瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」第32話・おかえり

 負傷した武蔵は橘家に運ばれた。
 あらかじめ剛三には電話で概況を連絡してあり、到着したときにはすでに医師が手配されていた。橘家とは先々代からの古い付き合いで、腕も口の堅さも信頼できる田辺という開業医である。年の頃は悠人よりも幾分か上だろうか。澪と遥は何度か風邪を診てもらった程度だが、亡き祖母の瑞穂が大いに世話になったことは知っていた。
 田辺医師はひとまずの処置を済ませてから、関係者の集まる廊下に顔を出した。
 一般向けと思われる簡素な説明によれば、弾は貫通しており、臓器に損傷もないが、出血量が多いので今すぐ輸血が必要とのことである。澪はパッと勢いよく前に進み出た。
「武蔵の血液型は?!」
「O型です」
「私もO型です!」
 自分の胸に血まみれの手を当てて訴える。今この場に集まっている人間の中で、血液型のわからないメルローズを除けば、O型は澪と遥だけである。武蔵に自分の血液を分けられることに、彼を救えることに、まだその段階ではないが少しだけ安堵した。しかし――。
「待って」
 背後から遥が口を挟んだ。
「僕らの血液で大丈夫なのかな。メルローズが同じ血液型なら、メルローズからの方がいいと思う」
 事情を知らない田辺医師の手前ゆえか、理由は述べなかったが、その意味するところはすぐにわかった。武蔵たちは自分たちと遺伝子的にわずかながら相違がある。血液型が同じだからといって輸血が可能という保証はどこにもない。その点、同種のメルローズであれば問題はないはずだ。皆、一斉に小さな少女に目を向ける。
「そんな小さな子供一人ではとても足りませんよ。なぜ輸血を躊躇っているのですか? 澪さんや遥くんに何か問題でもあるのですか?」
 田辺医師は怪訝に眉をひそめた。
 しかし、さすがに武蔵の素性を説明するのは憚られ、誰もその問いに答えようとはしなかった。剛三でさえもどうすべきか決めかねているようだ。その隣で、悠人も腕を組みながら黙考していたが、やがて思いついたように田辺医師に尋ね返す。
「輸血をしなければどうなりますか?」
「命を捨てるようなものですよ」
 その声には、呆れとも怒りともつかない声音が滲んでいた。
 遥は軽く挙手をしながら澪の前に進み出る。
「じゃあ、僕の血を使って」
「私の血もお願いします!」
 澪も負けじと一歩踏み出して隣に並んだ。しかし、遥は冷ややかに一瞥して言い捨てる。
「澪は駄目だよ」
「どうして?!」
 もし輸血しか手段がないのであれば、澪も同じ血液型を持つ者として、血を提供するのは当然のことである。なのに、遥自身は血を提供するにもかかわらず、澪だけ許さないなどわけがわからない。追及の目を向けるが、彼は視線を逸らせたまま答えようとしなかった。
「一人では足りません。できれば、お二人にお願いします」
 医師としての使命を感じさせる強い口調で、田辺医師は言う。一刻も早く輸血しなければならないことは、医師でない澪でも十分に理解している。遥が何と言っても自分の血を使ってもらおう、そう決意を固めて田辺医師に振り向いた、そのとき――。
「少しだけ時間をください」
 悠人が後ろから澪の腕をとって、みんなから少し離れたところへ誘導した。いったい何だっていうの――澪は反発して腕を振り払おうとするが、彼は真剣な面持ちで覗き込んで声をひそめる。
「もしかしたら、武蔵は澪や遥の血を受け付けないかもしれない。輸血することで彼が死ぬかもしれないんだよ。自分の血で彼を死なせてしまう、その現実を受け入れるだけの覚悟はあるの?」
「……でも、輸血しないと死んでしまうし、助けられる可能性があるならそれに懸けます」
 正直、そこまでの覚悟をしていたわけではなかった。悠人に言われて怖くなったのも事実だ。けれど、逃げ出して彼を死なせてしまっては後悔してもしきれない。助けられる可能性に懸けるというのは当然の選択だろう。
