『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
13 内陸の王者
5 接吻のあと
ティムールが建てた幾つかの建造物は、彼の輝かしい遠征を記念するためのものであった。
たとえば、シャフリ・サブズ(キシュ)のアク・サライ宮殿は、ティムールがホレズム(アラル海南方地域)から連れかえった捕虜によって建てられた(一三八〇)。
また、ビビ・ハヌムの名によって知られるサマルカンドの大寺院は、インド遠征から凱旋した年(一三九九)に、起工されたものである。
とくにビビ・ハヌム寺院の壮大な建物は、ティムールの建築事業の典型的な一例とされている。
これについては、つぎのようなはなしもあった。
ティムールの若い美妃、ピビ皇后(ハヌム)は、ティムールがインドから凱旋するのを祝って、国内でいちばん腕ききの建築家に命じ一寺院を建てさせた。
しかしティムールの帰国がまぢかにせまったのに、寺院は完成しそうにない。
ビピ皇后は気が気でなかった。
ところが、妃の美しさにすっかり魅せられた建築家は、妃に対し、ただ一度、自分に接吻してくれるならば、ティムールの帰るまでに完成させようと約束した。
そこで妃は頬に枕をおいて、その上から接吻をゆるした。
しかし、その接吻があまりにもはげしかったので、妃の頬に、枕をとおしてはっきりキスマークがのこった。
凱旋したティムールはこれを見てたいヘん怒り、すぐに建築家を捕え、処刑しようとした。
すると、一瞬、建築家に翼がはえて、自分の建てたミナレ(尖塔)の上に飛び立ったと見るや、南のかなたをさして飛翔し去った。
もちろん、これは一つの伝説にすぎない。
クラビボの聞いたところでは、この寺院はティムールが、その年老いた第一皇后の母のために建立したものだという。
しかし、この寺院がきわめて短時間のうちに建てられたことは確かである。
これは芸術的には高く評価されてはいるが、建築工学からみて非常に無理をおかしていた。
そのため、ティルームの在世中においてさえ、天井から石や煉瓦が落ち始め、礼拝者にとって危険であったといわれている。
ある史書はしるしている。
「この寺院の建築にあたって、アゼルバイジャン、ペルシア、インド、そのほかの国々から集められた二百人の石切工がはたらき、五百人が山で石を切り出し、これを市内に運ぶ仕事に従事した。
材料を集積するためにインドから五頭の象がつれてこられ、使役された。
牛のひく車のほかに、多くの人が石をコロにのせて運搬した。
ビビ・ハヌム大寺院の高い天井と、すばらしい石畳とは、こうして切り出された板石でおおわれたのである。」
このようにして建てられた大寺院は、横が一〇〇メートル、縦が一四〇メートルという規模をもつ。
まさしく中央アジアで最大、イスラム世界でも指折りのものであった。
今日では復旧するすべもないほどにこわれはてているが、中央アジアの強い日ざしに半壊の無残な姿をさらす大アーチやミナレ(尖塔)、山なす瓦礫(がれき)、散乱する煉瓦片、巨大な石のコーラン台などに、ありし日のティムール帝国の繁栄のさまをしのぶのは、不可能ではない。
そしてこれはまた、ティムールの死後半世紀たらずで、むなしく、崩れ去った大帝国の運命を、象徴しているかのようである。
13 内陸の王者
5 接吻のあと
ティムールが建てた幾つかの建造物は、彼の輝かしい遠征を記念するためのものであった。
たとえば、シャフリ・サブズ(キシュ)のアク・サライ宮殿は、ティムールがホレズム(アラル海南方地域)から連れかえった捕虜によって建てられた(一三八〇)。
また、ビビ・ハヌムの名によって知られるサマルカンドの大寺院は、インド遠征から凱旋した年(一三九九)に、起工されたものである。
とくにビビ・ハヌム寺院の壮大な建物は、ティムールの建築事業の典型的な一例とされている。
これについては、つぎのようなはなしもあった。
ティムールの若い美妃、ピビ皇后(ハヌム)は、ティムールがインドから凱旋するのを祝って、国内でいちばん腕ききの建築家に命じ一寺院を建てさせた。
しかしティムールの帰国がまぢかにせまったのに、寺院は完成しそうにない。
ビピ皇后は気が気でなかった。
ところが、妃の美しさにすっかり魅せられた建築家は、妃に対し、ただ一度、自分に接吻してくれるならば、ティムールの帰るまでに完成させようと約束した。
そこで妃は頬に枕をおいて、その上から接吻をゆるした。
しかし、その接吻があまりにもはげしかったので、妃の頬に、枕をとおしてはっきりキスマークがのこった。
凱旋したティムールはこれを見てたいヘん怒り、すぐに建築家を捕え、処刑しようとした。
すると、一瞬、建築家に翼がはえて、自分の建てたミナレ(尖塔)の上に飛び立ったと見るや、南のかなたをさして飛翔し去った。
もちろん、これは一つの伝説にすぎない。
クラビボの聞いたところでは、この寺院はティムールが、その年老いた第一皇后の母のために建立したものだという。
しかし、この寺院がきわめて短時間のうちに建てられたことは確かである。
これは芸術的には高く評価されてはいるが、建築工学からみて非常に無理をおかしていた。
そのため、ティルームの在世中においてさえ、天井から石や煉瓦が落ち始め、礼拝者にとって危険であったといわれている。
ある史書はしるしている。
「この寺院の建築にあたって、アゼルバイジャン、ペルシア、インド、そのほかの国々から集められた二百人の石切工がはたらき、五百人が山で石を切り出し、これを市内に運ぶ仕事に従事した。
材料を集積するためにインドから五頭の象がつれてこられ、使役された。
牛のひく車のほかに、多くの人が石をコロにのせて運搬した。
ビビ・ハヌム大寺院の高い天井と、すばらしい石畳とは、こうして切り出された板石でおおわれたのである。」
このようにして建てられた大寺院は、横が一〇〇メートル、縦が一四〇メートルという規模をもつ。
まさしく中央アジアで最大、イスラム世界でも指折りのものであった。
今日では復旧するすべもないほどにこわれはてているが、中央アジアの強い日ざしに半壊の無残な姿をさらす大アーチやミナレ(尖塔)、山なす瓦礫(がれき)、散乱する煉瓦片、巨大な石のコーラン台などに、ありし日のティムール帝国の繁栄のさまをしのぶのは、不可能ではない。
そしてこれはまた、ティムールの死後半世紀たらずで、むなしく、崩れ去った大帝国の運命を、象徴しているかのようである。