『セカンド、僕の指示を信じるんだ』
怪盗ファントムの衣装に身をまとった澪は、風呂敷に包んだ絵画を抱えて逃走していた。足を止めることなく、ちらりと後ろを確かめる。いまだに刑事一人と警官二人が追ってきていた。
失敗したわけではない。これも計画のうちである。
いつもはヘリコプターや下水道、あるいは群衆に紛れるなどの手段で引き上げていたのだが、マンネリは良くないという剛三の一存で、警察に追われつつ街中を逃走することになったのだ。危険なことをさせないでという美咲の願いはどうなったのだろうと、澪は不満に思ったが、悠人がいつでも助けられるよう待機しているため危険はないとのことである。もっとも、それは剛三に云わせればの話だが――。
住宅街に入った澪に、新たな指示が飛ぶ。
『セカンド、正面の道には警官が二人待ち構えている。右手の住宅の間を突っ切り、向こう側の道路へ抜けるんだ。男子高校生が一人歩いているから注意して』
「了解」
そう答えて、住宅を仕切るブロック塀に飛び乗り、軽やかにその上を駆けていく。両側の住人のうち一人に気付かれたが、窓を開けて身を乗り出しただけで追ってはこない。並みの人間には、そう簡単に追いかけられはしないだろう。
視界が開けて素早くあたりを見渡すと、数メートル先に、街灯にうっすら照らされた男子高校生らしき姿が見えた。悠人が言及した人物だと思われる。この距離ならば追ってきても逃げ切れると確信して、澪は躊躇なく塀を蹴り、くたびれたアスファルトにすたりと着地した。
「……澪?」
よく知った声。
澪はドキリとして振り向いた。薄暗いうえに距離もあるため、顔まではよく見えなかったが、おそらく間違いないだろう。その男子高校生は、澪の同級生で幼なじみともいえる富田拓哉である。怪盗ファントムの衣装を身にまとい、仮面をつけたこの姿を見て、彼は「澪」と呼びかけた――その事実を理解し、澪の背筋は凍りつく。
『セカンド、どうした?』
イヤホンからの声にも反応できない。しかし。
「見つけたぞ、怪盗ファントム!」
富田の背後から駆けてきた警官を目にすると、ハッと我にかえった。すぐさま、長い黒髪を大きくなびかせて背を向け、強く地面を蹴り、少しだけ騒々しくなった住宅街を疾走していく。呆然と立ちすくんだ富田をその場に残して――。
「富田にバレたかもしれない?!」
「シーッ! 声が大きいよ!!」
翌朝、遥にきのうのことを相談すると、彼は目を見張って大声で聞き返した。慌てて、澪は立てた人差し指を唇に当てる。悠人にも、篤史にも、もちろん剛三にも知られたくない。怖々とあたりの廊下を見まわしたが、誰の姿もなく、とりあえずはほっと胸を撫で下ろした。
「どうして反省会のときに言わなかったのさ」
「だって……そう決まったわけじゃないし……」
澪の言い訳に、遥は呆れかえって溜息をついた。そして、いかにも面倒くさそうに口を開く。
「どういう状況だったの?」
「うん……」
澪は目を伏せて頷いた。
「住宅街を走って逃げていたときにね、たまたま歩いていた富田の前に飛び降りたんだけど、いきなり『澪?』って名前を呼ばれて……しかも、無視して逃げればよかったのに、ついうっかり振り返っちゃって……」
「仮面はつけてたんだよね?」
「うん」
「何か声を出したりしたの?」
「ううん」
「富田にどこか掴まれたりした?」
「触れられてもないよ」
矢継ぎ早の質問に、澪は一つずつ端的に答えを返した。遥は鞄を肩に掛け直しながら言う。
「じゃあ、しらを切り通すんだね。富田に何を言われても、知らない、わからない、なに言ってるの? ってね。証拠はないんだから、澪さえ認めなければ大丈夫だよ」
「うん、わかった」
