(写真は現代のイギリス国教会)
『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
1 エリザベス朝――四十四年間のイギリスの治世――
4 ピューリタンとカトリック
この「上からの改革」に対して、「下からの改革」の動きもあった。
当時、これを代表したのはピューリタンである。
すでに「メアリー時代の亡命者」たちが、大陸でカルバンその他の教えをうけ、エリザベスの即位後帰国してから、イギリス国教会を批判していた。
彼らはイギリスの宗教改革が十分でないとして、残存しているカトリック教会流の祭式を除去することによって、国教会のピューリフィケーション(浄化)を求めたから、ピューリタン(清教徒)とよばれた。
彼らピューリタンは、はじめはイギリス国教会の主教制度を否定することなく、その枠の中でカトリシズムの残滓(ざんし)を一掃しようとしたが、つぎの段階では主教制度そのものを批判した。
これが長老派で、「主教を殿様あつかいにしてはならない」「すべての司牧は平等でなければならない」として、主教制度にかえて、長老制度を主張した。
この制度によると、教会を統括するものは、福音をのべ聖礼典をつかさどる牧師と教会の行政に当たる長老と会計慈善を主とする執事との三者からなり、いずれも会衆の選定によった。
そして牧師と長老からなる長老会が教会規律の維持に当たったが、長老会は一教会単位から地区、管区をへて、全国単位にまで組織されていた。
しかし、長老派では、教会と国家がはっきり分離しておらず、彼らは長老制度の実現を、君主や議会に期待した。
これに対し、分離派は、イギリス国教会内にいたのでは改革を行なうことはついにできないとして、国教会から分離し、独立の教会を立てようとした。
分離派では、教会は改心した者だけから組織された自発的な団体であり、教会規律の施行は一般会衆に平等であると主張した。
各教会はそれぞれ相互に自主独立であるが、ただ各教会の独立を侵さないかぎりにおいて、教会相互間の協力提携を是(ぜ)とした。
そして教会は国家から完全に分離されていた。
長老派と分離派とのほかにもう一つ独立派とよばれるものがあるが、これは、真理は両派の中道に存するとして、長老派のごとく長老に偏せず、分離派のごとく会衆にかたむかず、長老の権威と会衆の利益との適切な均衡を目ざした。
国教会からの分離という点も、中道を歩み、ある程度国家権力への依存をみとめたのである。
一方、カトリック聖職者は、国王至上法・礼拝統一法に対する宣誓をもとめられたが、高位聖職者は一名をのぞいて全部がこれを拒否したため、聖職から追放された。
しかし下級聖職者はカトリック側のいわゆる「総崩れ」で、大部分が女王の方針に完全にしたがった。
このことは平信徒にも大きい影響をあたえ、彼らもまたエリザベスの宗教改革をうけいれたのである。
こうして、今後のカトリシズムの問題はイギリスにおける少数派の問題となったが、それにもかかわらず、この問題は重大であった。
第一に、カトリック教徒は封建勢力とむすびつき、政治上の発言権が大きかった。
第二に南部、東部、中部が新教化したのに対し、北部には、カトリシズムが根づよく残っていた。
第三にカトリック教徒は国際的関係をもち、その背後には、ローマのカトリック教会やフランス王、スペイン王などが控(ひか)えていた。