Chan-de-lier(シャンデリア)のギタリストのBlog

久々にアドラー心理学の話『嫌われる勇気』

2024年06月15日 10時53分00秒 | 日記
※タイトルを嫌われる勇気に修正しました。

ふう…



やっぱり休日はいいな。休日は好きなことに没頭できるし、文鳥と戯れることだってできる。(実際いつも文鳥にキュルルル!!って威嚇されているだけだが)

アドラー心理学の話をしようと思う。



メジャーな嫌われる勇気だ。(最近メジャーよりポピュラーって言った方がいいのかななんて無駄なことを考える。)


人間の残念な理想的な考え、心理が、万人に好かれたい!と思うことである。
これは人という感情を持った生き物である以上避けられないもの。


誰にでも愛されたい。



これについて掘り下げよう。



確かに誰にでも好かれることは理想かもしれない。しかし、まずはそれは理想だということを理解しなければいけない。

例えば、どんな相手にも好かれるという合理的手法があるのならば、人はどんな人とでも結婚できるみたいなトンデモ論も可能であるからである。
さて、あえてここは不可能という言葉を使わずに説明したい。

そもそも他人が自分を好きと思うかどうかは他人の考えであり、自分がどうこうできるものではない。(これがアドラー心理学で一番言われている説)
しかし、上で言ったように不可能ではないかもしれない。それは相手が求める自分に100%なりきれた場合である。

なんだ?
できるんじゃん。


そう思った人は結構人生において自分がしたいことベースではなく、他人に好かれたいであったり、他人に言われるがまま生きている人である可能性が高い。



相手が求めることというのは、いわゆる自分がしたいことではないのだ。

まぁ、完璧にあらゆる意見が合致した2人が結ばれてめでたしめでたし。という物語もあるのかもしれないが…(そんなやついないだろ)



他人に好かれるために自分のやりたくないことをして他人の理想的な自分になる。という人生を否定はしないが、これは仮に恋人になれた後も相手の顔色を伺いながら生きていく(要は無理をしている)ことになるため、精神面でどんどん疲れていってしまうのだ。

例では恋人としたが、友達も同じである、嫌われたくないからと自分がやりたくないことを他人ベースで行い続けていると、そのうち必ず『うわああああああ』である。


さて、何となく理解いただけたかと思うが、じゃあどうすることが健全なのか。



自分が本当にやりたいことを優先して生きることである。その結果自分のスタイルが嫌いな人が現れても仲良くなろうとはしなくて良い、嫌われても良い。気にしなくて良い。と考えることである。
何故か、それは他人が自分を好きになるかどうかは相手が決めることであって、私のことをどうか好きになってくださいとお願いするようなことではないからである。



とまぁ、述べたところでアドラー心理学には補足が必要と僕は思っている。

この考えは健全に生きるためにはとても必要で効果的であるのに対して、

悪く言えば自己中心的な考えを持てということである。



ここについては人は何らかの集団で生きていく以上、自分のわがままを突き通して生き続けることもまた不可能である。

協調性やその辺りの話になるのだが、



私のように聖人になると(は?)もはや感情を消すことができるため、例えばそもそも自分がやりたいかに併せて駄々を捏ねてまで意固地になるような物事ではないことは捨てて問題ないと考えるのである。
↑この辺りアドラー心理学を知っている人がどれだけ理解しているか知らないが


嫌われる勇気は

自ら自己中心的になって集団の中で嫌われに行け!と言っているわけではなく、


他人にばかり合わせて生きるのをやめよ!


という、うったてを与えているのである。




人間は時に我慢も必要だし、理性も必要である。そういったことが理解できない人にはあまり向いていない心理学だといえる。


この辺り、感情に左右されない仕事であったり、他人を変えるより自分を変えよ!と言ったような考え方等を併せて取り入れることで理解できてくるのだが、

嫌われる勇気だけが一人歩きしているように思う。





自己中心的に生きても良いが、人間は集団で生活する以上、コミュニケーションを円滑にするために様々な努力が必要であること。ここは忘れないでいたいなと思う。




以上。



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