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9-2 『鉄雲蔵亀』の出版

2017-06-28 20:10:44 | 世界史
『文明のあけぼの 世界の歴史1』社会思想社、1974年

9 殷王朝の都を求めて――殷墟の発掘史――

2 『鉄雲蔵亀』の出版

 このとき劉鉄雲は上海へ旅行していた。しかし北京の変をきくと、さっそく立ちもどった。
 そして私財を投じ、難民の救済に力をつくした。
 聞けば、政府米をおさめた倉庫をロシア軍がおさえているという。
 ロシア人は米をたべない。そこで劉は、その政府米をロシア軍から安く買い入れ、難民に売った。
 同胞をすくうための義挙であった。これが後に、彼の命とりになろうとは、もとより知るよしもない。
 不幸な戦乱も終わると、劉鉄雲は恩師なきあと、亀甲獣骨をあつめることに熱中した。
 そうして一九〇二年には、王懿栄のあつめた甲骨干余片を、その遺族からことごとく買いとった。
 いまや劉が蔵する甲骨は、五千片をこえた。
 つぎの仕事は、それらの甲骨をたんねんに整理して、拓本をつくってゆくことである。
 そうした劉のもとを、たまたまおとずれた日本人があった(一九〇二年十一月十日)。
 大阪朝日の記者で、中国文化に造詣のふかかった内藤湖南(虎次郎)である。
 内藤は鉄雲が、へんなものを机の上にならべて、拓本をつくっているのを見た。
 亀の甲だということであった。ここで甲骨文字がはじめて日本人の目にふれたわけである。

 翌一九〇三年、劉鉄雲は、その所蔵にかかる亀甲獣骨のなかから、文字の多く刻まれているもの千五十八片を選び、その拓本を印行した。
 これが『鉄雲蔵亀』である。甲骨文字が世上に公表された最初の出版であった。
 この本において劉は、甲骨文字の解読もこころみているが、もちろんまだ十分なものとはいえない。
 なにしろ、甲骨文字そのものが発見されてから四年しかたっていないのである。
 ひとたび『鉄雲蔵亀』が刊行されると、甲骨文字はにわかに世の脚光をあびた。
 小屯の出土現場では、農民たちが「竜骨」を見つけだして、ひともうけしようと、あらそって発掘に精をだした。
 骨董商たちも、つぎからつぎへと小屯にのりこんだ。
 やがて外国人の宣教師たちまでが、甲骨に目をつけて買い求めるようになる。
 悪がしこい商人は、にせものをつくって売りつけた。
 ふつうの甲骨に、しかるべき文字を刻みこんで、高く売りつけたのであった。しかし、そうしたブームのなかで、しずかに甲骨文字そのものの研究にうちこむ学者もあった。
 清末における金文学の大家として有名な孫詒譲(そんいじょう)も、その一人である。
 孫は『鉄雲蔵亀』に接すると、その金文にかんする薀蓄(うんちく)をかたむけて、甲骨文字の解読にとりくんだ。
 そして翌年には早くも『契文(けつぶん)挙例』を書きあげた。
 これは甲骨文字の研究として、最初の業績である。

 孫の着実な研究によって、もはや甲骨文字による記録が、殷の歴史をしらべるうえに欠かせぬものであることが明らかとなった。
 いっぼう劉鉄雲は『鉄雲蔵亀』の刊行をなしとげると、つぎには小説の執筆にとりかかっている。
 それも、ふつうの小説ではない。すでに劉は清朝の役人に取りたてられていたが、そこで知った官界は、にごりきったものであった。
 おまけに役人どもは、上下を問わず、事なかれ主義に終始している。これでは国家はどうなることであろう。
 といっても鉄雲は、そのころ動きはじめた革命運動には賛成できない。
 孫文のような男は、民衆を煽動して、金をまきあげるようなものに思われた。
 それやこれやを考えると、だまってはいられない。そうして書きはじめたのが、そのころの世相を皮肉った小説『老残遊記』であった。
 はじめは雑誌に連載されたが、一九〇六年には単行本となって出版された。
 しかし、このような劉鉄雲の生きかたは、敵をつくった。
 一九〇八年、さきに義和団の乱のとき、彼のとった行動が告発された。
 そのため、夢にも思わなかった政府米私売の罪状のもとに、新疆省(東トルキスタン)に流されてしまったのである。
 その翌年には、流刑地で中風にかかり、そのまま生涯をおわった。五十三歳であった。
 王懿栄も、劉鉄雲も、非命にたおれたのである。しかしそのまいた種は、やがてゆたかな実りをみせる。
 鉄雲が死んだ年(一九〇九、明治四二)には、甲骨が日本へもわたり、その実物をもとにして、中国古代史の大家たる林泰輔(東京高等師範学校)が『亀甲牛骨につきて』の論文を発表した。
 ここで林は亀甲牛骨が「殷の王室に属した卜人(占ない師)のつかさどった遺物であろう」と論じている。
 甲骨文字の実体は、しだいに明らかになってきた。
 林の研究をさらにおしすすめたのは羅振玉(らしんぎょく)であった。
 羅(ら)は少年のころから古文物に興味をよせ、長じてからは西洋の近代科学、とくに農業の書物に親しんだ。
 そうしたところから北京において、京師大学堂農科大学(のちの北京大学農学部)の監督に任ぜられた(一九〇九)。
 しかも若いときからの金石文の研究は、いぜんとしてつづいている。
 劉鉄雲とも交際していたし、その『鉄雲蔵亀』には序文を書いた。
 それほどの人だから林の論文を読むと、すっかり感激した。
 これからは自分でも甲骨文字の研究に没頭する。
 そして翌年(一九一〇)には『殷商貞卜(ていぼく)文字攷(こう)』を刊行した。
 商とは、殷人がみずから称した国名であり、貞卜とは、うらないのことである。

 ここで羅は、甲骨文字の出土地が小屯であり、そこは史記にいう「殷虚(墟)」にほかならぬごとを、はじめて指摘した。
 また甲骨文字のなかから多くの殷王の名を発見して、それが確実に殷の王朝の遺物であることを述べている。
 ついで羅振玉は、弟子たちを小屯の殷墟に派遣した。
 これまでの人々は、骨董商があつめてきたものを買っていたのである。
 それだけでは不十分だと考えた羅は、実際に現地で求めようとしたのであった。
 そして甲骨文字ばかりでなく、殷墟から出土した遺物のさまざまなものを入手することができた。
 研究の手は、ここで殷墟にまで達した。

 それが一九一一年の春のことであった。しかるに、その年の十月、中国には革命がおこってしまったのである。
 いわゆる辛亥(しんがい)革命であった。北京は大さわぎとなった。
 革命の波が北京までおよぶようになれば、もはや研究などつづけることはできない。


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