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ウゴ・ラッタンツィ神父の日記

2023-03-24 02:08:05 | ウゴ・ラッタンツィ神父
『ウゴ・ラッタンツィ神父 教会の忠実なしもべ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、13

 その日記が、わたしたちの霊性も導いてくれるように、ここでそのある箇所を紹介することにしましょう。

◆、ウゴ・ラッタンツィ神父の日記

「永遠の真理、光、愛であるあなたのみ前で、また、天の私たちの母であるマリアと聖なる保謹者、および天国のすべての霊魂の前で、私は、悪魔と世間と肉欲に、力の限り自分をすてて戦うことを誓います。

 でも、おおイエズスよ、それができるのは、あなたのみ恵みによってです。マリアよ、あなたの祝福によってです」

(この誓いの言葉の下に、彼は、目分の血液で署名しました。)

「おお、やさしいイエズスよ、私は、小さな行ないも、大きな行ないも、物質的な行ないも、精神的な行ないも、常にあなたのみ栄えのためにだけすることを誓います。そのために、悪魔が私の頭の中に入れようとする他の意向をこれからは忌み嫌って、うち捨て、あなたの恵みと私の天のおん母の取りつぎによって、これを守ることを誓います」。

「おお、私の楽しみである愛すべきイエズスよ、あなたのためにだけ生きます、お望みなら、ローマ・力トリックの使徒的な、聖なるあなたの信仰に命を捧げる覚悟です。

 あなたの兵士の中で、私は、もっともつたないものに過ぎませんが、愛熱に燃える大きな心で、ただひたすら、あなただけを探し求め、あなたを守り、あなたのために「血」を流したいと思います。あなたのみ恵みと、マリアの慈しみに支えられて、そうしたいのです」。

「私のイエズスと、私の天の妃であり、母である、あなたの前に、『命にかけても、あなたのすべての特権を守ることを誓います。』(この『』の中の言葉は、血をもって書かれています)。

 それで今、私は、永遠のために、自分をあなたに奉献します。この体と、その五官のすべてを、感情も知恵も目由意志もすべて、私の霊魂をみな奉献します。

 マリアよ、私を守り、イエズスに導いてください。おん子イエズスに結ばれているあなたの愛のためにお願いします。

します」。

「私の天のおん母よ、私は、あなたのもっとも相応しくない子でありながら、これほどの恵みを受けました。どうぞ、今日、私のために、よい決心を終わりの日まで守る恵みを、あなたと、私のイエズスに取りついでください。

 このことを私の保護の聖人、特に殉教者おとめ聖アグネスの取りつぎによってお願いします」。

「私の聖なる保護者たち、中でもまず第一に、私の心の妃であるマリアと、特別な保護者である聖ヨゼフ」。

★、一週聞の保護者と目標

日曜日 聖女チェチリア よい手本
月曜日 聖ラウレンシオ 熱意
火曜日 天使聖ガブリエル 従順
水曜日 聖ヨハネ・ベルクマンス 謙遜
木曜日 聖タルチジオ 愛徳
金曜日 聖トマス・アクィナス 人間的神的学問
土曜日 聖アグネス 潔白


★、第二義的な保護者

 殉教者の初穂聖ステファノ、聖セバスチアノ、型スタニスラオ、聖アロイジオ・ゴンザガ、聖パンクラシオ、福音史家聖ヨハネ(親しみ深い愛)、イエズスの小さな聖テレジア(飛躍的な愛)」

(写真:教皇立カプラニカ大神学院の神学生当時の記念写真。円でかこまれたのがウゴ神学生)





4-17-4 トルキスタンの成立

2023-03-24 00:18:44 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
17 トルコ帝国
4 トルキスタンの成立

