瑞原唯子のひとりごと

「オレの愛しい王子様」第13話 彼女の理由



 それは、朝からしとしとと小雨が降りつづく肌寒い梅雨の日のことだった。
 榎本茉美は母親に連れられて祖父の葬儀に参列していた。祖父といっても会ったこともないひとだ。母親も含めて皆が沈痛な面持ちをしている中、どんな顔をしていいかわからずひどく居心地が悪かった。
 葬儀のあと、亡くなった祖父の屋敷に移動したのだが、母親の実家でもあるそこは見たこともないような豪邸だった。母親がとんでもないお金持ちのお嬢様だったことを、茉美はこのとき初めて知った。
 中学生になりたての娘から見ても彼女は品のある美しいひとだ。それも育ちのよさゆえだったのかと納得する。喪服で儚げにうつむく姿は、不謹慎かもしれないがいっそう美しさが際立って見えた。
「史絵」
 ふいに呼ばれたのは母親の名前だ。
 振り向くと、喪主を務めていた男性がこちらに歩み寄ってきた。
 彼は史絵の兄だという。史絵が貧乏画家と駆け落ちして実家とは没交渉だったため、十数年ぶりの再会らしい。彼はとても懐かしそうにしていたが、史絵のほうは一線を引いたように他人行儀な姿勢を崩さなかった。
 その微妙な空気に、茉美は何となく居心地の悪さを感じてそっと一歩下がった。うつむいて自分の足元をぼんやりと眺めていると、気のせいか視線を感じたような気がして顔を上げる。
 案の定、史絵の兄に付き従っていた青年がじっとこちらを見つめていた。それもひどく熱のこもったまなざしで——。
 そわそわと落ち着かないのに、どうしてだか搦め捕られたように目をそらすことができない。体温まで上がった気がする。ついさきほどまで半袖セーラー服のせいで肌寒く感じていたが、いまは汗がにじみそうだ。
「父上」
 青年がふと向きを変えて史絵の兄に声をかけた。
 熱いまなざしから解放されたとたんに茉美は大きく息をついた。知らないうちに息を詰めていたらしく、苦しかったんだとそのときようやく気がついた。体が熱いのもそのせいなのだと納得した。
「こちらの方々は?」
「妹の史絵と、史絵の娘の茉美ちゃんだ」
「はじめまして。長男の西園寺征也です」
 征也と名乗った青年は、人当たりのいいさわやかな笑みを浮かべて挨拶する。
 あらためて見てみるとすごく格好のいいひとだった。芸能人でもなかなかいないくらいの整った顔、男性らしさを感じさせるしっかりとした体、すらりと長い手足——きっと誰もが目を奪われてしまうのではないだろうか。
「茉美ちゃん」
「あ、はい」
 不躾に観察していると、ふいに彼から名前を呼ばれてドキリとした。
「ここにいても大人たちばかりだし、話し相手もいなくてつまらないだろう? 二階で僕とボードゲームでもしようか」
「あ……えっと……」
 ちらりと母親を見上げると、彼女は困ったように眉を下げて淡く苦笑した。
「行ってきたら?」
「うん……」
 行きたかったわけではなく困惑していただけなのだが、母親には行きたがっているように見えたのかもしれない。仕方なく頷くと、征也に促されるまま若干緊張しながら扉のほうへ歩き出した。

