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4-7-2 宗教ブーム

2019-07-30 21:27:10 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年

7 六朝の文化
2 宗教ブーム

 後漢帝国をゆりうごかした黄巾(こうきん)の乱は、太平道(たいへいどう)とよぶ道教教団を中心としておこった。
 そして東晋の末期に、長江デルタ地帯に猛威をふるった孫恩(そんおん)の反乱も、やはり民衆のなかの熱狂的な道教徒によって、ひきおこされたものであった。
 このように道教が、民衆のなかにひろい支持をえたのは、民間の雑多なシャーマニズム的信仰を吸収していたことが一因である。
 その一方では、道教の民衆的な、かつまた反政府的な要素をきりすてて、貴族のこのみにあうようにつくりかえる改革がおこなわれた。
 そのために、老子・荘子の思想をよりどころとし、はたまた仏教の思想まで借用して、教理や儀式がととのえられてゆく。
 かたちをととのえた道教は、貴族のあいだに信者をえただけではない。
 北方では寇謙之(こうけんし)の改革によって、道教は天子のあつい保護をうけた。
 江南でも、茅山(ぼうざん)にすまった梁の陶弘景(とうこうけい)は、国政についても天子から相談をうけ、「山中宰相」の異名をとった。
 道教は、人間を永遠の生――不老不死――にみちびく宗教である。
 したがって、その最終の目的は仙人になることである。
 仙人になるには、まず服薬、食餌(しょくじ)法、呼吸術、錬金(れんきん)術などの実践によって神々のやどりたもう肉体づくりをしなければならない。
 そのうえで体内にやどった神々とであうために、瞑想(めいそう)による精神集中をおこなう。
 さらに進んだ段階になると、道――万物の根源――との神秘的な一致にたっすることが可能になる。
 このような過程のすべてを実践することは、職業的な道士(どうし)ですら、なまやさしいものではない。
 一般の信者にとってはなおさらのことである。
 ただ道教の修業のうち、服薬の習慣は、貴族たちのあいだに大流行をみた。
 かれらは薬をもとめて山野をあるきまわった。それらは薬草であったにちがいないが、魏に何晏(かあん)がでて以来、鉱物質の薬もしきりに服用されている。
 書の大家の王義之(おうぎし)も服用した。
 五種類のミネラルをまぜあわせた五石散(ごせきさん)とよばれるものである。
 五石散は刺激性のつよい薬物であって、これをのむと、アヘンを吸ったときとおなじような幻覚がえられる。
 その効能書(こうのうがき)には、つづけて服用しているうちに鳥のように身軽になり、不老長生がえられるというのだが、ひとつ処方をあやまれば、危険このうえもないしろものであった。
 五石散のためにさんざんなめにあった晋の皇甫謐(こうほひつ)の貴重な体験記は、つぎのように言っている。
 「五石散を服用しはじめたころ、ノイローゼにかかった。
 元気がなくなり、ふさぎこむかと思えば、急におこりっぼくなる。刀をつきたてて自殺しようとしたところを、叔母にひきとめられ、思いとどまったのであった。」
 「僕のいとこは、五石散のために舌がのどのおくまでひっこんでしまった。
 また、はれものができて背中に穴があいたり、首すじがただれたりするものがいる。
 一家のうちから六人の犠牲者をだした例もある。」