緊張ぎみだった澪の表情がようやく緩んだ。くるりと遥の前に回り込んで微笑むと、長い黒髪をなびかせながら、玄関の扉を開けて外に出る。そして、のんびりと出てくる遥を急かし、二人並んで学校へ向かって歩き出した。
「そっか、今日は富田と日直だったんだ……」
教室に入った澪は、黒板に書かれた日直二人の名前を見て立ち尽くした。よりによって昨日の今日で、富田と日直など、ついていないとしか言いようがない。
「なんだよ、その微妙に嫌そうな言い方は」
「ひゃっ!」
いきなり耳元で本人の声がして、澪は心臓が飛び出しそうになった。身を引きながら振り返ると、すぐそばに富田が立っていた。澪のあからさまな過剰反応のせいか、きのうの出来事のせいか、何ともいえない複雑な表情を見せている。
「朝っぱらからセクハラとは、さっすが富田だねぇ」
「やってねぇし!」
すでに自席に着いていた綾乃が、クラス中に聞こえる声でからかうと、富田は白い歯をむき出しにして言い返した。この二人の言い合いは日常茶飯事であるが、気のせいか、今日の富田はあまり乗り気でないように感じられる。ふう、と小さく息をついて澪に向き直った。
「今日はよろしくな」
「う、うん……」
彼は普段より幾分ぶっきらぼうに言うと、自分の席に腰を下ろし、頬杖をついて窓の外に目を向けた。きのうのことには触れていないものの、それが気になっているだろうことは明白だ。知らないふりをしてくれるのか、二人きりのときに言ってくるのか――どちらかわからないだけに、富田と接する機会の増えるこの日直は怖かった。
放課後になっても、富田は切り出してこなかった。
すっかり人のいなくなった教室で、澪は黒板消しをクリーナーにかけ、富田は自席で日誌を書いている。これまでも二人きりになる機会は何度かあったが、富田はいっさい怪盗ファントムには触れてこなかった。もしかしたら勘違いだと思ってくれたのかな――と、澪はいささか都合の良いことを考えながら、クリーナーのスイッチを切る。ウウゥーン……と一気に唸り音が小さくなり、教室はしんと静まりかえった。運動部の掛け声が遠くに聞こえる。
「澪、おまえさ……きのうの夜、何してた?」
富田が真面目な口調で尋ねてきた。澪の心臓がドキンと跳ね上がる。
「いきなり、何……?」
その声はあからさまにうわずっていた。もっと落ち着かなければ、普段どおりに話さなければ、ということはわかっているのだが、冷静になろうとすればするほど焦りが大きくなる。
富田はそっと日誌を閉じた。
「今日、何か用があるか?」
「ん……別にないけど……」
聞かれるまま正直に答えたあとで、澪はハッとして息を呑んだ。おそらく、富田はこれから怪盗ファントムの件を問い詰めるつもりなのだろう。予定があると答えるべきだったが、今となっては後の祭りだ。顔から血の気が引いていく。
「じゃあ、これが終わったらどこか……」
ガラガラガラ――。
富田の発言を遮るかのように、派手な音を立てて、後ろの引き戸が大きく開かれる。そこには帰ったはずの遥が立っていた。スタスタと教室に進み入ってくると、富田の後ろの自席に鞄を投げ置き、乱暴に椅子を引いてどっかりと腰を下ろす。
「忘れ物か?」
「まあね」
曖昧にそう答えながら、机からノートを取り出して鞄に放り込んだ。そして、おもむろに顔を上げると、振り返っていた富田を、漆黒の瞳でじっと正視して言う。
「富田、せっかくだから付き合ってよ」
「え? 付き合うって、どこへだ……?」
何かを警戒するように、富田は硬い表情で引きぎみに尋ね返す。
「久しぶりにパフェが食べたいんだけど」
「ああ」
安堵したような吐息混じりの声。どうやらその答えを素直に信じたらしい。実際に何度も二人で食べに行ったことがあるからだろう。富田も意外と甘いものが好きで、遥に誘われると、嫌がることなく付き合ってきたのである。けれど――。