 茉美は二階へつづく階段をまえにして、足を止める。
 さすが豪邸だけあって階段もびっくりするくらい立派だった。幅広なうえに絨毯まで敷かれていて宮殿と見まがうくらいだ。呆気にとられていると、征也がにっこりと微笑んで茉美の手を引いた。
 えっ——。
 大人な彼にとってはどうということはないのだろうが、茉美は同級生の男子ともほとんど手をつないだことがない。せいぜいフォークダンスくらいだ。それなのにいきなり手を握られてうろたえてしまった。
 しかしながら彼は手を離そうとしなかった。見た目よりもずっと大きくて厚くて骨ばっているその手に、否応なく大人の男性であることを感じさせられてしまい、ますますドキドキと鼓動が速くなる。
「さあ、入って」
 連れてこられたのは征也の部屋だった。
 応接室みたいなところに行くものだと思っていたので戸惑うが、いまさら断れなくておずおずと足を進めると、なぜかベッドのほうへ誘導されてそこに座らされた。征也も隣に腰を下ろす。
 ソファもあるのにどうして、と思うものの勇気なくて尋ねられない。膝に置いた手をぎゅっと握りしめながらうつむき、身をこわばらせていると、ふいに気配で彼が動いたのがわかってビクリとした。
「あの……ボードゲーム、は……」
 うつむいたまま、カラカラの喉から震える声を絞り出す。
 けれど征也は答えてくれなかった。ふっと小さく笑って茉美のほうに手を伸ばすと、ボブカットのまっすぐな黒髪にそっと指をすべらせ、その流れのまま顎から頬へゆっくりと撫でていく。
 茉美はもう息もできなかった。家族や医者以外のひとに顔を触れられることなんてないし、家族や医者の触れ方とは違う気がする。よくわからないが何か嬲られているように感じた。
「せ、いやさん……」
「ん?」
 征也はひどく甘ったるい声でそう応じると、茉美の顎に手を添えて自分のほうへ向かせる。そのまなざしにはあのときと同じ熱がこもっていた。またしても茉美は搦め捕られたように目をそらせなくなる。
 彼の顔がじりじりと近づいてきた。生ぬるい吐息がうっすらと鼻先にかかるのを感じた瞬間、ビクリとして身を引こうとするが、いつのまにか後頭部に添えられていた手によって阻まれてしまった。
 なすすべなく現実から逃げるようにギュッと目をつむった直後、唇にあたたかいものが触れた。びっくりして目を開けると、近すぎてほとんど見えないくらいのところに彼の顔があった。
 キス、されてる——?!
 むちゃくちゃに頭をのけぞらせながら体を突き放して逃れると、その勢いでベッドに倒れ込んだ。すぐに起き上がろうとしたが、征也に四つん這いで覆い被さるようににじり寄られて、逃げ道をふさがれる。
「やっ……」
 顔の両横に手をつかれ、あのまなざしで真上から見下ろされ、茉美はカラカラに渇いた喉からか細い声をもらした。それを聞いて征也はすっと目を細める。
「嫌?」
「…………」
 彼の表情を目の当たりにして、とてもじゃないが本当のことなんて言えなかった。とにかく怖くてたまらなかった。顔はこわばり、小さな細身の体は小刻みにカタカタと震え始める。
「茉美ちゃん、そんなに怯えなくても大丈夫だよ。優しくしてあげるから」
 その言葉はさらなる恐怖を煽るだけだった。
 けれど征也はおかまいなしにセーラー服のスカーフを解き、中央のファスナーをゆっくりと下ろして左右に開くと、現れたスポーツブラを丁寧にたくし上げていく。
「ひっ」
 裸の胸がさらされて、茉美は引きつれた声を上げた。
 それでも征也が気にする様子はない。ささやかなふくらみにそっと触れ、感触を確かめるようにやわやわと指を動かしていたかと思うと、おもむろにそれを口に含んだ。
「?!」
 思いもしなかった彼の行動に茉美はパニックになる。
 舌で転がすように先端をねぶられ、もう片方は指でいじりながら揉まれ、わけのわからないまま呼吸が乱れて小さな声が漏れ始めた。そんな自分が怖くてギュッとシーツを掴んで口を引きむすぶ。
「茉美ちゃん」
 征也は顔を上げ、思わせぶりな微笑を浮かべて茉美の唇を舐めた。
 驚いて口元がゆるんだ瞬間、その口を覆うようにキスされて舌をねじこまれ、その肉厚な舌で容赦なく中を舐めまわされる。無理やり舌を絡められて吸われる。逃げられず、息もできず、あまりの苦しさにささやかな抵抗すらできなくなってきた。
 気が遠くなりかけたころにようやく口づけを解かれた。くたりと身を投げ出したまま必死に呼吸をしていると、あっというまにショーツをはぎ取られてしまった。けれど、まだぼうっとしていて頭が働かない。
 飾り気のないコットンのショーツが放り投げられるのを虚ろに眺めていたら、征也が膝裏に手を入れて片脚を持ち上げ、意味深長な笑みを浮かべて茉美を見つめながら、内腿に頬を寄せて見せつけるようにそこに口づける。
 その挑発的なまなざしに、熱く濡れた吐息に、茉美は奥底からぞくりと震えた。
 互いに視線を絡ませたまま、征也は内腿に頬ずりしながらじりじりと下のほうへ向かっていく。そして付け根の秘められしところをじっと見つめると、指で割り開いてべろりと舌を這わせた。
「ひっ……ぁ……っ……!」
 その信じられない行動とあまりにも強烈な感覚に、思考が焼き切れる。
 しかしながら彼の行動はそれだけでは終わらなかった。茉美は悲鳴のような嬌声をこらえることもできずに翻弄されていく。やがて征也がベルトを外してスラックスの前をくつろげ、そして——。

