『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
8 雲岡と龍門
4 北斉(ほくせい)と北周
洛陽に遷都してからのちも、北方の陰山山脈のなかには、もとの首都や帝陵の警備のために、北鎮(ちん)とよばれる六つの軍鎮があった。
その指揮官は鮮卑族であるが、兵士たちのなかには漢人も徴発されている。
しかし遷都ののちは、ここの士気がおとろえ、そのうえ漢化に熱中する洛陽の政府に対して、不満もたかまってきた。
その爆発が孝明帝の正光四年(五二三)の反乱である。
もはや洛陽の政府に、反乱を鎮定する力はない。反乱は北鎮ぜんたいにひろがった。
やがて南下を開始したが、そのころ洛陽の朝廷では内紛がつづき、孝明帝は暗殺される。
ようやく南朝(斉)の皇族の力をかりて解決しようとする醜態ぶりであった。
このような情勢のなかで、鮮卑族とは別部の出身である爾朱栄(じしゅえい)が登場した。
その天性は好闘の人といわれ、太原(山西省)を根拠地として、大きな勢力をもつに至る。
かれは孝明帝が暗殺されると、首都の秩序を回復するためと称して洛陽にすすみ、宮中で大虐殺をおこなって孝荘帝を擁立した。
これ以後は爾朱栄によって一時の秩序がたもたれるが、みずからは首都にとどまらず、一族のものをのこして太原にかえる。
しかも孝荘帝は爾朱栄に好感をもたず、かれを首都によびよせて殺してしまった。
爾朱氏一族はおこって兵をあげ、またもや大虐殺をおこなって、孝荘帝を殺した。
この機会に台頭(たいとう)したのが、爾朱栄の部下であった高歓(こうかん)である。
高歓は北鎮より南下した人たちをひきいて、河北に進出し、漢人の名門で声望のたかい高乾(こうけん)兄弟とむすび、ついに洛陽を征服した。
かくて鄴(ぎょう=河南省)を中心に覇権を確立し、孝武帝を擁立する(五三三)。
高歓は、じぶんの出身がいやしいのを恥じて、高乾の家の一族ということにしてもらった。
血なまぐさいなかにあっても、やはり家柄をつくろわねばならない風潮であった。
孝武帝も、高歓の勢力のもとにあることをきらった。
そのころ陜西(せんせい)から甘粛(かんしゅく)の方面に、もと爾朱栄の部下であり、北鎮より南下してきた宇文泰(うぶんたい)が台頭してきた。
そこで孝武帝は宇文泰をたよって長安にのがれた。
そのため高歓は孝静帝を擁立し、首都も洛陽から鄭にうつした。
ここに北魏は、高歓のもとの東魏と、宇文泰のもとの西魏とに二分される(五三四)。
そののち、高歓の子の高洋は東魏のゆずりを受けて北斉をたて(五五〇)、また宇文泰の子の宇文覚は西魏のゆずりを受けて北周をたてた(五五七)。
中国の北部は、北斉と北周という、東西対立の形勢となった。
北斉は中国北部の大平原にあって、その面積と経済力とにおいては北周にまさったが、北周は関中(陜西、渭水の盆地)の要害に位置し、北魏歴代の名門もおおく北周につかえて、ぬきがたい勢力があった。
北周は、その王朝名の示すように、中国古代の周を讃美し、その官制は、周の制度を理想化して書かれた『周礼(しゅらい)』にもとづいて、儒家の理想の官制をそのまま実施しようとした。
孝文帝の漢化政策も、ここにきわまったといえよう。
また北周の兵制は、のちの唐代における府兵制の起源となった。
鮮卑王朝のもとにあっては、軍隊の幹部や兵士の主力は鮮卑族によって構成されている。
しかし北周では鮮卑族がすくなく、兵士を鮮卑族だけでまかなえない。
漢人からも兵士を徴発する必要がおこってきたのである。
府兵制はこのような事情から創(はじ)められ、各地から徴集した兵士を府兵といった。
これを統率する柱国大将軍のなかには、李虎や李弼(ひつ)、また、独孤信(どくこしん)というような人々がいた。
李虎の孫が、唐朝をおこした李淵(りえん)である。李弼の曾孫は李密であって、隋末の反乱期における最大の英雄であった。
また独孤信の娘のひとりは、隋朝をおこした楊堅(ようけん)の妻になる。
もうひとりの娘は李淵を生んだ。
楊堅の父にあたる楊忠は、これらの柱国大将軍の下に属して、やはり大将軍となっている。