 悠人は微妙に顔を曇らせながらも、頷いてくれた。
「よろしくお願いします」
 田辺医師に振り向いてそう言うと、丁寧に一礼し、澪の肩をそっと押すように送り出す。
 遥は眉をひそめていたが、悠人の決定に異を唱えることはなかった。

 二人は許容量いっぱいまで採血され、その血液が武蔵に輸血された。
 その後、田辺医師が付きっきりで経過を観察していたが、やがて容態は落ち着き、もう心配はないだろうという診断が下された。今は薬の影響で眠っているが、そのうち意識は戻るとのことである。それでも澪はベッド脇から離れられなかった。不安のためか息苦しさを感じながらも、椅子に座って彼の寝顔をじっと見守っている。
「澪……」
 悠人の大きな手が、澪の細い肩に置かれた。
「シャワーを浴びて着替えておいで。その格好のままでは、彼が目覚めたときに驚くだろう?」
「そうですね……」
 採血のときに腕と手だけは洗ったが、制服のシャツもスカートも血まみれで、顔にも脚にも血がこびりついたままである。もう乾いているので血みどろという感じではないが、それでも尋常な姿とはとてもいえないだろう。武蔵のことが気がかりで離れがたくはあったが、もう大丈夫という田辺医師の言葉を信じて立ち上がる。少し、くらりと目眩がした。
「僕も行く。血を抜いたあとだし、澪を一人にしておけない」
 遥は誰にともなくそう宣言すると、後ろから澪の手を取って歩き出す。戸惑いつつも、澪は引かれるまま素直について歩いた。視界の端には、物言いたげな様子で立ちつくす誠一が映っていたが、声をかけてくることもついてくることもなかった。

 シャワーを浴びて服を着替えたあと、遥とともにダイニングルームで食事をした。武蔵と朝食をとってから何も口にしていなかったことに、ダイニングルームに連れてこられてようやく気がついた。だが、あまり食欲はなく、遥を心配させない程度に口に運んだだけだった。
 部屋に戻っても、武蔵はまだ目覚めていなかった。
 澪は再びベッド脇の椅子に腰掛ける。穏やかな顔で眠る武蔵を見ていると心配になり、布団の中に手を差し入れ、彼の大きな手を両手で包み込むように握った。顔色はあまり良くなかったが、手はいつものように温かい。そうやって彼の生存を実感していないと、漠然とした不安に耐えられそうもなかった。
 遥は斜め後ろに椅子を置いて座っていた。武蔵というより澪を見守っているようである。悠人は誠一とともに奥のソファに座っていたが、二人そろって腰を上げると、遥に何か耳打ちをして一緒に部屋を出て行った。
 ふいに、握っていた手がピクリと動いた。
 澪はハッとして武蔵の顔に視線を向けると、その瞼がゆっくりと上がり目が開いていく。鮮やかな青の瞳がぼんやりと澪を捉えた。瞬間、澪の心臓は大きくドクンと跳ねた。腰を上げて身を乗り出しながら、彼の手をぎゅっと強く握りしめる。
「武蔵っ! わかる?!」
「どこだ、ここは……」
「ウチだよ、橘の家」
 彼の手を胸元に抱きしめ、まだ虚ろな瞳を覗き込む。長い黒髪がさらりと彼の頬を掠めた。
「お医者さんはもう大丈夫だって。助かったんだよ?」
「感謝してよ。僕と澪がだいぶ血をあげたんだから」
 背後で立っていた遥が、腕を組んでぶっきらぼうに言い放つ。フッと武蔵は薄く笑った。
「なるほど、おまえらが俺の命の恩人ってわけか……」
「もっとも、僕らの血で大丈夫なのか保証はないけどね」
「ああ、おまえらとは生物学的に少し違うんだったな」
 そう言ったあと、急にきょろきょろと視線だけを動かして部屋を見回した。
「メルローズは?」
「篤史が他の部屋で寝かせてる。連れてくる?」
「いや、そのまま寝かせといてやってくれ」
 遥の答えに、安堵したように息をついてそう言い、天井を見つめながら少し目を細める。
「大使館の連中は?」
「追って来てないよ」
 今度は澪が答えた。すぐに遥が補足する。
「あちらも事を大きくしたくないだろうし、大使館の外で強引な真似は出来ないよね。でも、橘の人間であることは知られてるから、用があればここに来るはずだよ。今のところは関係者らしき人物は来てないけど……ねぇ、いったい何があったの?」