 何もわからないまま、嵐のように茉美をぐちゃぐちゃにして事は過ぎ去った。
 茉美はセーラー服を整えもせず力なく手足を投げ出して、シーリングライトを眺めながら、しとしとと降りつづく外の雨音をぼんやりと聞いた。
 多分、これがセックスだったんだ——。
 言葉は知っていたが、映画やドラマで何となく見たことがある程度だったので、ただ男女が裸で抱き合うものだという認識しかなかった。けれど、きっとそれだけではなかったのだ。
 征也はベッドのそばで涼しい顔をしてネクタイを締め直し、喪服を整えていた。さきほどまで見せていた捕食する獣の面影はどこにもない。本当に同一人物なのかと疑ってしまうくらいに。
「そろそろ起きられるかい?」
 ふとこちらに振り向いた彼にそう問われて、茉美はビクリとした。
 めくれていたスカートを簡単に直し、セーラー服の前をかき合わせながら、よろよろと体を起こす。まだあちこちに違和感があるうえとてもだるいが、そんなことはとても言えなかった。
 彼はふっと笑い、前をかき合わせたままうつむく茉美の髪にそっと触れた。体をこわばらせても気にすることなくゆっくりと指を通し、その指を顎に添えておもてを上げさせると、うっすらと不敵に笑いながら覗き込む。
「茉美ちゃん、ここでのことは誰にも言ってはいけないよ」
 ショーツを握った手を見せつけるようにしながらそう言われ、茉美はぎこちなく頷くしかなかった。

 あの日からほどなくして梅雨が明け、夏休みに入った。
 結局、征也にされたことは親にも誰にも話していない。征也に言われたからというのもあるが、それ以前に恥ずかしくてどう話したらいいのかもわからない。もう忘れよう、そう自分に言い聞かせつつ過ごしていたのだが——。
「茉美ちゃん」
 図書館で宿題をして帰ろうとしたとき、ふと声が聞こえた。
 振り向くと、歩道に横付けされた白い車からビジネススーツ姿の征也が降りてきた。茉美がビクリとしたことに気付いているのかいないのか、助手席の扉を開いて好青年の笑みを浮かべる。
「さあ、乗って」
「あ……あの……」
「乗って」
 その有無を言わせぬ口調に、まなざしに、茉美はぞっとして断ることも逃げることもできなかった。追い込まれるように感じながらぎこちなく助手席に座ると、彼は不敵に微笑んで扉を閉めた。
 連れてこられたのは立派なホテルだった。
 地下の駐車場から直接エレベーターで部屋まで向かい、カードキーで中に入る。茉美は何となく彼の思惑を察して顔面蒼白になるが、しっかりと手をつながれていて逃げ出せそうにない。
「そんなに怖がらなくて大丈夫だよ。二回目はもう痛くないから」
「あ、の……わた……し……」
「茉美ちゃん、すごく気持ちよくしてあげるからね」
 征也はつないだ手に力をこめ、にっこりと満面の笑みを浮かべてそう告げる。
 茉美は背筋が凍りつくような恐怖を感じて何も言えなくなった。手を引かれるまま部屋の中へ進むと、薄汚れたスニーカーをひざまずいた彼に脱がされ、そのまま太腿を抱えながら内側に口づけられた。
「やっ……」
 強く吸われて赤い痕がつく。
 彼はそれを確認して満足げに微笑むと、いまにも泣きそうになっている茉美を横抱きにして、大きなベッドのある部屋へと連れて行った。もう茉美がどれだけ泣いても叫んでも誰にも届かなかった。

