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スカプラリオは戦時下でも役に立つのか?

2022-03-29 02:05:27 | 信心
 伝統的な、もしくは保守的なカトリック信者さんで、スカプラリオを常時、身につけている方は多いと思います。私も身につけています。これは「この衣を身につけて死ぬ者は、地獄の火を免れる」という13世紀以来のカトリックの伝統的な信心です。もっと正確に言うならば、これをつけて亡くなった方は、償いがない罪が多少あっても、臨終で回心の恵みに与れる、というマリア様の約束があるというものです。

 ところで、これからの時代、これは役に立つのでしょうか。このような失礼な考察をしてしまって、申し訳がないのですが、信仰的に微妙な問題で推論するのも、時には大切です。安全ならば確信が持てますし、危険とわかれば対策が立てられます。

 前大戦における二つの例を紹介したいと思います。戦争が想定されるなら、戦争の例が参考になるでしょう。


特攻機に体当たりされるが生還した例

 第二次世界大戦中にカルメルのスカプラリオを着用していたことによって奇跡的に助けられた人物として、ロードアイランド島のシスト・モスコがいます。彼は硫黄島と沖縄で、日本艦隊と戦いました。モスコはカトリック教会の教えの中で育ち、常にカルメル会のスカプラリオを身につけていました。

 彼の船にはダイナマイトが搭載されていましたが、その時、自爆するための特攻機が船のデッキを襲いました。爆風はボルトで閉じられた鉄鋼のドアをも開きました。他の人は死亡、もしくは押し潰されて重傷を負いましたが、モスコだけは無傷でした。

「私ただ一人、無傷であったのは、スカプラリオを着用していたからだと思います。」


スペイン内戦における例

 1930年代のスペイン内戦において、七人の共産党員がその犯した罪の為に死刑を宣告されました。カルメル修道会の一人の神父がその七人に死の準備をさせようとしましたが、彼らは聞いてくれません。最後の手段として、神父はタバコや食べ物やワインを持って行き、宗教について語らないことを約束しました。短い時間で彼らは完全に打ち解け、そのおり、司祭は一つの小さな頼みごとをしました。

「皆さんの一人一人にスカプラリオをまとわせることを許して下さい」

 六人が同意し、一人は拒否しました。そして、スカプラリオを身につけた全員は、すぐに告解に進みました。拒否した七番目の者は、ただ、他の者達を喜ばせるためだけに着用し、それ以上は気に留めませんでした。朝がきて処刑の時間が近づき、七番目の者はスカプラリオを着用はしても、神の敵に死を賭ける決心を宣言しました。

 最後の号令が伝えられ、銃殺隊は仕事を行いました。七つの遺体は散らばりました。

 驚いたことに、スカプラリオは遺体の約50の肉片に見つかりました。六人の男はマリア様の霊的肩衣と共に死に、一人の男はそれなしに死にました。



 この二つの例は、とても対照的ですが、ここで、この信心の条件事項をおさらいします。

 このスカプラリオの信心が有効になるには、基本的にこの衣を常時、身につけていなければいけません。しかし、もっと優先的な条件があります。それは、「これを身につけて死ぬこと」です。たとえ、普段、これをつけていても、死ぬときに何らかの理由で、衣が脱げてしまえば、信心の約束の対象外になってしまうのです。

 では、命題に戻ります。これからの戦争で、この信心は有効なのでしょうか。秋田の聖母のメッセージからして、今後、もし戦争があるとすれば、高確率でそれは核戦争を伴いそうですが・・・。
 
 ここまでくればお察しかもしれません。かつて、長崎に原爆投下があった時、スカプラリオを付けていた方々は、どうなったのでしょうか。当時は、まだ伝統信仰が栄えていた頃で、スカプラリオはカトリック信者にとって一般的なものであったでしょう。しかし、とても、残念なのですが、スカプラリオの結果、どうしたという話を私は聞いたことがありません。長崎県や広島県の当時のカトリック信者の話を多少は読んだり、体験された神父様(当時はまだ少年)と何度かお話したことはあるのですが(その神父様にスカプラリオの話はしていません)、今のところ、まだスカプラリオの結果、助かった等の話は聞きません。身につけて亡くなった方はいるかもしれませんし、おそらく、いると思います。でも、それもまだ話に聞いたことはないのです。

 では、これからの戦争では・・・。

 もし、この戦いが大きな戦争になり、核戦争を伴うものになり、皆さんも巻き込まれた場合は、ですが、皆さんのカトリック信仰が、当時の長崎の信者と同程度であるならば、おそらく長崎の信者と似たような最期になるのでしょう。原爆下の長崎にいたけれども、スカプラリオを身につけて救われた、という聞いたことのある方は、あまりいないのではないかと思います。

 では、スカプラリオを身につけることに、意味はないのでしょうか。いえ、意味はあると思います。これからの災いとて、原爆だけではありません。それに、長崎でも、この衣によって物理的に守られたという方さえ、もしかしたらいたかもしれず、身につけて亡くなった方は、おそらくそれなりにいたのでしょう。剥ぎ取られた方のほうがきっと多かったでしょうが。

 ただ、このような考えをさしはさむのは僭越至極なのですが、原爆下でも、その強烈な熱線や熱風、爆風でも、これを剥ぎ取られずに済むような方は、スカプラリオなしでも、おそらく救われるでしょう。それほどの信仰を持った方でしょう。

 スカプラリオの価値を否定したいわけではありません。そうではなくて、それに依存しすぎる信仰を私は諫めています。スカプラリオに期待をかけるのは、とてもいいことですが、それは防弾チョッキのようなものです。あくまで、信仰の戦いのアイテムの一つです。防弾チョッキを身につけていても、戦死することは普通にあるように、スカプラリオに依存しすぎて、基礎的なことがおろそかになる信心も、特にこれからの時代は危ういと言わなければいけません。

 勿論、スカプラリオは、身につけましょう。私もこれからも身につけます。でも、忘れてはいけないことは、それはマリア様の防弾チョッキです。防弾チョッキを身につければ必ず戦死を防げるわけではないように、スカプラリオがあっても必ず救われるとは限りません。その第一条件は「それを身につけて死ぬこと」であって、瀕死で身の自由が利かない状態で、それを身につけていられるかなど、わからないのです。

 これは一つの仮説ですが、おそらく、スカプラリオの約束にふさわしい生き方をした人だけが、死の瞬間にもスカプラリオを身につけていられるのではないでしょうか。そのくらいに思って、それを身につけつつも、主と従を間違えないように、信仰生活を送りましょう。 


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