 このような危険をもかえりみず、五石散がさかんに服用されたのは、仙人になりたい一心からのためであろう。
 人物を批評するさいに、神仙のような人という形容は、とっておきの賞辞であった。
 仙人は万人のあこがれであったわけである。
 しかしながら、神仙のような人はいるにしても、ほんとうの仙人を見たものはなく、その実在を証明してみせるわけにはゆかない。
 この点がいつも道教のなきどころであった。
 それにくらべると、仏教のおしえである輪廻(りんね)説や報応(ほうおう)説、そしていっさいの煩悩(ぼんのう)から完全に解放された悟りの境地――涅槃(ねはん)――などは、いずれもはじめから感覚にうったえることのできないものであったし、また生死の問題についての仏教の解答は、道教よりいっそう周到でもあった。
 仏教が中国につたえられたのは漢代である。
 しかしそれが中国人にひろくうけいれられるようになるには、東晋時代をまたねばならなかった。
 東晋時代において、当時の大流行であった老荘思想による仏教解釈がさかんになった。
 格義(かくぎ)仏教とよばれるものである。たとえば孫綽(そんしゃく)の『喩道(ゆどう)論』には、仏をつぎのように説明している。
 「あいての性質にしたがって自由自在に教化をおこない、片片にして為さざるなきもの。」
 この「無為(むい)にして為さざるなし」とは、『老子(ろうし)』の文句をそのまま借用したのである。
 また、仏教の菩提(ぼだい)、涅槃などの術語が、道(みち)、無為などの老荘ふうのことばに翻訳された。
 このように仏教が老荘思想にひきよせて解釈されたために、老荘思想の無(む)と仏教の空(くう)とが問題にされ、清談のテーマにもしばしばとりあげられている。
 そのころ、もっともさかんに読まれた仏典(ぶってん)は、空(くう)のおしえを中心に説く『般若経(はんにゃきょう)』であった。
 そしてさらにひとつは『維摩経(ゆいまきょう)』であった。
 後者は、そこに説かれている空の哲学もさることながら、居士(こじ)として仏教を信仰する当時の貴族の、維摩居士(ゆいまこじ)への共感をしめしている。
 だが、西域の流砂(りゅうさ)をわたって、あるいは南海の波濤をこえてやってくる外国僧が、あたらしい仏典をつぎつぎにもたらし、また法顕(ほっけん)のごとく、中国人僧侶による仏典探索の旅がおこなわれだすと、それまでの格義仏教が、仏教の一面的な理解にすぎない、という反省がおこってくる。
 こうして南朝になると、格義仏教にかわって、霊魂の不滅の問題、そしてその霊魂が過去・現在・未来の三世(さんぜ)にわたって輪廻(りんね)し、因果応報(いんがおうほう)の理法によって支配されるという問題が、重要なテーマにとりあげられてくる。
 そして帝王のなかからも、ひとりの熱烈な仏教信者、梁の武帝があらわれた。
 宮城にむかいあって同泰(どうたい)寺とよぶ壮大な伽藍(がらん)を建立した武帝は、しばしばそこに行幸した。
 そしてそこで捨身(しゃしん)をおこなった。捨身とは、仏(ぶつ)、法(ほう)、僧(そう)、三宝の奴(やっこ)となることである。
 仏のしもべとなった天子をうけだすために、臣下たちは一億銭という巨額の金をあつめなければならなかった。
 武帝は、この捨身を三度、四度とくりかえしておこなった。
 また、国家の祭祀(さいし)には、血のしたたる犠牲をもちいるのが中国古来のしきたりである。
 しかるに殺生(せっしょう)をきらう武帝は、おそなえに野菜をもちいることにした。
 日常生活も仏教的戒律(かいりつ)のもとにすごし、中国の天子にはめずらしく、女人をとおざけた。
 上(かみ)、これを、好めば、下(しも)、それにならうの言葉どおり、僧尼の数は建康だけで十余万人、寺院の数は五百の多きにたっしたという。
 「いまにどこもかしこも寺となり、どこの家からも出家者がうまれ、一尺の土地、ひとりの人間も国家の所有ではなくなるであろう。」
 こんなふうに批判するものがあらわれるほどであった。
 梁の武帝は仏教におぽれすぎたために国をほろばしたのだ、とさえいわれる。
 たしかに、中大同(ちゅうだいどう)元年(五四六)、同泰寺は天火によってすべて灰となり、空前の仏教ブームのさなかに侯景の戦乱がおこったのであった。


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