瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」第39話・家族

「どうなってるんだ」
 大地は苦々しげにそう言って、電話の受話器を叩きつけるように戻した。執務机で座っている剛三も、後ろで立っている悠人も、打ち合わせ机についている誠一たちも、皆一様に息を詰めて彼の様子を覗っている。彼からはまだ何の説明もないのではっきりとはわからないが、電話の内容からおおよその見当はついた。

 ほんの数分前のことである。
 一度、悠人とともに書斎を出て行った大地が、再び彼とともに早足で戻ってきたかと思うと、「借ります」とだけ告げて執務机の電話を手に取った。そして、立ったまま受話器を片手に持ち、手早く番号を押して発信すると、流暢な英語で話し始めたのだ。
 誠一は英語のヒアリングが得意ではないため、すべてを聞き取れたわけではないが、相手が米国大使館であることはすぐにわかった。美咲と会わせてくれ、話をさせてくれ、と懇願もしくは交渉しているようだったが、色好い返事はなかなかもらえず、彼の声は次第に大きくなり荒れていった。電話を切ったときの様子からすると、結局、取り付く島もないまま終わったのだろう。

 大地は疲れたように溜息を落として、前髪を掻き上げた。
「あいつら、君たちは我々の信頼を裏切った、今回の話はなかったことにする、の一点張りだ。美咲を出してほしいと言っても、終わったことだと取り合ってもらえない。大使館にいるのかどうかさえ答えてくれない」
 その話を聞いて、大地以外の全員がハッとした様子を見せる。
「その裏切りって、もしかして……」
「ああ、メルローズのことだな」
 表情をこわばらせて怖々と切り出した澪に、武蔵が同意した。実際に現場を見たのはこの二人だが、誠一も話は聞いており、思い至った先はおそらく同じだろう。剛三、悠人、篤史、遥も同様である。皆、心当たりを隠すことなく硬い顔をしていた。
 大地は要領を得ない面持ちになり、打ち合わせ机の方へ振り向いた。
「何かあったのか?」
 誰にともなく尋ねた彼に、武蔵が米国大使館での出来事を簡潔に話し出す。
 実験に不適格と言われてメルローズを託されたこと、その場で彼女の魔導が暴発しそうになったこと、それは武蔵が自分の魔導で抑え込んだが、直後に大使館の警備員に銃で追われたこと、命からがらメルローズを連れて脱出したこと――。
「それだな……」
 大地は苦虫をかみつぶしたような顔をして、額を押さえた。
「実験に不適格と偽ってメルローズを逃がそうとしたが、嘘だとバレた。それで契約を白紙に戻されたんだろう。美咲はあの子を救いたい一心だったが、あちら側からすれば重大な裏切りだし、信頼関係を築けないと判断して白紙に戻すのも頷ける。それどころか、悪くすればスパイ容疑を掛けられかねない」
「スパイ容疑……」
 澪は唖然としてオウム返しにそう呟いた。馴染みのない物騒な言葉に気圧されているのだろう。しかし、その意味するところまでは理解できなかったらしく、そっと眉を寄せて小首を傾げる。
「結局、お母さまはどうなるんです?」
「それを知りたいのは僕の方だよ」
 大地は真面目な顔で思案を巡らせながら、言葉を重ねていく。
「すでに大使館を追い出されたか、あるいは逆に監禁されているか……現在の状況も、今後の処遇も、今のところはあちら側に訊くしかないが、さっきの頑なな態度からすると難しいだろうな。手みやげ持参で心からの誠意を見せれば、話くらいは聞いてもらえるかもしれないが」
「手みやげ?」
「メルローズだよ」
 当然のように返ってきたその答えを聞き、澪は口もとを両手で押さえて息を呑んだ。同時に、武蔵は弾かれたようにパイプ椅子から立ち上がる。机に左手をついて前のめりになりながら、右のこぶしを震えるほどきつく握りしめ、今にも殴りかからんばかりに大地を睨みつける。
「おまえ……!」
 怒りを露わにした低く唸るような声。それでも、大地は飄々とした態度を崩さない。
「美咲はメルローズを守ろうとしているが、僕としては美咲の方を守りたいんでね。メルローズを救ったところで美咲が救えないんじゃ本末転倒だ。残念ながら、今はメルローズも行方不明だから、持って行こうにも行けないけど。ま、メルローズを渡したくないのであれば、美咲が無事に見つかることを祈ってるんだな」