 それからも征也はときどきふらりと茉美のまえに現れては、ホテルに連れ込んだ。
 そうして何度も抱かれるうちに怖いとも嫌だとも思えなくなっていた。恥ずかしいという気持ちはいまでも消えないけれど、恋人のように大事に扱われると悪い気はしない。いつしか彼が来ることを心のどこかで期待さえするようになっていた。

 そんな関係が二年半ほど続き、中学の卒業式を間近に控えたある日——。
「え……結婚……?」
 にわかに理解できず、茉美は思わず運転席の征也に振り向いて聞き返した。彼はハンドルを握って正面を向いたまま眉ひとつ動かさず、当然のように答える。
「そう、僕は西園寺の跡取りだからね。先日、父が懇意にしている社長のお嬢さんとお見合いをして、婚約したんだ。だから茉美ちゃんと会うのは今日が最後になる」
「…………」
 まだ中学生ということもあり結婚までは考えもしなかったが、もう恋人のようなものではないかと勝手に思っていただけに、少なからずショックを受けた。
「ごめんね、茉美ちゃんとは結婚できないんだ。でも今日はいっぱい愛してあげるよ」
 なぜ自分とは結婚できないのだろう。いいところのお嬢さんではないからか、母親が西園寺家と縁を切ったからか、それとも他に理由があるのか——気になるけれど尋ねることはできず、ただ静かに表情を消してうつむいた。

 その日を最後に、本当に征也は現れなくなった。
 茉美は高校でも大学でもたくさんの男子に告白されたが、誰にも心が動かなかった。どうしても征也と比べてしまうのだ。いつまでもこんなことではいけないとわかってはいるが、どうしようもなかった。
 大学を卒業すると、大手総合商社に一般職として入社した。
 そこで、まだ新人研修も終わっていないうちに、赴任先の中東から戻ってきたばかりの男性社員に告白された。一目惚れだという。結婚を前提におつきあいしていただけませんか——まっすぐに目を見つめながらそう言われ、翌日、よろしくお願いしますと返事をした。
 そろそろいいかげんに征也のことを忘れなければと思っていたのもあるが、告白に頷いたのは彼がどことなく征也に似ていたからだった。征也のほうがすこし身長は高いものの体格はよく似ており、年齢は同じで、顔はそっくりというほどではないがどちらも男らしく端整なのだ。
 ただ、彼は征也と違ってとても誠実だった。健全なデートを重ね、打ち解けてきたころにようやく触れるだけのキスをするようになり、交際を始めてから半年後にレストランで正式なプロポーズをされた。初めて体を重ねたのは、そのプロポーズに了承の返事をしたあとだった。
 婚約から半年後、彼——東條真一郎と茉美は結婚した。
 退職して専業主婦になったのは彼の希望である。自分は仕事が忙しいので家のことを任せたい、自分を癒やしてほしい、もし海外赴任になったときには着いてきてほしい、と言われたのだ。茉美は特に働きたいわけではなかったので構わなかったが、入社からたった一年で辞めることは心苦しかった。