 帰ってからまだ誰にも何があったのか訊かれていなかった。武蔵は当然ながら話せる状態ではなかったし、澪もショックでそれどころではなかったため、皆、配慮してくれていたのだろう。澪は助けを求めるように武蔵に目を向けると、彼は小さく頷き、ベッドで横になったまま静かに話し出す。
「橘美咲はメルローズを俺に返すと言ったが、大使館の連中はそれを許さなかった。簡単にいえばそれだけだ。ただ、実験に不適格なことが判明したから、という橘美咲が口にした理由は嘘だ。大使館の連中もそれがわかったから取り戻そうとしたんだろう。メルローズの体は、人為的な作用によるせいか不安定だが、すでに大きな力を蓄えられるようになっている。原理を解明するにせよ、人間兵器を作るにせよ、必要不可欠な実験体のはずだ。なのに、なぜ橘美咲が手放そうとしたのかわからない」
 澪は起こった事実しかわかっていなかったが、武蔵はもっと総合的に理解していたようだ。けれど、故意なのか失念なのか、その話からは美咲の語った情報が一部抜け落ちている。
「お母さま、ずっとあの子と一緒にいて情が移った、みたいなことを言ってたじゃない」
「まさか。あんな非道な実験を行ってきた奴が、情なんかで大事な実験体を手放すかよ」
「武蔵がそう思うのは仕方ないけど……でも、私は……」
 母親がそこまで非道な人間だと信じたくなかったし、今まで見てきた優しい笑顔が嘘だと思いたくなかった。両手で包み込んでいた武蔵の手を、再びぎゅっと縋るように握りしめる。彼は少し困った顔になり、視線を逸らせた。
 遥は気まずい空気をものともせず、淡々と話を進める。
「学生証のことは訊いたの?」
「ああ、はっきりとは答えてくれなかったが、心当たりがあるのは確かなようだな」
「お母さま、その学生証が武蔵のものだって聞くなり、いきなり武蔵と私が付き合うことを反対して、血が許さないとかそんなことを言い出して……あ、別に私は武蔵と付き合いたいとか、そんなつもりは全然ないんだけど!」
 澪はパッと武蔵の手を放し、遥に向き直って両手をふるふると横に振る。
 しかし、遥は真面目な顔で考え込んでいた。
「血って、どういうこと……?」
「橘美咲に訊いたが何も答えてくれなかった。研究については何も話せないと言っていたので、やはり何かしら研究に関わることではあるようだ。記憶にはないが、何か血液に関する実験をされたのかもしれない」
 武蔵は天井を見つめたまま、思考を整理するように答えていく。
 それを聞いた遥は、キッと眉を上げて澪を睨んだ。
「そのこと澪も聞いてたなら輸血の前に言ってよ。もし、実験のせいか何かわからないけれど、澪と武蔵の血液が相容れないという意味だったら、澪が輸血したことで武蔵に拒絶反応が出るかもしれないんだよ? その危険性が示されていたのなら、他のO型の人間を探してきて血を提供してもらうべきだった」
「あ……あのときは、そんなことまで頭がまわらなくて……」
 言われてみれば確かにその通りだが、指摘されるまでは思い至らなかったし、そんなことを考える余裕もなかった。しかし、彼の指摘どおり明らかに自分の落ち度だ――澪の顔から血の気が引いていく。自分の失敗のために、自分の血によって、武蔵が命を落としたらと思うと怖くてたまらない。
 うつむいていた澪の頬に、あたたかい大きな手がそっと触れる。
「心配するな、俺は生きてるんだから」
 武蔵は微笑を浮かべて澪の頭を抱き込んだ。為すがまま、澪は広い胸に頬を寄せて目を閉じる。穏やかな心音が、あたたかな体温が、恐怖心を落ち着かせていくようだった。
「おまえの血を受け入れて生きていられるって、何となく許されてるような気がして嬉しいよ。これからどうなるかはわからないが、どんな結果になったとしても、絶対におまえを恨んだりはしないから。まあ、澪の血に殺されるなら悪くないよな」
「バカなこと言わないで!」