「悪いけど、今日は……」
ちらりと澪を見て断ろうとする。が、逆に澪はパッと顔を輝かせた。
「私のことなら気にしないで!」
割り込むように声を張り上げると、富田に駆け寄り、机に置かれた日誌を手にとって掲げる。
「あとは私がやっておくから、遥と一緒にパフェしてきてよ」
澪としては、何がなんでも遥と行ってもらわなければ困るのだ。急かすように肩を押すと、富田はしぶしぶながら鞄を持って立ち上がった。そして、その鞄を肩に掛けながら、遥と並んで教室を出て行った。
二人は学校近くのフルーツパーラーに入った。
品のある落ち着いた雰囲気の内装で、パフェも美味しく、遥も富田も気に入っている店だ。
遥は迷うことなくフルーツパフェを、富田も少し迷って同じものを注文した。ウエイトレスが戻っていくと、それきり、どちらも口を開こうとはしなかった。遥はいつもどおり平然としていたが、富田は落ち着きなくそわそわとしている。
やがて、フルーツパフェが二つ運ばれてきた。
富田はほっとしたように息をつくと、さっそくスプーンで生クリームをすくって食べ始めた。同様に、遥も黙々とパフェを口に運んでいく。そんな彼らに、まわりの女性たちはチラチラと好奇の目を向けるが、遥も、富田も、そんな視線にはもう慣れっこだった。
「澪を呼び出して何するつもりだったの?」
パフェの残りが少なくなったところで、遥はいきなりそう口を切った。
富田のスプーンは空中で固まる。
「まさか、おまえ……それを阻止するために俺を誘ったのか?」
「富田が澪だけを呼び出すなんて、今までなかったと思うけど」
遥は瞬きもせず彼の目を見つめて言う。富田はきまり悪そうに目を逸らすと、そのまま眉を寄せて考え込んだ。やがて、小さく息をついて慎重に口を開く。
「俺さ……、きのう間近で怪盗ファントムを見たんだ」
「それで?」
遥は先を促す。富田は表情を険しくし、ごくりと唾を呑んだ。
「あれは、澪だ」
「ファントムが?」
「ああ……」
そう言うと、スプーンをそっとグラスの中に置き、テーブルの上で両手を重ねた。その指先にはグッと力がこもっている。まるで、溢れそうな感情を押しとどめているかのようだった。
遥はパフェを口に運びながら言う。
「澪なら帰ってからずっと家にいたけど」
「……それ本当か?」
「僕の部屋でグダグダと宿題やってたよ」
富田は目を伏せて考え込んだ。眉間に縦皺を刻むと、そっと上目遣いで遥を見据える。
「てか、おまえも仲間なんじゃないのか? もしかしたらおまえの家族も……ファントムってヘリとかよく使ってるけど、おまえんちならすぐに調達できるだろうし……」
遥は手を止め、眉をひそめた。
「何? 富田はウチを犯罪一家だって言いたいの?」
「……すまん、言い過ぎた」
富田は両手を合わせて許しを請う。由緒ある橘財閥に対して、また友人の家族に対して、随分と失礼な物言いだったので謝罪もやむを得ないだろう。しかし、納得はしていないようだ。
「でもなぁ、あれはやっぱり澪に間違いないぜ。ずっと昔から澪のことを見てきたし、顔は見えなくてもわかるんだよ。それに、澪って呼びかけたら振り向いたし……」
「声がしたから振り返っただけじゃない?」
「それは、そうかもしれないけど……」
そう答えながらも、釈然としない様子で首を傾げた。
遥はパフェをすくいながら尋ねる。
「ねえ、もし澪がファントムだったらどうするつもり?」
「そんなのわからねぇよ……けど、とりあえず本当のことを知りたいんだ。なんでこんなことやってるのか理由を聞かせてほしい。警察に突き出すつもりはないぜ。でも、こんなこと続けてたらいつか捕まっちまうかもしれないし、できれば説得してやめさせたい。友達だから言えることってあるだろ?」
「そうだね。けど、澪はファントムじゃないよ」
