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9-5-1 ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰

2024-06-09 04:44:27 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
5 ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰
1 愛のかたみ

 ベルサイユは、ルイ十四世の情事と深い関係をもっている。
 ルイはすでに一六六〇年スペインからマリー・テレーズを王妃にむかえ、政略結婚とは思えないほど、まともな結婚生活をおくっていたが、王妃以外の女性に心をうごかさなかったわけではない。
 一六六一年、二十二歳の王に見そめられたルイーズ・ド・ラ・バリエール(一六四四~一七一○)は十七歳、田舎貴族の娘ながら、いちど聞くと忘れがたい低く甘い声や、宮廷の脂粉の香になじまぬ新鮮さをもっていた。
 「草むらに咲いたかわいいすみれ」のような風情には、なんともいえぬ魅力があった。
 ルイはこのルイーズをつれた狩りの道すがら、ベルサイユに心をひかれてしまった。
 パリの南西およそ十一キロにあるこの森には、まえの国王ルイ十三世が、狩リの休息のためにつくった小さな館がある。
 そこで憩いながら、ルイ十四世は恋情に酔った眼をもって、木々を、池を、やわらかい日ざしを眺めた。ベルサイユは王にとって、ルイーズによせる愛情と分かちがたいものとなった。
 二人とそのお伴が宿るには小さすぎる館を大きくすること、それはまた二人の幸福を永続させるしるしともなるであろう。
 しかし一つの愛ははかなかった。
 ウブで清純なルイーズは、王の寵妾として公にふるまうことには適していなかった。   

 なんということもなく、思わずもうかんでくる恥じらいがちな彼女の涙は、かっては王の心をとろかしたが、いまではかえってハナにつくようになってきた。
 ルイーズに対する王の愛情は数年にしてうすらぎはじめ、一六七四年をもって終わる。
 一方、ベルサイユに対する愛着は年とともにつよまった。
 ルイ十四世は前述のフロンドの乱以来、パリがきらいになっていたし、王母の死去(一六六六)ののちは、それがおこったパリの宮殿はなにかにつけて王の心を悲しませた。
 また大王として、母の威光を国の内外に輝かすために、壮麗な宮殿に君臨する必要があった。
 当時の財務総監コルベール(一六一九~八三)はパリを愛し、王宮を中心としてその美化をつづけたく、またせっかく増大したフランスの富が浪費されることはおもしろくなかった。この富こそ彼の政策によったものであるから。
 国家の強弱は所有する銀の量によるとは、彼の信念であったといわれる。
 コルベールを登用したのは、王の幼少時代に事実上の政権をにぎったマザランである。
 新興のブルジョワの出であフたコルベールの才をみとめたマザランは、ルイ十四世に遺言したという。
 「この男をおつかいなさい、まことに忠実ですよ。」
 一六六一年、マザランが五十九歳で世を終えたとき、ルイ十四世はもはや宰相をおかず、親政をはじめる決意を示した。
 そして最高国務会議を改組し、メンバーを少数精鋭にきりかえた。
 コルベールはこの最高国務会議の大臣となり、さらに財務総監をつとめた。
 彼は当時、政界、官界に進出したブルジョワのよい例であろう。
 コルベールが立身するためには、ニコラ・フーケ(一六一五~八〇)との戦いがあった。
 フーケもやはりマザランの側近で、手腕を発揮した人物である。
 一六五三年、財務長官となったフーケはすぐれた財政家、政治家であるのみならず、学芸保護者でもあり、コルベールとはうってかわった派手な性格であった。
 かって王母はいった。
 「もしフーケが美女と壮麗な建物を愛しすぎなかったならば、非のうちどころがないのだけれど……。」
 いかにもフーケは宮殿のような大邸宅に住み、マザランのあとは自分がつぐものと思っていた。             

 ルイ十四世が凡庸な君主であったならば、おそらく彼はフランスをうごかす人物になっていたであろう。
 しかしフーケのもとに招かれ、「夢の国のような宴」、王侯をもしのぐ豪奢な生活に接して、ルイは屈辱と脅威とを感じた。
 王は帰路につくとき馬車に足を入れながらいった。
 「私は今後二度とあなたを招こうと思わないでしょう。お招きしても、満足していただけないでしょうから。」
 フーケの贅(ぜい)をつくした接待は逆効果となった。
 王の返礼は彼を獄に投ずることであった。
 なぜなら、フーケの財源は国費の乱用や収賄にあったからである。
 このときコルベールは証拠をそろえ、またフーケの裁判にあたっては、これを不利にするために書類に作為をほどこしたといわれる。
 一六六一年に逮捕されたフーケは、裁判ののち、六四年、終身禁錮となった。
 彼の失脚によって大臣となっていたコルベールは、六五年、新たに設けられた財務総監の地位についた。
 そして彼の名は、当時のフランスの経済や文化の発展ときり離すことはできない。
 財政改革、保護関税による輸出入の調整、商工業、とくにゴブラン織などの織物や奢侈(しゃし)品工業の保護育成、王立の特権工場の設置、東インドおよび西インド会社などの創設、インド、北アメリカ、アフリカ、アンティーユ諸島などにおける植民地経営(北米ではミシシッピ川流域に、ルイ王の名をとったルイジアナが開発された)、海軍の増強――こうした王権、国家権力による経済上の保護繁栄政策は一般に重商主義とよばれるが、それは一名コルベール主義ともいわれるほど、フランスでは彼によって推進された。
 こうしてフランスは当時の「貨幣戦争」に競合していった。
 またコルベールは文化上でも、「科学アカデミー」「音楽アカデミー」「建築アカデミー」などをつくり、彼自身も「アカデミー・フランセーズ」の一員となった。
 振り子の発明や光の波動説で有名なオランダのホイヘンス(一六二九~九五)も招かれて、フランスで研究をしている。

 コルベールは前述のように、ベルサイユ宮造営に積極的でなかったが、畏敬している王のためには、やむなく出費をがまんした。
 ベルサイユは沼沢などが多く、工事に不便な土地柄であり、一六六八年ごろから本格化した壮大豪華な宮殿の建築は、およそ四半世紀を要する一大難工事となった。
 徴用された労働者、農民のあいだに事故、凍傷、悪疫による多くの犠牲者がでて、「毎晩荷車にいっぱいの死者を運びだす」ありさまであった。
 水にめぐまれぬベルサイユにこれをひくことも難事業の一つであり、セーヌ川の水を水道などで利用することとなった設備は、全ヨーロッパをおどろかせ、フランスを訪れる人びとはこれを見物するのがならわしであったという。



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