Chan-de-lier(シャンデリア)のギタリストのBlog

承認欲求①

2024年07月06日 23時50分00秒 | 日記
①ってなんだ?続くのか!?

人間誰しも、たまに自分を良く見せたくなる心情があったりすると思うのだが、これについては人間は仕方がないことだと思う。

しかし、まぁ過度な承認欲求は持たない方がいい。これについて個人的に論理的に説明できるかな、と思い、ブログを書くに至ったのだが、例えば他人に認められなくなると人は自暴自棄に陥る。

何で認めてくれないの!こんなに頑張っているのに!!!!


まぁ、少し話は変わるが、自分には才能がある、だとかそういった自信は持っていた方がいい。
僕は天才だ、とか、努力しているとか、自分を褒めてもいいと思うが。

まぁちなみに僕は少し違うパラレルワールドでは世界的に有名な音楽家になっていた予定である。しかし、今世の僕は目の前の家族を幸せにすることを最優先にした。これからもそれはずっと変わらない。

まぁこれも理由付けのように見えて自分の中で努力できなかった言い訳の正当化なのだろうが。


さて、話が逸れたから冒頭の話に戻ろう。
アドラー心理学を絡めて…



努力を認めてくれない。



という発言にフォーカスしたいのだが、

認めてくれない?


誰が?何の努力を?という話である。






かなり厳しい言葉になってしまうが他人が付ける評価というのは他人の物差しである。つまりあなたの努力そのものがそのまま反映される訳ではない。


よく分からない?


更に続けると、要するに努力というのは本質は他人を喜ばせるために、または認めさせるためにするべきものではない。と僕は思うのである。(僕は思うという表現を使ったのは僕がそう思いたいからである)

努力はいわゆる、自分がやりたいことの延長線上にあって、例えば勉強は自分が学ぶことの楽しみを得るためにするものであり、練習は自分がその対象のものを上手くしたいからするものである。

つまり、他人を喜ばせるため、他人に認めてもらうためだけにしている訳ではないのだ。



この点を勘違いして、好きでもない物事をミーハーに取り入れたりするのもそうだし、

本来自分を満たすことの本質、できるようになった自分を認めてあげること、ができていないと思うのである。





努力が認められない?




もっと努力すればいいんじゃないのか?



分かってくれない、理解してくれない!



もっと努力すれば良いんじゃないのか。





先に述べたが評価は他人の物差しでするものである。

これが今回話す内容の結論なのだが、



承認欲求が強く、認められないと嘆く前に努力は直向きに続けるべきだし、
努力っていうのは限界なんかはないのだよ。


こんなに頑張っている!



こんなに?とは?




誰が決めるの?




あなたがそう思いたいだけでしょ?



そういうことなのである。





つまり努力限界っていうのは決めているのは自分の物差しなのである。
自分の物差しを

他人が認めてくれるとは限らないし、



ならばどうするのか、というと
誠実に努力を生涯続けていくしかないということになる訳だ。
その結果が評価になるだけである。


他人が自分をどう思うかなんか考えなくていい。努力を死ぬまで続ければいいだけだ。

と僕は思う訳だが。







あと、例えば逆に自分のダメなところを探し出したらキリがないはずである。

だったらダメなところを克服するためには?



努力を続けるしかないよね。





まだまだ自分なんて全然凄くないよ。そういう気持ちで向上心を持つことがモチベーションに繋がり人が努力する理由となっている。

と僕は思いたい。



だから僕は今も前向きに生きている。



これからもそのように生きていく。



以上


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。