、ミトコンドリアの突然変異が ガン細胞の転移を誘導しえることなども徐々に明かされてきています。

ここからわかってくるのは、医学と科学とでは、それを研究・実施する者の認識形態が完全に異なるということではないでしょうか。そもそも 医学というのは 臨床の世界であって、法律と同じように 過去の事例に基づいて処置法も蓄積されてきた経緯があり、多くの再現パターンによって、まずは その経過が明らかにされねば「手を付けない」といった世界観があるわけです。しかしながら、科学は あくまで仮説と考察による推論構築からなるものであって、それらは必ずしも再現性のみで語られるものではなく、可能性や未知を解明する手法に由来するとも理解できそうです。

したがって、医師から言わせれば「科学なんて所詮は現場主義ではなく ただの想像にすぎない。どんな副作用があるかわかったものじゃないのに、そんなことしたら患者に責任がとれないじゃないか。」となるでしょうし、科学者からみれば「医学なんて50年は遅れている。新たな可能性へ挑戦もせず、同じことばかりしてるじゃないか。それじゃあ、ただの作業員と変わらないよ。」となるかもしれません。つまり 双方ともに一理あって、いかんともしがたい状況があるのですね。

これって、いかにも難しい問題ですが・・最近のiPSの臨床にしても それはしかり! かもしれません。加齢黄斑変性やタナトフォリック骨異形成症に関する見解も、医学畑の方は「そんなの まだまだこれからだ」と言われるでしょうし、科学関係の方は「すごい功績だよ」と興奮を覚えずにはいられないでしょう。個人的には私は後者のスタンスであり、可能性を信じますが・・ある意味 事故を防ぐには前者の立ち位置も重要ですよね。ただ、何事も「否定のための否定」では 未来が立ち行かないことだけはたしか。大切なのは、たとえそこに矛盾があろうとも、両方の見解を同時に持ち・・未来を信じて将来に期待を抱きつつ、大胆に行動しながらも、かつ慎重に前へと歩を進めることかもしれません。