このように、北周の兵制における最高の幹部のなかから、隋唐の王朝がうまれたわけであった。
8 雲岡と龍門
4 北斉(ほくせい)と北周
洛陽に遷都してからのちも、北方の陰山山脈のなかには、もとの首都や帝陵の警備のために、北鎮(ちん)とよばれる六つの軍鎮があった。
その指揮官は鮮卑族であるが、兵士たちのなかには漢人も徴発されている。
しかし遷都ののちは、ここの士気がおとろえ、そのうえ漢化に熱中する洛陽の政府に対して、不満もたかまってきた。
その爆発が孝明帝の正光四年(五二三)の反乱である。
もはや洛陽の政府に、反乱を鎮定する力はない。反乱は北鎮ぜんたいにひろがった。
やがて南下を開始したが、そのころ洛陽の朝廷では内紛がつづき、孝明帝は暗殺される。
ようやく南朝(斉)の皇族の力をかりて解決しようとする醜態ぶりであった。
このような情勢のなかで、鮮卑族とは別部の出身である爾朱栄(じしゅえい)が登場した。
その天性は好闘の人といわれ、太原(山西省)を根拠地として、大きな勢力をもつに至る。
かれは孝明帝が暗殺されると、首都の秩序を回復するためと称して洛陽にすすみ、宮中で大虐殺をおこなって孝荘帝を擁立した。
これ以後は爾朱栄によって一時の秩序がたもたれるが、みずからは首都にとどまらず、一族のものをのこして太原にかえる。
しかも孝荘帝は爾朱栄に好感をもたず、かれを首都によびよせて殺してしまった。
爾朱氏一族はおこって兵をあげ、またもや大虐殺をおこなって、孝荘帝を殺した。
この機会に台頭(たいとう)したのが、爾朱栄の部下であった高歓(こうかん)である。
高歓は北鎮より南下した人たちをひきいて、河北に進出し、漢人の名門で声望のたかい高乾(こうけん)兄弟とむすび、ついに洛陽を征服した。
かくて鄴(ぎょう=河南省)を中心に覇権を確立し、孝武帝を擁立する(五三三)。
高歓は、じぶんの出身がいやしいのを恥じて、高乾の家の一族ということにしてもらった。
血なまぐさいなかにあっても、やはり家柄をつくろわねばならない風潮であった。
孝武帝も、高歓の勢力のもとにあることをきらった。
そのころ陜西(せんせい)から甘粛(かんしゅく)の方面に、もと爾朱栄の部下であり、北鎮より南下してきた宇文泰(うぶんたい)が台頭してきた。
そこで孝武帝は宇文泰をたよって長安にのがれた。
そのため高歓は孝静帝を擁立し、首都も洛陽から鄭にうつした。
ここに北魏は、高歓のもとの東魏と、宇文泰のもとの西魏とに二分される(五三四)。
そののち、高歓の子の高洋は東魏のゆずりを受けて北斉をたて(五五〇)、また宇文泰の子の宇文覚は西魏のゆずりを受けて北周をたてた(五五七)。
中国の北部は、北斉と北周という、東西対立の形勢となった。
北斉は中国北部の大平原にあって、その面積と経済力とにおいては北周にまさったが、北周は関中(陜西、渭水の盆地)の要害に位置し、北魏歴代の名門もおおく北周につかえて、ぬきがたい勢力があった。
北周は、その王朝名の示すように、中国古代の周を讃美し、その官制は、周の制度を理想化して書かれた『周礼(しゅらい)』にもとづいて、儒家の理想の官制をそのまま実施しようとした。
孝文帝の漢化政策も、ここにきわまったといえよう。
また北周の兵制は、のちの唐代における府兵制の起源となった。
鮮卑王朝のもとにあっては、軍隊の幹部や兵士の主力は鮮卑族によって構成されている。
しかし北周では鮮卑族がすくなく、兵士を鮮卑族だけでまかなえない。
漢人からも兵士を徴発する必要がおこってきたのである。
府兵制はこのような事情から創(はじ)められ、各地から徴集した兵士を府兵といった。
これを統率する柱国大将軍のなかには、李虎や李弼(ひつ)、また、独孤信(どくこしん)というような人々がいた。
李虎の孫が、唐朝をおこした李淵(りえん)である。李弼の曾孫は李密であって、隋末の反乱期における最大の英雄であった。
また独孤信の娘のひとりは、隋朝をおこした楊堅(ようけん)の妻になる。
もうひとりの娘は李淵を生んだ。
楊堅の父にあたる楊忠は、これらの柱国大将軍の下に属して、やはり大将軍となっている。
このように、北周の兵制における最高の幹部のなかから、隋唐の王朝がうまれたわけであった。