 軽く笑いながら冗談めかして言う武蔵に、澪は跳ね起きて叫んだ。彼の胸に手をついたままキッと睨みつける。その目にはじわりと涙が滲んだ。それを隠すように再び胸に顔を埋めるが、ぽろぽろと雫が零れ落ち、彼の肌を生ぬるく濡らしていった。
「お願いだから死なないで……死んでほしくないよ……」
「悪かった」
 自らの意思でどうにもならないことを懇願されても困るだろうが、それでも彼は優しかった。縋りついて小さく体を震わせる澪を、慈しむように、髪を梳くようにそっと撫でていく。
「そうだよな、これから澪ともっと楽しいことするんだ。死んでる場合なんかじゃないよな」
「ん……早く、良くなってね……」
 彼の言葉が本気なのか軽口なのか判別はつかなかったが、そんなことはどうでもよかった。彼が生きてさえいてくれればそれでいい。そこに責任逃れの気持ちがないとは云わないが、それ以上に、一月近くともに過ごしてきた彼への情があった。
 その間、遥は難しい顔で立ちつくしたまま、思案に暮れていた。

 その後、念のため田辺医師を呼んで診察してもらったが、もう生命の危機は完全に脱しているとのことだった。もっとも、武蔵の素性や実験のことは話していないので、拒絶反応の可能性までは調べていないだろう。けれど、今のところはそれらしき兆候もなく、意識も明瞭ですっかり元気そうである。ただ、それでもしばらくは安静が必要なため、一人でゆっくり朝まで寝てもらうことにした。
 澪は部屋を出ると、遥とともに大階段の方へ歩き出した。
「澪、これからどうするつもり」
「これからって、何のこと?」
「武蔵と付き合うのかってこと」
「そんなつもりは、ないよ……」
 予想もしていなかったことを尋ねられ、なんとか冷静を装って答えるものの、その声は少しうわずってしまった。遥も気付いたのか、微かに眉をひそめて不快感を滲ませる。
「誠一はさっき帰ったよ」
「そっか」
「絶望的な顔してた」
「…………」
 大使館から戻ってきて以降、ほとんど武蔵のことしか見ておらず、誠一がいたことすらも記憶にない。本当に絶望的な顔をしていたとすれば、彼を一顧だにしなかったことが原因なのだろう。それについては多少の申し訳なさを感じるが、重傷を負った武蔵の方を気にするのは当然だと、どこかしら反発するような気持ちもあった。
 遥はふと足を止め、静かに言葉を落とす。
「誠一、刑事じゃなくなった」
「え?」
「警察庁に出向になったんだ。誠一が僕らと親しくしているのを知って、楠長官が利用しようと引き抜いたみたい。おかげで頑張ってた刑事の仕事も奪われてさ。楠長官には橘家の情報を流すように言われ、師匠には公安の情報を流すように言われ、意図せず二重スパイみたいな状態になってる。つらいだろうね。それでも辞めることなく耐えてきたのは、澪を救出する手がかりを掴むためだったんだよ」
 その話は、砕けた硝子の欠片のように、澪の胸に鋭く突き刺さった。
 しかし、遥は容赦なく追い打ちをかける。
「師匠も、一時は自責の念もあってかなり憔悴してたし、そのせいで精神状態が不安定なときもあった。楠長官のところに乗り込んでいって、逆上して首を絞めて殺しかけたりしてね。誠一が止めてなかったら取り返しの付かないことになってたよ」
 そこで大きく息を継ぐと、横目で澪を一瞥する。
「澪が元気に戻ってきてくれたのは嬉しいよ。たとえ生かされていてもどんな扱いを受けているかわからないし、肉体的にも精神的にも嬲られて壊れているかもしれないって、そんな覚悟もしてた。けれど、普段とまったく変わりなく笑ってて……本当に良かったけど、師匠や誠一からするとやりきれない気持ちもあるよね。あんなに心配していたのに、誘拐犯と楽しくいちゃついていたんじゃ」
「そんな、つもりは……」
 ドクン、ドクンと次第に大きくなる鼓動を感じつつ、澪は弱々しく否定の言葉を口にする。
「誠一と別れて武蔵に乗り換える気?」
「そんなこと、しない……よ……」
 全身から汗が噴き出し、喉がカラカラに乾いてきた。
 それでも厳しい追及はやまない。
