マキシム・プイサン神父「地獄(第二の死と云われる永遠の滅び)」『煉獄と地獄』岸和田天主会教会、1925年
27.地獄の罰はその罪に相似する
又、聖トマ博士の説明によれば、罪人は地獄に於てその嘆きは肉体的に非ず、霊性的であり、その理由は世の終りに当って霊魂と肉体とは永遠の償罪を得るために、再び合併して、今の世界に於て現在我々が持っているのと同じ肉体を所有し、その肉体は総ての感覚と本質を備え、真の人体でありながらある種の行為作用をする事が出来ぬのである。
したがって、生理的分秘作用によっておこる涙は無く、世の終り復活の後には、我々の不滅なる体を養う物質的栄養はいらぬが故に地獄に於ける痛嘆の涙は霊的涙であろう。
(永遠に衰えぬこの不滅の火)……罪に応じて活動する火が、復活した体を焼くまでに、すでに罪の重さに応じて、霊魂を焼き苦しめるのである。
五感は各々、異なる苦しみを受け、長い年月の間、こうまん、邪淫、貧慾等のために満足を受けたその日は永遠に涙を流さねばならず、罪となる者を見たり、姦通と不潔白とに満された目は、ひどい暗黒にあって、永遠に憎むべき悪魔等の外に何も見る事も出来ず、虚偽、ざんげん、その他、狸せつなる話等、甘んじて聞いた耳は、絶えず失望、呪い、侮辱な言葉を聞かねばならぬ。
この口、舌、唇は、肉体を喜ばせた卑劣な話のために用い、なお何時も饗食の罪を犯したため、限り無く耐えられる程の渇きを凌がねばならず、この手をもって悪しき触りをしたり、他人の害になる書物を書きそれを公にしたり、多くの罪となる行いをしたため、火の如くになる。
鼻をもって卑隈な香を楽しんだために、硫黄の絶えがたき嗅味を忍ばねばならぬ.
聖ボナベンツラ博士の言葉によれば「もし地獄に落ちた」人の罪人の体をこの地球上に置くとすれば、人類はその嗅味のために皆死んでしまう」又脳は、数え切れぬ罪を案出したところである故、「番恐ろしい相像に勝たさるるのである。
心は悪意の元であって、永遠に消え去る沢山の悪い情愛を起したために、別の苦しみを受け、始終肉慾に従がって暮した為に、肉体の全てが火に投げ入れられた鉄と同様になる。誰が/数分間、指の先をローソクの上に置く事が出来ようか。
しかるに、永久永遠の火に罪の薪を負いて落ちゆく者こそ愚なる者と云わねばならぬ。我らは苦しみに出あう時、他人の難儀を見て、自他を比較し、他より幾分かは幸いなることを慰めにするが、地獄に於てはそれと全く異って、悪魔と罪人との苦しみを見て、わずかな慰めをも受ける所ではない。
なおさら、失望と悪、又、肉体と精神との苦しみが重くなるばかりである。無宗教、冒漬、淫乱、偽善に凝固まった罪人の受けねばならぬ後の世の種々の苦しみについて、天啓と公教会の教とによって、すでに述べた事の外、この上に云うべき言葉を知らぬが、この最も恐るべき事の他に、又一層恐るべきは、彼らの苦しみは限りがないのであるから、永遠に受けねばならぬと云うことである。