「絶対にメルローズは渡さない」
 武蔵は強気にそう宣言すると、奥歯を噛みしめつつ静かに腰を下ろした。殴りかからず堪えたのは澪がいたからだろう。父親の非情さをあらためて目の当たりにし、顔面蒼白で絶句している彼女を、これ以上追いつめることなど出来るはずがない。
 しかし、大地は意に介する様子もなく、声に出して思考を整理し始める。
「とりあえず、追い出されていたと想定して行き先を考えよう。普通に考えればこの家だろうが来てないしな。今朝追い出されたのなら、これから帰ってくる可能性はある。だが、きのう、おとといに追い出されていたとしたら、別のところに行ってるってことだ……考えられるのは研究所か……」
「研究所は厳重に封鎖されておる。警察が見張りを立てていて近づけんはずだ」
 執務机の剛三が口を挟んだ。大地の身勝手な態度を快く思っていないことは、その険しい表情から見てとれるが、それには触れずあくまで理性的に接している。今は事を荒立てている場合ではない、という判断なのかもしれない。
 ふと、後方に立っていた悠人が口を開く。
「別荘の方かもしれない」
「なるほど……」
 大地はそう言って腕を組んだ。しばらく真顔で思案したのち、振り返る。
「悠人、一緒に来てくれ。手伝ってほしい」
 橘家が所有している別荘は一つ二つではなく、確認していくには手が掛かるのだろう。悠人はすっと表情を引き締めて首肯すると、再び大地とともに書斎を出て行こうとする。執務机でゆったりと両手を組み合わせた剛三は、その背中を見据えつつ、腹の底に響くような凄みのある低音を投げかける。
「大地、調べるのは構わんが、無断で行動を起こすなよ」
「わかっています」
 彼の威圧をものともせず、大地はにっこりと満面の笑みを浮かべて振り向いた。剛三はピクリと眉を動かし微妙な面持ちで視線を返す。彼だけでなく、この場の誰もが漠然とした不安を感じたに違いない。けれど、はっきりと承諾の返事をしている以上、疑わしいと思っても何も言うことは出来なかった。

「じいさん、俺、寝てきていいか? このところ徹夜続きだったし」
 大地と悠人が出ていって扉が閉まるとすぐに、篤史は執務机の方に振り返ってそう尋ねた。
 確かに、彼はこのところ何かと忙しそうにしていた。機器やソフトウェアを作成したり、あちらこちらをハッキングしたり、侵入計画を立てて準備を整えたりで、寝る時間もあまり取れていなかったように思う。憔悴ぎみの顔からも睡眠不足と疲労の蓄積が窺えた。
「構わん。無理をさせてすまなかったな。私も少し休ませてもらおう」
 剛三はそう言い、大きく肩を上下させながら息をついた。彼の場合は橘財閥の方にも心を砕かねばならず、会長としての責任もあり、精神力の消耗は並大抵のものではないだろう。年齢的なことから考えても相当きついはずだ。それでも、あからさまに疲れた様子を見せることなく、しっかりとした足取りで書斎を後にする。
 篤史も「じゃあな」と軽く手を挙げて、それに続いた。
 打ち合わせ机に残された誠一たち四人は、どうすべきか探るように、無言のまま互いに困惑した視線を送り合った。

 遥の提案で、四人は書斎から澪の部屋に移動した。
 澪は疲れたようにふらりとベッドに倒れ込むと、うつぶせに寝そべって顔の下に枕を抱え込んだ。短いプリーツスカートからはすらりとした脚が覗いている。誠一はベッド脇の椅子に座り、武蔵はその隣に腕を組んで立ち、遥はベッドの端に浅く腰掛けた。
「メルローズはどうすればいいんだ」
 沈黙を破ったのは、苦悩に満ちた武蔵の声だった。
 澪は枕を抱えたまま少しだけ頭を動かし、横目を流す。
「強行突破、してみる?」
「とても無理だよ」
 投げやりにも感じる澪の提案を、誠一は溜息まじりに却下した。
「本当に警察庁の地下に監禁されているんだとしても、けっこう広いし、警備も厳重だし……居場所が特定できているなら計画の立てようもあるけど、情報のない今は行き当たりばったりに探すしかない。警備員から逃れつつメルローズを探して、救出して、脱出するなんて不可能に近いと思う」