「じゃあ、いったいどういうつもりなわけ? 武蔵と楽しくセックスしていちゃついて、誠一とも付き合い続けて、愛想尽かされたら師匠と結婚すればいいとか思ってる?」
「そんなこと……っ!」
 思わずパッと顔を上げて言い返そうとする。しかし、氷のような冷たい遥の瞳に凍りついた。
「してないの? セックス」
「……し、た……けど……」
「合意の上で?」
 澪は萎縮して言葉に詰まり、ぎこちなく首を縦に振る。
 遥はわざとらしく大きな溜息を落とした。
「ふらふら流されてばかりいないで、少しはみんなの気持ちを考えたら? 澪がそんな好き勝手な態度でいたら、みんなが、誠一がどう思うかくらいわかるよね。いつも守られて甘えてそれで何とかなってきただろうけど、僕も澪が大切だから守ってきたけど、せめて自分の大切なものくらい自分で守る努力しなよ」
 呆れ口調でそう言うと、鋭く射抜くような眼差しを澪に向ける。
「言っとくけど、師匠に乗り換えようなんて絶対に許さないから。澪なんかと結婚したら師匠が不幸になるだけだ。師匠やじいさんがどういうつもりでも、僕は絶対に許さないし認めないし、どんな手を使ってでも阻止してみせる」
「私、そんなつもりじゃ……」
「じゃあどういうつもり?」
 おろおろする澪を遮り、遥はきつく問い詰める。
「誠一を裏切っておきながら、何事もなかったかのように平気な顔して付き合い続けるの? それが許されると思ってるの? 少しは申し訳ないと思わないの?」
「それは、その……悪かったって思って……ごめん……」
「僕に謝っても仕方ないだろ!」
 遥とは思えないほどの荒げられた声に、澪はビクリと身をすくませた。もうどうすればいいかわからない。彼の指摘どおり自分が悪いのは確かだが、何を言っても怒られてしまうだけである。涙を滲ませながら、力なくうなだれて自嘲の笑みを浮かべる。
「遥の話を聞いていたら、謝る資格もない気がしてきたよ」
「謝る資格って何? それって自分が傷つきたくないだけじゃないの? 誠一に許してもらえないのが怖いだけじゃない? 本当にどこまで甘えれば気が済むわけ?」
 遥は徹底的に心の奥底を暴き立てていく。言われてみれば確かにそのとおりなのだ。怯えて、逃げて、甘えているだけである。自分自身でさえ気付いていなかったことを突きつけられ、何もかもが音を立てて崩れていくようだった。
「このまま誠一と終わってもいいの?」
「いや……そんなの……」
 涙がはらはらと頬を伝っていく。それでも、遥は険しい表情を崩さない。
「本当にそう思うんだったら、今すぐ誠一のところへ行きなよ。甘えてないで、自分で自分の気持ちを伝えてきなよ。悪いと思うなら謝ってけじめをつけなよ」
 それは厳しくもまっすぐな叱咤――。
 澪はようやく彼の思惑を理解した。嗚咽を堪えながら濡れた頬を手で拭い、決意を固めてこくりと頷くと、大きく身を翻して駆け出した。しかし、大階段に向かおうとして角を曲がったとき、ふと人影を見つけてビクリと足を止める。そこにいたのは、腕を組んで壁にもたれかかる悠人だった。
「もしかして、聞いてました?」
「だいたいはね」
 おずおずと上目遣いに尋ねると、悠人は軽く肩をすくめて答えた。そのいつもと変わらない親しげな反応に、澪は少し安堵すると同時に、先ほどの話を思い出して胸が締め付けられる。
「ごめんなさい、師匠も私のためにつらい目に遭ってたんですよね……」
 悠人はただ優しく穏やかに微笑んでいた。肯定も否定もせず、責めることもなく、慰めることもなく、彼が何を思っているのかはわからない。澪は緊張を感じながら、体の横でグッとこぶしを握りしめる。
「でも……私、誠一のところへ行ってきます」
「こんな夜中に女の子ひとりで外出させられないよ」
「お願いします! とても大事なことなんです!!」
 勢いよく腰を折って頭を下げた。長い黒髪がぱさりと廊下に落ちたが、構うことなくそのままの姿勢を維持する。せっかく誠一のところへ行こうと決めたのだ。何がなんでも認めてもらわなければならない。