遥は素っ気なく答えてから、畳みかけるように続ける。
「確かに、髪型や背格好が似てるのは認めるけど、澪にはあんなことをするだけの度胸も頭脳もないよ。富田はさ、澪のことばっかり考えてるから、そう見えたんじゃない?」
「うっ……」
富田は頬を赤らめてのけぞった。それでも、容赦ない追及の手は緩まない。
「隠す気ないんでしょ? 気付いてないの澪本人くらいだよ」
「…………」
何か言いたげに半開きの口が動くが、それが言葉になることはなかった。富田はそっと唇を引き結んでうつむくと、テーブルの上に置いた手を握りしめた。その顔は、今にも湯気が立ち上りそうなくらい真っ赤になっている。
遥は溜息をついた。
「ねえ、澪のどこがいいわけ? ただのお調子者のバカだよ?」
「バカって……」
富田は顔を上げて言い返す。
「そりゃおまえと比べたらそうかもしれないけど、だいたいいつも校内で5位以内だし、全国模試でも名前が載ってたりするし……」
「勉強の話じゃなくて、なんにも考えずに生きてるってこと」
遥はぶっきらぼうにそう言い放つと、最後のひとすくいを口に運び、スプーンをグラスの中に投げ置いた。銀色の持ち手が縁に沿ってまわり、カラリと乾いた音を立てる。
「澪は考えろって言われないと考えないんだよ」
「確かに、成績いいわりにバカっぽいところはあるよな……」
それには富田も同意するしかなかった。難しい顔で考え込みながら腕を組む。そんな彼を、遥は頬杖をつきながら醒めた目で見つめていた。
「やっぱり顔がいいの?」
「ん……まあ、それもないわけじゃないが……」
富田は歯切れの悪い答えを返し、コップに手を伸ばした。氷が融けきってぬるくなった水を、渇いた喉を潤すために少しだけ流し込む。そのとき――。
「じゃあ、僕でもいいんだ」
何気ない口調で爆弾発言が落とされる。富田は目を白黒させて、コップを机に戻しながらゲホゲホとむせこんだ。涙目になりつつも、机に両手をついて勢いよく遥に詰め寄る。
「おまえいきなりなに言い出すんだ!」
「ダメなの?」
「当たり前だっ!!」
「どうして?」
遥は不思議そうにちょこんと小首を傾げた。大きな漆黒の瞳がまっすぐ富田を捉えている。その仕草も表情も、まるで澪を真似たかのようにそっくりだった。邪気があるのかないのかわからず、富田は調子を狂わされる。
「どうしてって……おまえ男だろ……」
「男じゃいけない?」
「いけないとかじゃなくてだな……ん?」
言い返すうちに混乱してきたらしく、首を捻りながら、浮かした腰をゆっくりと椅子に下ろす。
それでも遥は引き下がらなかった。
「僕のこと嫌いなの?」
「嫌いじゃねぇよ」
「じゃあ、好きなんだ?」
「……友達としてだぞ?」
富田は微妙な面持ちで釘を刺す。これまでずっと友達づきあいをしてきた遥に、唐突にこんなことを言われては、当惑や不安を感じるのも致し方ないだろう。その遥の方はといえば、思考の読めない瞳で富田を見つめ返していた。
「澪のことは諦めた方がいいよ」
「彼氏がいるのはわかってるよ」
富田は苦々しげに吐き捨てた。そして、拗ねた子供のように、口をとがらせてぼそりと付け加える。
「けど、そのうち別れるかもしれねぇし」
「澪には婚約者がいるんだよ」
話が大きく飛躍した。富田はぱちくりと瞬きをする。
「……えっと、彼氏?」
「そうじゃなくて、うちのじいさんが勝手に決めた婚約者だよ。長年じいさんの秘書をやってて、僕たちの保護者代理でもある人なんだけど」
「ああ、あの人か……」
よく知っているわけではないが、これまで何度か目撃しており、挨拶したこともあるため、遥の説明だけですぐに思い至ったようだ。顎に手を添え、頭を巡らせながら斜め上に視線を向ける。
「じゃあ、彼氏はどうなるんだ?」