 だよね、と澪は失意の相槌を落とし、抱え込んだ枕に顔を突っ伏す。
「俺が探れるだけ探ってみるよ」
 そうは言ったものの、処分でそれどころではないかもしれないし、処分がなくても当然ながら警戒は厳しくなる。もちろん出来るだけのことはやってみるつもりだが、公安が相手ではそうそう上手くいくとは思えない。その心情が伝わったのか、武蔵は腕を組んだまま顔をうつむけ、落胆したかのように小さく溜息を落とす。
 それきり、会話が途切れた。
 誰も口を開こうとはせず、息の詰まるような重苦しい沈黙が続く。言えないのではなく言うことがない。完全に行き詰まってしまったのだ。誠一は膝にのせた手にじっと視線を落としていたが、すー、すー、と微かな寝息が聞こえて顔を上げると、澪が枕に突っ伏したまま小さく背中を上下させていた。
「緊張感のないヤツだな」
 武蔵は笑いを含んだ口調でそう言うと、ベッドに片膝をつき、覆い被さるようにして手を伸ばす。
「おいっ!」
「別に変なことしねぇよ」
 驚いて後ろからジャケットを引っ掴んだ誠一を、面倒くさそうに一睨みしてそう言うと、軽々と澪を横抱きにしてベッドから降りた。長い艶やかな黒髪がさらりと大きく舞う。それでも澪は目を覚ますことなく、彼の腕の中で心地よさそうに眠っていた。
「ちゃんと布団で寝かせた方がいいだろう。遥、布団を捲れ」
 偉そうな命令だが、遥は特に反発することなく素直に掛け布団を捲った。露わになった白いシーツに、武蔵は抱きかかえていた澪の身体をそっと下ろす。頭をきちんと枕の上にのせ、乱れた黒髪をざっと手で整え、少しまくれたスカートを戻すと、慎重な手つきで首元まで布団を掛けた。
 そんな彼を見ていると、本当に愛おしく思っているのだと伝わってくる。
 しかしながら誠一としてはやはり不愉快で、やめろとまでは言えないが自然と渋面になった。なにせ相手は、一ヶ月近くも手錠を掛けて澪を監禁したうえ、いっときとはいえ体も心も重ねていた男なのだ。そして、一番の問題はそんな彼が澪の父親であるということだ。
「触られるのも嫌だって顔だな」
 武蔵は振り向き、挑発的にそう言って口の端を上げた。
 誠一は表情を険しくしつつも冷静に言葉を紡ぐ。
「澪にとっての家族は崩壊寸前だ。父親と慕っていた人は父親ではなく、母親と慕っていた人は実験で生んだだけ、おまけに保護者同然の人からは求婚されて……このままでは、澪は家族というものが信じられなくなるかもしれない。だから、一応の父親であるあなたには……父親らしくしてくれとは言わないが、せめて最低限の節度は持ってほしい」
「ずるい言い方だな」
 武蔵は抑揚なくそう言い、ゆっくりと腰に手を当てながら冷たい横目を流す。
「澪にちょっかい出すのが気にくわない、って素直に言えよ」
「確かにそう思っている。でも、澪が心配なのも本当だ」
 誠一が毅然と答えると、彼はふっと寂しげに青い目を細めた。
「そうだろうな。けど、俺だって今は現実を受け止めるので精一杯だ。澪の嫌がることをするつもりはないが、そう簡単に気持ちまでは切り替えられない。おまえはそのことまで責めるのか?」
「…………」
 突然知らされた真実に戸惑うのは理解できるし、簡単に気持ちが切り替えられないのもわかる。もちろんそこまでは責められない。気持ちは自分の意志ひとつで変えられるものではないのだ。行動を起こさないというだけでも十分なのかもしれない。ただ――。
「二人ともうるさいから出て行ってよ」
 遥は、口を開こうとした誠一を遮るように声を張ると、誠一と武蔵を追い立てて部屋を出て行かせようとした。あまりにも急なことで二人とも戸惑っていたが、彼は無表情のまま強引にぐいぐいと背中を押してくる。よろけて廊下に押し出されながら、誠一は慌てて振り返った。
「遥、君は?」
「僕は澪が心配だからここにいる。夜這いに来ても無駄だからね」
 最後の忠告は、誠一だけでなく武蔵にも向けられていたようだ。二人とも困惑まじりの苦笑を浮かべる。今は真昼であり夜這いという時間ではない。というより、この家でそんなことをするつもりは毛頭ない。武蔵もそのくらいの節度は持っていると思う。
「誠一」
