『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
6 雷帝後の動乱のロシア
4 救国の英雄
モスクワの「赤い広場」(十七世紀中頃、美しい広場という意味からでたといわれる)を訪れる人は、ワシリー・ブラジョンヌイ寺院のそばに、ふたりの人物の銅像がそびえ立っているのに気づかれるはずである。
その台座の下には、ロシア語でつぎのような銘がほられている。
「ロシアは、市民ミーニンとポジャールスキー公に、感謝をささげる。」
この像が作られたのは一八一八年夏で、トルストイの『戦争と平和』で有名なナポルオン戦争の興奮が、まださめやらぬ時期であった。
おしよせるフランス軍の馬蹄からモスクワを解放したのが、クツゾフ将軍であったとすれば、それより二百年前、クレムリンにたてこもるポーランド軍を降伏させ、十五年の「動乱」に終止符をううた英雄が、このミーニン(?~一六一六)とポジャールスキー(一五七八~一六四一頃)である。
第二次世界大戦中、ヒトラー・ドイツ軍の猛攻によって、一九四一年、モスクワが危機におちいったとき、スターリンは赤い広場における革命記念日の閲兵式で、クツゾフとならべてこの二人の英雄の名をあげ、前線へおもむく将兵を激励した。
ミーニンは、ボルガ川とオカ川の合流点にある、富裕な商業都市ニジニ・ノブゴロドの肉屋の主人であった。
当時のロシアは、百年戦争中に、ジャンヌ・ダルクが出現する前夜のフランスに似ていた。
ポーランド軍の主力はスモレンスクに待機していたが、その別動隊はモスクワに侵入して、これに放火し、クレムリンなどを占領していたのである。
また、北方からはスエーデン軍が南下してノブゴロドを占領し、スエーデン王子はツァーリの候補者を名のっていた。
一方、元ツァーリのシュイスキー公は、ロシア正教会の総主教とともにポーランド軍の捕虜となっており、他方、大貴族たちは、「渡り鳥」とよばれたように、旗色の有利な陣営をもとめて、右往左往していた。
乱戦のうちに、偽ディミートリー二世もついに殺されたが、それにかわって、第三のディミートリー(シドルカという男)を名のるものが、プスコフに出現していた。
ロシア全土には流言が乱れとび、盗賊が横行した。
「村落は焼かれ、住居は放棄され、しかもそこには、まだとり片づけられない死骸がごろごろしていた」と、ロシアを訪れた一外国人は、目をおおうような荒廃のもようを語っている。
飢饉もつづき、ついに人肉を食う地方さえあらわれた。
一六一一年夏、モスクワ国家のこのような混乱のなかで、ようやく救国の叫びが下からおこるようになった。
その立役者として登場するのが、「生まれはいやしいが知恵は人いちばいすぐれている」ミーユンであった。
当時のニジニ・ノブゴロド市は、山手区と下町区にわかれ、ミーユンは商人や職人の密集している下町区の区長に選ばれた。
彼が義勇軍の結成をロシア全土によびかけるきっかけとなったのは、この年の八月、トロイツァ修道院からこの都市にもたらされた一枚の檄文(げきぶん)であった。
これが広場に集まった群衆のまえで朗読されると、ミーニンは立ちあがって、有名な演説をおこなった。
「モスクワ帝国を救おうと願うならば、土地や財産を惜しんではならない。
われらはそのために家を売り、妻子を質におくことも辞さない……。
われらはギリシア正教のために戦うものを探しもとめ、その旗のもとに進軍しよう。
モスクワを解放する日まで……。」
彼はまず率先して私財の三分の一を軍資金に投じ、多くの市民がこれにならった。
また、これを拒むものに強制手段もとったという。
このミーユンの呼びかけにボルガ流域の諸都市がこたえ、ニジニ・ノブゴロドには豊富な軍資金が流入し、また、動乱のために失業し、封地をも失っていた各地の士族層も、俸給をもとめてぞくぞくとここに参集した。
その総司令官としてミーニンが見つけだしてきた人物が、ポジャールスキー公である。
彼は家柄といい、人物といい、当時のロシアでは二流以下で、その前歴も地方長官にすぎず、政治的才能も、卓抜した軍事的能力にも欠けていたが、忠誠一途の武人かたぎを失わない憂国の士であった。
「我々は神の御恵みを語らい、モスクワ国家のためにすべて心を一にして立ち、神がツァーリに与えたもうた国土をとりもどさんとす。
われら全身全霊を神にささげ、兵士のすべてに給料を惜しみなく支払うことを誓う……。」
これは、ポジャールスキー公の名で各地に呼びかけた回状の一節である。ここに義勇軍(第二次)が結成され、一六一二年春に行動を開始し、ヤロスラベリに四ヵ月滞在したのち、夏のおわりにモスクワにむけて進軍する。
その主力は士族、市民、銃士、コサック、農民の混成部隊で、よく装備されていたが、戦闘能力はそれほどでもなく、四十名あまりの指揮官もほとんどが無能であったらしい。
したがってこの年の十月、モスクワを解放してクレムリンのポーランド軍を降伏させるのに功績があったのは、この義勇軍よりも、むしろ、かって偽ディミートリーの傘下にあり、そのころモスクワ周辺にたむろしていた、ツルベツコイ公の指揮するコサックの軍団であったという説もある。