「別れるしかないよ。まだ相手には言ってないみたいだけどね」
遥は簡単に言う。だが、富田はやるせなさを滲ませながら、唇を噛みしめた。
「富田が同情してもどうにもならないよ」
「ああ……」
確かに、富田には橘家の事情に口を挟む権利はないし、挟んだところで聞き入れられるはずもない。それが現実である。いっそう神妙な顔つきになって考え込むと、遠慮がちに切り出した。
「おまえにもいるのか? 親の決めた婚約者とか……」
「今のところは聞いてないけど、そのうちあるかもね」
遥はどうでもよさそうな口調でそう言うと、空になったグラスを横にどけ、テーブルに腕を置いて身を乗り出した。
「だから、僕にしといたら?」
「いや、何でそうなるんだよ」
富田は脱力して額を押さえた。けれど、遥は真顔のまま言い募る。
「男ならそもそも結婚だとか望みを持たなくて済むよね」
「まあ、それは……一理あるような、ないような……」
「いったい僕の何がいけないわけ?」
じれったそうに追及の言葉をぶつけると、テーブルに手をつき、大きく身を乗り出してズイッと顔を近づけた。その近さに、富田はビクリとしてのけぞる。
「いっ、いけないとかじゃなくてだな……」
「じゃなくて、何?」
「な……なんだっけ……えっと……」
富田はソファの背もたれに張り付いたまま、しどろもどろになった。
「ねえ、富田、キスしたことある?」
「キ……?!」
遥はさらに身を乗り出し、額が触れ合うくらい近づくと、艶のある唇に薄く笑みをのせる。富田の脳内はその一瞬で限界値を振り切った。瞬きすらできず、体を硬直させたままゴクリと唾を呑む。
「お、俺……」
「じっくり考えればいいよ。何日でも、何ヶ月でもね」
遥は僅かに目を細め、くすっと小悪魔のような笑みを浮かべて言った。
「おかえり!」
澪はフレアのミニスカートをひらめかせて玄関に駆け下りると、ようやく帰ってきた遥を笑顔で出迎えた。ざっくりと編まれた白いセーターの胸元に、半分ほど袖に隠れた手を置いて言う。
「さっきは助けてくれてありがとう」
「とても見ていられなかったからね」
遥はちらりと目を向けただけで、足を止めることもなくさっさと階段を上っていく。しかし、澪は気にせず追いかけ、後ろで手を組んで覗き込んだ。
「富田、何か言ってた?」
「疑ってた。ていうか、確信してた」
遥は前を向いたまま答える。大方そうだろうと予想していたので、驚きはしないが、不安が募るのは止めようがない。それでも、澪が落ち着いていられるのは、遥という信頼できる味方がいるからだろう。
「疑いは晴らせたの?」
「一応、その時間は僕の部屋にいたって言っておいたけど、完全には信用してないみたいだね」
「そっか……」
澪は力のない声で相槌を打った。しかし、遥は淡々とした口調のまま続ける。
「今は他のことで頭がいっぱいだろうから、次に怪盗ファントムが話題になるまでは大丈夫だと思う。でも、あくまで応急処置だから、できるだけ早いうちに何か手を打たないとね」
「他のこと? 応急処置??」
澪は不思議そうに小首を傾げて瞬きをした。遥は足を止め、ゆっくりと意味ありげな視線を流す。
「富田は単純だからね」
そう言うと、片方の口の端を上げた。
その日の夜――。
怪盗ファントムの次の案件が、剛三から発表された。
標的となる絵画の写真を見せられつつ、それにまつわる話と、奪わねばならない理由を聞かされる。今回も、本来の持ち主に返却することが最終目的だ。澪にも異存はなく、頷きながら真面目に聞いている。
舞台は、橘の屋敷からほど近い美術館だった。
悠人が全体の計画と各々の役割を説明していく。今回は取り立てて難しくないということだが、何重にも代替手段が用意されているあたり、篤史にはない彼の慎重さや緻密さが窺える。