 パタンと扉が閉められると同時に、扉越しの微かな声が耳に届いた。なぜ自分の名前を呼んだのか、どういうつもりなのか、どう反応を返せばいいのか――誠一には何もわからない。戸惑いながら立ち尽くしていると、扉の向こうで小さく言葉が継がれる。
「僕は、ずっと澪の家族でいるから」
 扉から遠ざかっていく足音が聞こえた。
 見えない遥の後ろ姿を思い浮かべて、誠一はふっと柔らかく表情を緩めた。その背後では、武蔵が腕を組んで口もとを上げていた。

 翌朝になっても、大地たちは橘美咲の消息を掴めなかったようだ。
 誠一たちの方で考えていたメルローズ救出についても、糸口すら掴めないまま完全に行き詰まっている。武蔵とは他のことも含めていろいろと話し合ったが、やはり悪い人間ではないという印象が強くなった。澪の実の父親であることを考えると当然かもしれない。どこかずれている部分もあるが基本的には常識人なのだ。ただ、澪に関することを話すときだけは、互いに少し攻撃的になるのは致し方ないだろう。
「メルローズの件、難しいだろうがよろしく頼む」
「ああ、出来る限りのことはやってみるよ」
 警察庁に向かう誠一を、武蔵はわざわざ玄関先まで見送りにきてくれた。その隣には澪もいる。朝食のときからずっと心配そうな暗い顔を見せていたが、最後は元気づけるように、にっこりと微笑んで手を振りながら送り出してくれた。
 二人の期待に応えるためにも、少しでも手がかりを掴みたい――。
 誠一は重たく垂れ込めた鉛色の雲を見上げると、強い気持ちを胸に、確かな足取りで革靴を打ち鳴らして歩を進めた。

「お返しします」
 誠一は抑えた声でそう言い、執務机の楠長官に紙の手提げ袋を差し出した。というより、突き出したという方が正解かもしれない。彼は薄い微笑を浮かべてそれを受け取り、大雑把に中を確認すると、「確かに」と頷いて自らの足元に置いた。
 ここは、警察庁内にある楠長官の執務室である。
 普段はたいてい楠長官と誠一の二人きりだが、今日は溝端も来ていた。執務机を挟んで向かい合う楠長官と誠一を、無感情な眼差しで横からじっと見つめている。そして、すぐにでも飛び出せるよう身構えているようだ。やはり反逆者として警戒されているのだろう。
「橘大地はもう用済みだった。気に病む必要はない」
「……はい」
 楠長官は何でもないかのようにさらりと言ったが、横からは溝端の突き刺さるような殺気を感じた。少なくとも彼の方は許していない。楠長官に盾突いてまで襲いかかりはしないだろうが、誠一は肌を粟立たせて密かにびくついていた。
 そんな誠一の様子を見透かしたかのように、楠長官は口角を上げた。
「君に会わせたい人物がいる」
「……メルローズですか?」
「私は『人物』と言ったはずだが」
 誠一は眉を寄せる。楠長官はメルローズが人間だと認めるつもりはないようだ。わかってはいたが、実際に目の前でそう言われると不快感が募る。しかし、メルローズでないとすると、いったい誰に会わせたいというのだろうか。考えてみたが、該当するような人物はまったく思い浮かばない。
「溝端」
 誠一に目を向けたまま、楠長官はその一声だけで何かを促す。溝端は無言で懐から手錠を取り出した。ぎょっとして後ずさった誠一との間合いを詰め、両方の手首にそれを掛ける。狼狽えているうちに目隠しまでされてしまった。アイマスクの上からさらに布を巻いて縛られたような感覚だ。
「場所を知られるわけにはいかないのでね」
 楠長官の愉しげな声が聞こえたかと思うと、今度はヘッドホンらしきものを付けられた。耳全体をすっぽり覆うタイプのようで付け心地は悪くないが、耳が痛くなるほどの大音量でクラシックの交響曲が流れている。外部の音はもう聞こえなくなった。

 車に乗せられて小一時間ほど走ったあと、どこかの建物らしきところに入り、廊下を歩かされたりエレベータを上がったり下がったりして、ようやく目的の場所と思しきところに到着した。
 まず、ヘッドホンを外される。ずっと大音量でクラシックを聴かされ続けたせいで、耳の痛みや頭痛とともに、聞こえ方が若干おかしくなった感覚もあった。とはいえ心配するほどのものではなく、おそらく時間が経てば元に戻るだろう。