 ウイグル帝国は八世紀の後半から、九世紀のはじめにかけて、大いに栄えた。
 とくに八世紀の後半においては、たまたま唐は大乱にみまわれている。
 いわゆる安史の乱である。唐の朝廷はウイグルに援兵をもとめた。
 ウイグルの兵は、たびたび唐の国内に出動する。長安にも、洛陽にもおもむいた。
 モンゴルの草原にそだった遊牧の民も、こうして中国の文化を、ぞんぶんに味わったのであった。
 つづいてウイグルは、西方にむかっても、その勢力をひろげた。
 それは軍事上の発展だけではない。
 注目すべきものは、東西をむすぶ貿易の発展であった。ソグドの商人が大いに活躍する。
 ウイグル帝国のなかにあって、ソグド人たちは貿易に従事し、また西方の文化や技術を、この国につたえた。
 こうしてウイグルの領内には、中国から、そしてイラン地方から、さかんに文化が流れこんだのであった。
 いまや草原のなかに、都市までも建設せられた。
 もちろんウイグル人の大部分は、むかしと同じように遊牧の生活をいとなみ、移動することが可能なテント式の住居にくらしていた。
 しかしそれとは別に、都市において定住の生活をいとなむ者もあらわれたのであった。
 ハガンの宮殿も建てられた。さまざまの宗教のために、寺院も建てられた。
 東西からもたらされる物資を交易するために、市場もつくられた。
 もはやウイグルの一部のものは、まさしく文明の民であった。
 しかし帝国そのものの命脈は、意外にもあっけなかったのである。
 九世紀になると、ハガンの位をめぐって、うちわの争いがはげしくなった。
 おのおの国外から、軍隊をひきいれて抗争する。これが帝国のいのちとりとなった。
 そして八三九年、北方からキルギス(やはりトルコ種)の軍がはいりこんでくるにおよび、ついに帝国はほろぼされたのである。
 モンゴル高原における覇権も、百年でおわった。
 ウイグルの人々は、四方に散った。南へ走って唐の北辺にいたったものは、やがて唐の帝国に服属した。
 西方へ走ったものは、甘粛の地にはいりこんだ。そして、その地にあたらしい政権を建てた。
 中国人からは、甘(かん)州回鶻(ウイグル)、沙(さ)州回鶻などとよばれた。
 沙州とは、敦煌(とんこう)のことである。
 有名な石窟のある敦煌にも、ウイグル人が住むようになったのであった。
 西へ走ったものは、中央アジア、すなわち西域の地へはいりこむ。
 そこは、むかしからアーリヤ人の住地であった。
 その人々を征服して、ウイグル人は各地に政権を建てる。
 もはやウイグル人も、遊牧の生活をすてた。
 ふるくから文明のさかえた都市に、支配者としてのぞみ、定住の生活にはいった。
 すでに、みずからも文明の域に達していたウイグル人は、アーリヤ人の文化に吸収されてしまうこともなかった。
 独白の文化をきずいてゆくことが、できたのである。
 こうして西域は、ウイグル人の土地と化していった。
 トルキスタンという称呼も、ここに由来する。それはトルコ人の土地、という意味である。
 九世紀のなかば以後、ウイグル人たちが住むようになって、はじめて中央アジアはトルコ人の土地となったのであった。
 その形勢は、現在までつづいている。
 のち十八世紀のなかばになって、清(しん)朝は中央アジアの東半を征服した。
 新しくひらいた土地という意味で「新疆(しんきょう)」と名づけた。
 その住民は八割までがウイグル人である。漢字で書けば、回鶻人である。よって回族とよばれる。
 いま、中華人民共和国においては、ここを新疆(しんきょう)回鶻(ウイグル)自治区となし、ウイグル人の自治をみとめている。
 またウイグル人の住地には、西方からイスラム教がはいりこんでくる。
 そうしてウイグル人の多くは、イスラム教の信者となった。
 そうして、さらに中国ヘイスラム教が伝えられると、これを中国人は、回鶻(ウィグル)人の信ずる教えと見なした。
 イスラム教のことを「回教」というのは、ここから生まれたわけである。
 トルキスタンの西半は、ロシア帝国の領土となった。
 それは、いまのソビエト連邦にひきつがれた。
 ソ連は十五の共和国をもって構成されているが、そのうちトルキスタンに五つの共和国があり、いずれも主要な住民はトルコ族に属する。
 こうして現在においても、トルキスタンの地は中国領とソ連領をふくめて、まさしくトルコ人の土地とよばれるのに、ふさわしい。
 その起源が、ウイグルの西遷によるものであった。
 トルコ人は、ウイグル帝国の崩壊によって、モンゴル高原の故地をすてた。
 しかし、その後はトルキスタンから、西アジアの一帯にひろがる。
 そうしてトルコ人の一部はイスラム圈のなかにおいて、めきめきと頭角をあらわした。
 十一世紀にはセルジューク帝国が建てられ、ヨーロッパのキリスト教国をなやまして、十字軍とたたかった。
 さらに十三世紀の後半には、小アジアを本拠としてオスマン帝国が建てられた。
 それはアフリカの北部から、バルカン半島にまで進出し、三大陸にまたがる領土をひらいたのである。