「僕が車を出そう」
「えっ?」
 驚いて顔を上げると、悠人はくすっと小さく笑って言い直す。
「彼の家まで送っていく」
「……いいんですか?」
「抜け出されても困るからね」
 そう冗談めかすと、澪の頭を大きな手でぽんぽんと叩いた。またしても澪の視界は大きくぼやけていく。しかし、今度は溜めた涙を零すことなく、そのままにっこりと笑ってみせた。

 橘家の大きな車が、誠一の住むアパートの前でゆっくりと停まった。あたりはすっかり夜の闇に包まれ、しんと静まりかえっている。澪は助手席から降りてドアを閉めると、開いたパワーウィンドウに手を掛けて運転席の悠人を覗き込む。
「朝まで戻るつもりはないので、師匠は先に帰ってもらえますか」
 それは、誠一に許してもらえなくても簡単に引き下がらないという決意だった。まだどうすればいいか具体的に考えてはいないが、すぐに逃げたり頼ったりせず、自分の力で誠意を伝える努力をしなければならない。それが澪のつけるべきけじめである。
 悠人は小さく頷いて「わかった」と答えた。
 澪は幾分かほっとして表情を緩める。そもそも誠一のもとへ行かせることからして、彼としては認めたくなかっただろうが、それでも澪の意思を最大限に尊重してくれたのだ。どれだけ感謝してもしきれない。
「師匠、ありがとうございます。それとごめんなさい」
「遥はああ言っていたけど、僕はまだ澪を諦めてないよ。彼に振られたら僕のところにおいで。もし澪が望んでくれるのなら、遥がなんと言おうと受け入れるつもりだから」
 悠人は真面目な顔で言う。その思いは嬉しかった。けれど――。
「もう甘えないって決めました」
「……そうだったね」
 絞り出すように答えた彼の、その寂しげな笑みに胸を衝かれる。
 それでも自らの決意を全うするため、澪はぺこりとお辞儀をし、アパートの階段へ向かって駆け出した。

 ピンポーン――。
 震える人差し指でチャイムを押すと、扉の向こうでその音が鳴った。
 何度も訪れているが、今このときほど緊張を感じたことはない。心臓が捻り潰されそうなくらい収縮し、口から飛び出しそうなくらい大きく跳ねる。遠くに聞こえる誠一の返事、急いで近づいてくる足音――ややあって、ガチャリと重い金属音がし、無機質な扉が開いた。
「澪……」
「あ、あの……ごめんなさい!」
 戸惑いの滲んだ彼の表情にドキリとしつつも、澪は大きく勢いをつけて頭を下げた。
「私のために、誠一が刑事を辞めさせられたって聞いて……それと、あの……武蔵とのことごめんなさいっ!! 私、取り返しの付かないことをしたけど、許してもらえるなら、これからも誠一と付き合っていきたい。勝手かもしれないけど、やっぱり誠一が好きなの……」
 深く腰を折ったまま謝罪の言葉を口にする。目眩がしてきたが、それでもひたすら頭を下げ続けた。
「澪、顔を上げて」
 ほとんど感情の窺えない平坦な声。
 澪は痛いくらいに暴れる鼓動を抱えつつ、そろりそろりと顔を上げていく。どんな言葉で非難されたとしても、すべてを拒絶されたとしても、ここから逃げるわけにはいかない。小刻みに瞼を震わせながら、正面の誠一に目を向ける。すると――。
「おかえり、澪」
 ふっと柔らかく微笑まれたかと思うと、澪の体は優しい温もりに包まれた。微かに鼻をくすぐるボディソープの匂いが懐かしい。胸は止めようもなく高鳴っていく。しかし、本当に受け入れてもらえるのだろうか。拭いきれない不安を滲ませながら、おそるおそる広い背中に手をまわす。
「ただいま、誠一……」
 その途端、まるで逃がすまいとするかのように、抱きしめる誠一の腕に力がこもった。
 澪は一気に目頭が熱くなるのを感じた。タートルネックの首もとに顔を埋め、そして、縋りつくように彼のパーカーを握りしめる。くぐもった嗚咽が、冷たい蛍光灯の下で響いた。


…これまでのお話は「東京ラビリンス」でご覧ください。

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