「ご苦労だったね」
 楠長官の声が耳に届いた。それから間をおかず、手錠、目隠しと順に外される。開かれた視界に映ったのは薄暗い中に立つ楠長官と溝端の姿だった。背後からは光を感じる。明るさに慣れない目を庇うように、顔をしかめて手をかざしつつ、ゆっくりと振り向いていくと――。
「橘美咲、さん……メルローズ……?!」
 大きなガラス窓の向こうに広がる白く目映い空間。中央にはパイプベッドだけがぽつりと置かれている。その上に美咲が座り、甘えるように抱きつく幼い少女を愛おしげに撫でていた。緩やかなウェーブを描いた灰赤色の長髪、それより少し濃い色の瞳、透き通るような色白の肌、愛らしい薄紅色の小さな唇――顔の造形も、他の特徴も、完全に記憶の中のメルローズと一致する。彼女で間違いないと思う。
 あらためて、こちら側の部屋を観察する。
 隣接するあちら側と比べると奥行きがなく、まるで通路のようになっていた。後方の一段高いところには、長机と長椅子が据え付けられている。ちょうどその正面が大きなガラス窓になっており、座ってあちら側を観察することができるようだ。溝端の背後には廊下へ続くと思われる扉があり、向かいには美咲たちのいる部屋への扉もある。誠一は大きなガラス窓のすぐ前に立っているが、美咲たちが気付いた様子はなく、もしかしたらマジックミラーかもしれないと思う。
「どこですか、ここは……」
「何のために目隠ししたと思っているのかね」
 愚問だった。場所を知られるわけにはいかない、と初めに言われたことを思い出す。自分の間抜けさを少し恥ずかしく思ったものの、そんな様子はおくびにも出さず平然と質問を変える。
「では、なぜ橘美咲さんがここに?」
「丁重にお願いして来てもらったのだよ」
 嘘っぽい答えだ。少なくとも丁重にはお願いしていないだろうと思う。
「橘美咲さんは必要なかったのでは?」
「当初はそのつもりだったがね」
 楠長官は口の端を上げ、拍子抜けするほどあっさりと認めた。
「あの実験体が暴発しかねない危険な状態になってな。マニュアルにもそのあたりのことは載っておらず、彼女に対策を仰ごうと思って来てもらったのだ。もっとも実験中はこんな状態になったことがないらしく、彼女もすぐにはわからないということだが、どうも実験体の精神状態と連動しているようでね。親しい橘美咲女史がついていると安定する。おかげで、暴発の心配もなく落ち着いて対処法を研究できるよ」
 一度は切り捨てたはずの彼女に助けを求めるなど、どれだけ身勝手なのだろう。誠一は無意識に眉をしかめた。それに気付いたのか、楠長官はふっと意味ありげに目を細めて要点を述べる。
「橘美咲女史は自らの意志でここにいるのだよ。だから探す必要はない――そう橘家に伝えてもらおうと君を連れてきた。無駄な努力をしないですむようにという私なりの配慮だよ」
「本当に彼女の意志でしょうか」
「本人に聞いてみるといい」
 そう言って、楠長官は壁に掛かった無線機を手に取ると、親指でボタンを押しながら話し出す。
「美咲さん、ちょっと出てきてくれるか」
 ガラス窓の向こうで、美咲は少しこちらの方に顔を向けて頷くと、メルローズを宥めながらベッドから降りた。そして、膝丈の白いワンピースをふわりと揺らしながら、迷わず扉へ足を進めてそこから出てくる。初めて直に目にした彼女は実年齢よりずっと若かった。少女らしさを感じるワンピースのためか、まっすぐ下ろされた黒髪のためか、化粧気のないナチュラルな顔のためか、卓越した成果を上げている非凡な研究者にはとても見えない。ましてや、子供たちの命を犠牲にするような、残酷な実験を行っていた人間とはとても思えない。
 彼女は不思議そうな面持ちで会釈をする。
「紹介しよう」
 楠長官はにこやかにそう言い、誠一を手で示した。
「こちらは直属の部下の南野誠一君だ。澪ちゃんと交際していた関係で橘家と懇意になり、一連の事件についても事情は聞かされているようだ。今は橘家とともに美咲さんや実験体を探しているらしい。まあ、我々にとっては裏切りもいいところだがね」