「茉美ちゃん」
 自宅に帰り着いて門扉を開けようとしたところ、背後から呼ばれてビクリとした。
 その声は何度も何度も聞いたあのひとのものによく似ていた。茉美ちゃんと呼ぶのもあのひとだけだ。幻聴だったのではないかと思いつつおそるおそる振り返ると、はたしてそこには征也がいた。
 彼はあのころよりもっと大人の男性らしく精悍になっていて、ビジネススーツが憎らしいくらいよく似合っていた。凍りついたように固まってしまった茉美を見ながら、愛おしげに目を細める。
「きれいになったね」
 その声にあからさまな熱を感じて茉美はぞくりとした。しかし、流されるわけにはいかないと全身にグッと力をこめる。
「あなたとは何も話さない」
「そう邪険にしないでくれ」
「お帰りください」
「家に上げてくれないか」
「…………」
 そう、征也はこういうひとだった。
 帰ってと声を荒げたところで素直に帰りはしないだろうし、むしろ困るのは自分だ。すでにこの状況からして十分すぎるくらいにまずい。ご近所さんに見られたらあらぬ噂を立てられてしまう——。
「わかりました」
 不本意ながら、ひとまず自宅に入ってもらうよりほかになかった。いや、もしかしたらもっといい対処法があったのかもしれないが、ひどく焦っていたこのときの茉美には考えつかなかった。
「どういったご用件でしょうか」
 応接間でお茶を出しながら事務的な口調で尋ねると、征也は色っぽく目を細めた。
「茉美ちゃんが忘れられなくてね」
 何となく予想はしていたが、いきなりそう切り出されるとは思わなかった。動揺を見せないよう静かにお盆を抱えて立ち上がり、ソファに座っている彼を睨むように見下ろす。
「あなたも私も結婚しています」
「妻とは政略結婚みたいなものだ」
「私には関係ありません」
「茉美ちゃんも僕を求めている」
「勝手なことを言わないで」
「旦那さんを見たよ」
 思いもしなかったことを言われてハッと息をのんだ。どういうつもりなのかと警戒しながら口を引きむすぶと、征也はゆっくりと茉美を見上げて挑発的な笑みを唇にのせる。
「どことなく僕と似ていたな」
「……似て、なんか……」
「しかしあれでは劣化コピーだ」
「そんなこと!」
「君はあれで満足できるのか?」
「やめて……っ!」
 痛いところをつかれて、茉美はただわめき散らすことしかできなかった。お盆をギュッと抱え込んでうつむくと、ソファに座っていた征也がおもむろに腰を上げる。
「茉美ちゃん」
「帰って!」
「ごめんね」
 何に対しての謝罪かわからない。
 それなのに茉美の頑なな気持ちと体は一瞬ゆるんでしまった。その隙をついて唇を奪われる。あわてて身をよじって抵抗するが、抱えていたお盆が落ちただけで彼の腕からは逃れられない。
「もうやめて!」
「茉美ちゃん」
 征也は小柄な体を抱き込み、その耳朶にくちびるを寄せて甘い毒のような声を注ぎ込む。
「なあ、旦那さんに僕との関係を話したらどうなると思う?」
「っ……」
 夫は茉美のおとなしく控えめなところを気に入っているのだ。お互い独身だったころのこととはいえ征也との関係を知られたら、そのうえ征也に似ていたからつきあっただなんて知られたら——抵抗する力が弱まっていく。
「そう、素直になるんだ」
 征也はいかにも満足そうにささやいた。
 脅しておきながらよくもそんなことを——じわりと目が熱くなり、こらえきれずにあふれた涙がついと頬を伝い落ちていく。それでも、茉美はもう彼のなすがままになるしかなかった。

 それからも、征也はときどきふらりとやってきては茉美を抱いた。
 一、二か月に一度程度だったし、いつもビジネススーツを身につけていたので、ご近所さんに怪しまれることはなかったはずだ。もちろん夫にも気付かれないよう細心の注意を払っていた。
 そんな関係が一年ほど続いた、ある日——。
 征也はいつものように遠慮のかけらもなく家に上がり込み、あたりまえのように茉美を抱こうとした。しかし茉美は流されるまえに強い気持ちで押しとどめると、まっすぐに目を見つめて告げる。
「私、妊娠しました」
「……そう」
 そんなことは気にせず情事に及ぶのではないかと危惧していたが、彼の瞳からは一瞬で熱が消え失せた。茉美の体から手を離して、どこか皮肉めいた何ともいえない微妙な笑みを浮かべる。
「旦那と仲良くやってたんだな」
「…………」
 茉美が黙っていると、彼は傍らのビジネスバッグを手にとって玄関に向かい、そのまま振り返ることもなく出て行った。扉が閉まる音を聞いて、茉美は嗚咽を堪えるように両手で口元を覆いながら崩れ落ちた。

 それから、征也が来ることは二度となかった。
 だけどもう手遅れだ。どうあっても忘れられないひとになってしまっていた。子供が生まれると育児に追われて深く考える余裕はなくなったが、ふと脳裏に浮かんで泣きそうになることはよくあった。

