アコギおやじのあこぎな日々

初老の域に達したアコギおやじ。
日々のアコースティックな雑観

たばこの値上げ

2010-04-30 | Weblog
 朝、新聞を見て、万歳した。

 「セブンスター」は440円に、「マイルドセブン」は410円に。どちらも現行300円だから、1本当たりだと「セブンスター」は7円、「マイルドセブン」は5.5円の増。

 今秋からの煙草の値上がりのニュースだ。


 どの新聞にも「大幅値上げ」の見出しが踊っている。


 一面の見出しに喜び、勇んで、他面の関連記事もむさぼり読み始めた。が、経済的な影響や喫煙者の被害者的なコメントなどを取り上げた記事を読み進めていくうち、疑問が膨らみ始めた。

 本当に「大幅」か?


 反射的に大喜びはしてみたものの、真に「大幅」なのか?

 「大幅」と新聞でさえも表現していること自体、まだまだこの世が喫煙者天下であるという証ではないのか?



 煙草の値上げは、確かに待望だった。有害な刺激臭に困っている私のような人間にとっては、大きな前進であることは確か。

 しかし、「もうちょっと高くした方がよかったのではないか」というのが、新聞むさぼり読み後の実感だ。

         ◇

 「数字の重み」については、以前にもこのブログで述べた。

 「3200」。世界中のトラの生息数であり、一方では、中国河南省の1日のヒトの出生数。同じ「3200」でも前者は絶滅危惧種の生息数、後者は異常繁殖種の一大繁殖地での出生数。同じ「3200」でも前者はきわめて小さな数字、後者はきわめて大きな数字ととらえられる。

 数字は、それを取り巻く環境や、それに対する者の価値観によって、大きかったり、小さかったりする。同じ数字でも、その意義は万人にとって同じではない。


 たばこの値上げは、喫煙者には「大幅」だが、非喫煙者には、むしろ「小幅」なのだ。



        ◇

 「喫煙」について考えてみる。

 「嗜好品」という向きもあるが、有害物質を撒き散らしているという点では、個人的なものであるべき「嗜好」の範囲を超えている。

 「おいしい」という向きもあるが、初めて吸ったときには全員がまずいと認識する。味覚が正常ならば、おいしいものではない(ただし、これは科学的実証によるものではなく、かつて喫煙者だった私自身の経験的実証によるのだが)。


 吸い続けている人間も、しばしば「こんなまずいものをどうして吸い続けるようになってしまったのか」と後悔しながら、それでもやめられない(これも私の経験的実証による)。

 「おいしい」と感じていたのは、実はニコチンへの身体的な渇望、及び、喫煙習慣を中断したことによる精神的な渇望の「緩和」でしかなかったのではないか、と今では思っている。

 端的にいえば、依存症。


 繰り返しになるが、たばこは個人的な「嗜好」ではない。どうしても嗜好品として考えたいならば、最低限の条件として、煙を出さないことだ。

 つまり、吸ってもいいが、一切吐いてはいけない。


       ◇

 以上のことから、たばこの値上げについて考えると、

 ①喫煙者の加害行為による責任(犯意の有無によらず、有害物質を撒き散らしているという加害事実は厳然として存在する)②保健衛生行政の不作為による非喫煙者及び社会への被害―の2点を非喫煙者の視点からだけでなく、客観的かつ総合的に評価してみると、今回の値上げは、どうしても「大幅」とは表現できないのだ。


 だって、一番値上がり幅の大きな「セブンスター」を1日に1箱吸う人だって、一カ月で4200円“しか”支出が増えないのだ。


 民事的な損害賠償としては異常に小額だし、いや、有毒ガスを吐き出すという加害行為からして、喫煙は刑法に触れる(暴行か傷害か)。彼らの加害行為に照らして考えれば、煙草の料金設定においては、「罰金」もしくは「制裁金」という概念を用いてもよいのではないか。

 そういう視点から今回の数字を見れば、喫煙者はこの社会で、まだまだ甘やかされているのではないか? 

         ◇

 値上がりによって、たばこをやめる人が増えることを望んでいる。依存性が強いだけに、経済的な苦痛が依存症を克服できるかどうかは予断を許さないが、ほぼ確信できることもある。やめることができた人は、きっと、今回の値上がりに感謝する。
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