一通りの説明が終わると、遥が手を上げて立ち上がった。
「どうした、遥」
「前回のことだけど、澪が逃走中に同級生と鉢合わせたみたいで、今そいつに正体を疑われてて」
あまりにも唐突な暴露に、澪は唖然とした。みんなには出来れば内緒にしておきたかったことであり、何の相談もなく話した遥を恨めしく思うものの、さすがに嘘をつくわけにはいかない。
「本当か?」
「うん……」
悠人に尋ねられると、小さく肩をすくめるしかなかった。
すぐに遥は補足する。
「仮面をつけてて顔を見られたわけじゃないし、証拠は何もないから、しらを切り通せばすむ話なんだけど、澪だからそれも難しくて」
「そうだろうな……」
悠人は溜息まじりに同意する。剛三も、篤史も、まったくだと言わんばかりに大きく頷いていた。
「だから、次で疑惑を晴らしたいと思って」
「何かいい策でもあるのか?」
「気乗りはしないんだけど……」
遥はあからさまに嫌そうな声で前置きすると、恨みがましく澪を一睨みし、それから彼の考える作戦を説明し始めた。
数日後――。
「富田ー! こっちこっち」
綾乃はつま先立ちで背伸びをしながら、大きく手を振り、人混みの向こうに見える富田を呼んだ。一緒にいた澪と真子も小さく手を上げる。富田は人垣を縫いながら、なんとか三人のもとに辿り着いた。
「はー……結構、野次馬って来るもんだな」
ぐったりして腰に手を当てる。彼の言うとおり、あたりはまるでお祭りのように人が溢れていた。そのせいか正面の車道も通行止めになっている。澪たちの学校から近いこともあり、同じ学校の生徒もちらほらいるようだ。日が沈んで冷え込みが厳しくなり、吐く息も白いが、その周辺だけは沸き立つような熱気に包まれていた。
「ていうか、綾乃、おまえ怪盗ファントム嫌いじゃなかったのかよ」
「せっかく近くに来るっていうんだから、とりあえず見とかないとね」
綾乃はニカッと白い歯を見せた。
「ったく、結局ミーハーなんだよな」
富田は呆れたように白い溜息をつくと、そろりと澪に目を向けた。
「おまえ、こんなところにいていいのか?」
「それどういう意味?」
あらかじめ心の準備をしていた澪は、過剰な反応をせず、本当にわからないといった感じで尋ね返す。そのリアクションに、富田は意表を突かれたようだ。
「あ、いや、別に……」
あたふたと否定しながら言い淀んだが、それでもまだ澪を気にして、ちらちらと不安そうな眼差しをよこしている。心配しているのだろう。なにせ、怪盗ファントムの正体は澪だと思っているのだから――。
ざわざわ、と、急にあたりが騒がしくなった。
「来たよ、ほら!」
綾乃が勢いよく指さした方を見上げると、夜の帷が降りた空の彼方に、白いハンググライダーがぼんやりと浮かび上がっていた。まだ目を凝らさないとよく見えないくらいだ。しかし、次第に大きくなり、やがて操縦者の姿まで認識できるようになる。
間違いなく怪盗ファントムだ。
野次馬の頭上をすっと横切り、緩やかに弧を描くと、美術館の正面玄関前に降り立った。そして、長い黒髪をさらりと舞い上げながら、襲いかかる警備員を次々とかわし、まるで挑発するように鮮やかに翻弄していった。野次馬の集まる門のすぐそばにも来て、存分にその姿を見せつけていく。熱気は最高潮になった。
「わあ、私、実物初めて見た!」
真子は手袋をはめた両手を組み合わせて、目をキラキラ輝かせている。普段おしとやかな彼女とは思えないはしゃぎっぷりだ。隣の綾乃は、その様子を微笑ましげに眺め、そして腕を組みながら澪に振り返った。
「やっぱちょっと澪に似てるかもね。澪の方が女の子らしいけど」
的確な指摘に、澪は苦笑する。