 わざと困らせるようなことを言っているのだろう。楠長官は見るからに愉しそうな様子で声を弾ませていた。どういうつもりなのかは知らないが、今さらこんなことで取り乱したりはしない。誠一は僅かに眉を動かしただけで、理性的な態度を崩すことなく紹介相手に一礼する。
 美咲は少し驚いた様子だったが、ふっと柔らかく目を細めた。
「そう、あなたが……刑事と聞いていたけど……」
「美咲さん、帰りましょう。澪さんも遥くんも待っています」
 誠一は静かながらも熱のこもった口調で訴えかける。
 しかし、美咲は少しも動揺を見せない。
「メルローズを放ってはおけません。あんな体になったのは私たちの実験のせいだもの。だから、あの子を救うために精一杯の手を尽くしたい。私は自らの意志でここに留まると決めました」
「あなたが愛情を注ぐべき相手は、メルローズでなく澪と遥のはずだ」
 誠一は頭に血が上るのを感じつつ、努めて冷静を装う。それでも声の端々から怒りが滲んだ。
「実験で作った子供でも、あなたは母親じゃないですか」
「そう……そのことも知っているのね……」
 美咲は薄く自嘲の笑みを浮かべ、目を伏せる。
「澪と遥のことは私なりに可愛がってきたつもりです。ただ、一緒に過ごす時間は圧倒的にメルローズの方が多いから、やはりどうしてもあの子の方に情が移ってしまうの」
「それは、逃げてるだけじゃないんですか?」
 彼女の瞳が少し揺らいだように見えた。ここぞとばかりに誠一は慎重に畳みかける。
「澪と遥と向き合ってください。母親として……」
「ごめんなさい、何と言われても決意は変わりません」
 美咲は穏やかな口調ながらも毅然とそう言い放った。迷いは窺えない。澪のためにも母親として戻ってきてもらいたかったが、無理なのかもしれない。自分の子供よりメルローズの方を大事にするくらいなのだから――誠一は眉を寄せ、少し考えてから話題を変える。
「公安はメルローズを実験に使うつもりでいます」
「止めたいわね」
 美咲は研究者の顔になった。声も凛然としている。
「でも私の提案した代替案は一度却下されているの。出来うる限り回避する方向で話をしてみるけれど、どうしても了承してもらえないのであれば、メルローズに負担の少ない実験方法を提示するわ。最後の実験体であるメルローズを失いたくないのは公安も同じでしょうし」
「さすが優秀な科学者、冷静な判断ができる」
 楠長官は後ろで手を組み、満足げな笑顔で大きく頷きながら言った。そう口にすることで、美咲の提案を受け入れるつもりがあると表明し、誠一に付け入る隙を与えなかったのかもしれない。まず彼女に帰ると言わせなければ始まらない。なのに、これでもう切り札はつぶされてしまった。自分のやり方がまずかったのだろうか――誠一は首が折れそうなほど深くうつむき、歯噛みする。
「南野さん」
 ふいに柔らかい声で名前を呼ばれた。誠一はドキリとし、戸惑いつつそっと硬い顔を上げる。
「お父さまに……橘剛三に伝えていただけますか。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんと。それと、橘大地に大丈夫だから心配しないで待っていてと」
 美咲はうっすらと寂しげに微笑んでいた。その表情を目にすると、この伝言が秘密の暗号ではないかという微かな期待もしぼんでしまう。考えてみれば、このような日常でよく使う文言では暗号になりえない。おそらく本当にただの伝言なのだろう。
「澪と遥には?」
「掛ける言葉なんてあるとお思いですか?」
 彼女は急に険しい声になってそう言うと、黒髪をさらりと肩から滑らせながら一礼し、再びメルローズのいる白い部屋へ戻っていった。ガラス窓の向こうで、メルローズはぱっと顔を輝かせて抱きつき、美咲はにっこりと微笑んで受け止める。防音になっているのか声は聞こえないが、美咲は何かを語りかけているようだ。その表情は、我が子を慈しむ母親そのものだった。
 やはり、逃げている――。
 誠一は額が触れそうなほどガラス窓に近づき、一見すると微笑ましい二人の姿を眺めながら、そっと口を引き結んで眉根を寄せた。


…これまでのお話は「東京ラビリンス」でご覧ください。

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