 ある日、三歳になった息子が砂場のある公園に行きたいと駄々をこねた。いつも行っている近場の公園にはないのだ。春めいたうららかな日だったので、すこし離れた公園へ自転車で連れて行くことにした。
 機嫌よく砂をいじっている息子をそばで見守っていると、同じ年頃の子供がやってきて息子の隣にしゃがんだ。息子はうれしそうにいっしょにあそぼうと声をかけて、その子もニコッと頷いた。
 その様子を微笑ましく眺めていたが、そういえばこの子の親はどこにいるのだろうとあたりを見まわす。すこし離れたところにじっとこちらを窺っている男性がいて——認識した瞬間、息をのむ。それはまぎれもなく征也だった。
 じゃあ、この子は——。
 バッと振り向いて砂場で息子と遊んでいる子を凝視する。男児か女児かはわからないけれど、とても整ったかわいらしい顔立ちをしていた。やわらかそうな栗色の髪は母親似なのかもしれない。
 その子は視線に気付いたのか不思議そうにこちらに振り返るが、目が合うなり怯えたようにビクリとする。そのとき初めて、茉美は自分が醜い感情をあらわにしていたことに気がついた。
 妻とは政略結婚でもう冷え切っている——。
 そう言っていたはずなのに、その裏でちゃっかり子供を作っていたのかと思うと、怒りがこみ上げるのは自然なことだろう。だからといっていまさらそれをぶつけるわけにもいかず、ただじっと立ちつくしていた。
「翼、そろそろ帰ろうか」
 ひとしきり遊んで満足したのか、その子は満面の笑みでトタトタと駆け出して征也に抱きついた。砂場で佇んでいる息子に振り向いてバイバイと手を振ると、征也に抱き上げられて公園をあとにする。
「あの子、また来るかなぁ」
「そうね……」
 息子はあの子をたいそう気に入っていたようだが、どんなにせがまれても、駄々をこねられても、もう二度とあの公園に連れて行くことはなかった。

 後日、息子の幼稚園で他のママたちが話しているのを聞いて、西園寺家には四人の子供がいるがすべて女の子であること、末娘が息子と同じ年齢であること、末娘を跡取りにするために男の子として育てていることを知った。

 それからしばらくして夫の海外赴任が決まり、家族で日本を離れた。
 慣れないことが多くて大変ではあったが、日本にいたころと比べてずいぶんと心穏やかになった。征也と顔を合わせる心配がなかったからだろう。そのうち過去に苛まれることもなくなっていった。
 そして日本に戻ってからも、もう征也の存在を意識するようなことはなく、それなりに幸せで心穏やかな日々を送っていた。あの日、息子が西園寺の末娘を家に連れてくるまでは——。

 西園寺邸の一室で、首謀者である茉美は洗いざらいぶちまけた。
 西園寺家の現当主である西園寺徹はゆっくりと息をつき、重厚な会議テーブルの上で両手を組み合わせながら、無感情なまなざしを息子の征也に向ける。
「征也、どうなんだ」
「おおむね彼女の言うとおりです」
 彼は動じる素振りもなく静かに認めた。
 妻の瞳子はますます顔面蒼白になってうつむき、そして翼も表情を硬くする。物心がついたころから父親を尊敬してきただけに、ショックも大きいはずだ。まだどこか信じられずにいるのかもしれない。
 そして東條もひどく動揺して混乱した顔をしている。母親のされたこと、母親のしたこと——どちらも衝撃的で、そう簡単に気持ちに折り合いはつけられないだろう。標的にしていたのが大切な友人となればなおさらだ。
「翼は……関係ないだろう……」
 膝の上でグッとこぶしを握りながらうつむき、苦しげに声を絞り出す。
 しかし茉美はうっすらと自嘲めいた笑みを浮かべて言い返す。
「私を蹂躙しておきながら、征也さんは素知らぬ顔をして幸せな家庭を築いている。その証が西園寺翼なのよ。圭吾と同時期に生まれているのが許せなかったし、西園寺家の跡取りとして大事にされているのも許せなかった」
 そこで息を継ぎ、ゆっくりと視線を上げて征也を見据える。
「圭吾は、征也さんの子供です」
「…………?!」
 一拍の間ののち、その場にいた全員が驚愕した。
 創真も翼も息をのんで大きく目を見開き、瞳子は口元を両手で覆い、圭吾は口を半開きにしたまま固まり、征也も愕然として青ざめた顔をしている。当主の徹だけが驚きつつもどうにか平静を保っていた。
「茉美さん、根拠があるのなら教えてもらいたい」
「征也さんに似ているでしょう」
 思わずふたりを見比べる。確かにそれなりに似ているような気はするが、東條の父親を見たことがないので何ともいえない。そもそも東條の父親からして征也に似ているという話なのだ。
 徹も見比べていたが、やはり決定的なものは見いだせなかったようだ。どこか困惑したように眉をひそめたかと思うと、茉美に向きなおり、配慮を感じさせる申し訳なさげな口調で要望を伝える。
「できればDNA鑑定をさせてもらいたいのだが、構わないだろうか」
「圭吾が同意すれば」
 茉美はさらりとそう返事をする。
 根拠はなくても、きっと彼女なりに自信を持っているのだろう。単に思い込みが激しいだけなのかもしれないが——。
「うっ……」
 とうとう瞳子が口元を押さえてうつむき嗚咽をもらし始めた。細身の体は小刻みに震えて、いまにも倒れそうなくらい頼りなく見える。実際、すこしまえまで心労で倒れて横になっていたのだ。
「瞳子さん、また倒れないうちに部屋で休みなさい」
 徹はそう告げると、内線電話で使用人を呼んで瞳子を退出させる。
 彼女もそろそろ限界だと感じていたのか素直に従った。使用人に支えられながらよろよろと出て行くその姿を目にして、征也はそっと視線を落とした。