怪盗ファントムとして美術館に降り立ったのは遥である。その間に、澪は富田たちと一緒に怪盗ファントムを見に行き、別人であることを納得してもらおうという計画だ。このために、遥はハンググライダーの操縦まで習得したのだから頭が上がらない。
富田は怪盗ファントムと澪を交互に見て唖然としていた。それから、門にかじりついてファントムを凝視すると、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出し、手早くどこかにかけて耳に当てる。
「あ、遥か?」
『……富田?』
「ああ……、おまえ本当に遥なのか? 今どこにいるんだ?」
『……うざい』
「ちょっ、おま……切りやがった!!」
富田は目を大きく見開き、信じられないといった様子で、握った携帯電話に向かって叫ぶ。
隣で耳をそばだてていた綾乃は、腹を抱えて大声で笑い出した。
「いきなりそれじゃウザいわ、確かに」
電話に出たのは、当然ながら遥ではない。遥の携帯電話は篤史に預けてあって、富田から電話がかかってきたら、あらかじめ録音しておいた音声から適切なものを選んで流すことになっていた。普段からぶっきらぼうな遥だからこそ成り立つ計画だったのかもしれない。
「風邪ひいたって言ってたし、寝てたのかもしれないよ」
真子が冷静に推察する。遥がここに来なかったのは、風邪ぎみだからというのが表向きの理由だ。それでも、富田の不満は収まらない。
「だからって、あれだけ熱烈アプローチしておきながらうざいはねーだろ!」
「熱烈アプローチって?」
澪がきょとんと尋ねると、彼はギクリとして顔を引きつらせた。
「あ、いや、それはその……」
急にたじたじになり、言い訳もできないまま目を泳がせる。ほんのり頬も紅潮してきた。綾乃はじとりとした視線を送ると、両手を腰に当て、思いきり胡散臭そうに下から覗き込む。
「あんたたち、いつのまにそういう関係になってたわけ?」
「誤解だ! 遥が一方的に迫ってきただけで、俺は別に……」
富田は両手をふるふると振って弁明する。
「もしかして、最近、様子がおかしかったのってそのせい?」
「……俺、おかしかったか?」
「うん。遥くんを見てぼーっとしてることが多かったよ」
真子が指摘すると、彼の顔はみるみるうちに真っ赤になった。富田は単純だからね――先日の遥の言葉と合わせて考えると、富田に迫ったというのは、怪盗ファントムから気を逸らせようとしての行動だったのだろう。だが、それは富田の気持ちを弄ぶ行為であり、澪としてはさすがに申し訳なくなる。
「あのね……、多分だけど、遥はちょっとからかっただけだと思うよ」
「やっぱそうだよなぁ」
富田は溜息をつきながら、まるで火照りを冷ますかのように、顔を上げてぼんやりと遠くの空を見やる。綾乃は横向きで間合いを詰めると、ニッと白い歯を見せ、彼の脇腹を肘でつついてからかうように言う。
「なになに? もしかしてマジで落とされちゃった?」
「落とされてねぇし!」
富田はむきになって言い返した。小さく吐息をついて前髪を掻き上げると、ちらりと澪に視線を流す。
「悪かった」
「えっ?」
「いや、なんでもない」
わあっ、とまわりで再び大きな歓声が上がった。
バリバリバリ……と大きな音を立てて近づいてきたヘリコプター。それを待っていたかのように、絵画を抱えたファントムが美術館の屋上に姿を現し、垂らされた縄ばしごに飛び乗って颯爽と去っていく。どうやら本来の目的の方も問題なく達成したようだ。澪はほっと安堵すると、気になっていた富田の横顔をそっと盗み見た。
こっちこそ、ごめんね――。
伝えられない言葉を心の中でそっと呟く。少し、胸が締め付けられるように疼いた。
…続きは「東京ラビリンス」でご覧ください。
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