「さて……」
 そう言いながら、徹はあらためて両手を組み合わせて姿勢を正すと、左手側にいる翼に問いかける。
「おまえはこの事件にどう決着をつけるべきだと考える?」
「犯罪であることは明白なので警察に委ねるしかないでしょう」
「その場合、事件も過去も白日の下にさらされることになるが」
「それは……仕方がありません……」
 茉美だけの問題ではない。東條は犯罪者の息子となり、これまでどおりの生活が望めなくなるかもしれない。翼もきっと好奇の目を向けられる。西園寺グループへの影響も計り知れないのではないだろうか。
 もちろん翼もわかっているに違いない。わかっているからこそこんなにもつらそうな顔をしているのだ。まわりの誰にも目を向けることもなく深くうつむき、グッと奥歯を食いしめている。
 そんな翼を、徹は真剣な表情のまま奥底まで探るように見つめていた。そう長い時間ではなかったはずだが、息の詰まりそうな重い沈黙がつづいたあと、ゆっくりと小さく頷いて口を開く。
「おまえは正しい……だが、正しいことが最善とは限らん」
 威圧的ではないが威厳を感じさせる声。
 翼はつられたように顔を上げて怪訝なまなざしを送るが、それに気付いているのかいないのか、徹は会議テーブルをはさんだ向かいのほうに視線を移した。
「茉美さん、今後、征也との過去を口外しないと約束してくれるなら、今回の件は警察沙汰にしない。あなたは罪に問われなくてすむ。圭吾くんのためにもそのほうがいいと思うが、どうだろうか」
「…………」
 動揺、憎しみ、安堵、怒り、戸惑い——さまざまな感情をその顔によぎらせながら、彼女はぎこちなくうつむいた。しばらくそうしていたが、やがてゆっくりと深く呼吸をして顔を上げる。
「わかりました。口外しないとお約束します」
 わずかに震える声で、それでも迷いなくはっきりとそう答えた。
 それは翼の意に沿わない決着だ。そうわかっていながら創真はひそかに胸をなで下ろした。これできっと翼がされたことは表沙汰にならないし、東條も犯罪者の息子にならずにすむと。そのとき——。
「創真くん、そういうわけで君に傷を負わせた犯人を警察に突き出せなくなった。ここで聞いたことの口止めも強いることになる。勝手を言って申し訳ないが承服してもらえないだろうか」
「オレは別に構いませんけど」
 わざわざ徹が自分に許しを求めてくるとは思わなかったので、すこし驚いた。
 しかし、考えてみれば創真が警察に被害を訴えたら水の泡になってしまうのだ。何がなんでも納得してもらわなければならないということであれば、下手に出るのも無理はないのかもしれない。
「あ、でも親にはなんて言えば……」
「ご両親には我々から話しておこう」
「お願いします」
 創真はほっとして頭を下げた。
 しかし、隣の翼はまだ得心がいかないような物言いたげな顔をしていた。それでも異議を唱えるつもりはないのだろう。会議テーブルの上で重ねていた両手にそっと静かに力をこめて、口を引きむすんだ。




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