『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
14 史記(太子公)の世界
1 望思の悲嘆
かつて秦の始皇帝は、不老長生の薬をもとめて、ついにえられなかった。
漢の武帝もまた、神秘にあこがれ、神仙をたずねた。
いく組もの方士が、東海のかなたにあるという蓬莱(ほうらい)山に、つかわされた。
神仙にあうために、高楼をきずいた。天の神や地の神に対するまつりも、おこたりなくつづけられた。
しかも不死と長生はえられぬまま、武帝も老境に達した。
征和二年(前九一)の夏、すでに六十六歳になっていた武帝は、健康がすぐれぬまま、長安をはなれて、西北方にある離宮にひきこもっていた。
そのとき、思いもかけぬことを言上してきた者がある。検察官の江充(こうじゅう)であった。
「陛下のご病気は、巫蠱(ふこ)の妖術(ようじゅつ)にて、のろいをかける者がいるためでございます」。
武帝はさっそく、その摘発を命じた。
罪をでっちあげるために、あらゆる手段がもちいられ、身におぼえのない者が、次々に捕えられた。
かくて大逆の罪で処刑される者は、数万人に達したという。
しかも江充のねらいは、皇太子にあったのである。
この江充は、厳正さをもって武帝の信任をえていた。皇族でも、大臣でも、容赦しない。
皇太子までが、ささいなことから罪に問われた。それがまた、武帝の信任をあつくした。
しかし、いま武帝が死ねば皇太子が即位する。
皇太子のうらみをかっている江充は、そうなればわが身があぶない、と考えた。
捜索は宮中にまでおよんだ。あちこちが掘りかえされる。
そして、ついに皇太子の宮殿の土のなかから、桐の木でつくった人形が発見されたのである。
もちらん、江充があらかじめ人をつかって、うずめさせておいたものであった。しかし証拠はあがった。
皇太子の罪はあきらかである。もはや弁明の余地はなかった。
覚悟をきめた皇太子は、兵をあつめて合戦の準備をととのえた。
ただちに江充をとらえ、面前にひきたてて、一刀のもとに斬りすてた。
しかし皇太子は、兵をあげたのである。謀叛にちがいなかった。
武帝は、ただちに征討を命じた。みずからも離宮から取ってかえし、政府と軍隊を督励した。
五日にわたる合戦ののち、皇太子はやぶれて、長安から逃げさった。
それから二十日あまり、城外の小さな町にかくれていた皇太子は、身もとが発覚して捕り手にふみこまれると、みずから首をくくって死んだ。三十八歳であった。その二人の子も殺された。
母の衛(えい)皇后も、もはや無事ではない。皇后の地位を剥奪されたうえで、自殺を命ぜられた。
これは老いた武帝にとって、もっとも悲しい事件にちがいなかった。
しかも時がたつにつれ、皇太子に何の罪もなかったことが、しだいにわかってきたのである。
武帝は、その子の最後の地に、思子宮(子を思う宮)という宮殿をつくり、また高楼を建てて帰来望思(きらいぼうし)の台と名づけた。
太子の霊魂が帰ってくるのを望み思う、という意味である。
傷心の皇帝が最後にえらんだ太子は、六十三歳のときにうまれた末子であった。その母も、まだわかい。
武帝はひそかに心をさだめた。皇太子の命は、わずかな落度をとがめられ、死刑に処せられた。
自分が死んだのち、おさない皇帝のうしろにいる母親は、国家の害になる、というわけである。
あくまでも非情、あくまでも残忍な、専制君主の心であった。
14 史記(太子公)の世界
1 望思の悲嘆
かつて秦の始皇帝は、不老長生の薬をもとめて、ついにえられなかった。
漢の武帝もまた、神秘にあこがれ、神仙をたずねた。
いく組もの方士が、東海のかなたにあるという蓬莱(ほうらい)山に、つかわされた。
神仙にあうために、高楼をきずいた。天の神や地の神に対するまつりも、おこたりなくつづけられた。
しかも不死と長生はえられぬまま、武帝も老境に達した。
征和二年(前九一)の夏、すでに六十六歳になっていた武帝は、健康がすぐれぬまま、長安をはなれて、西北方にある離宮にひきこもっていた。
そのとき、思いもかけぬことを言上してきた者がある。検察官の江充(こうじゅう)であった。
「陛下のご病気は、巫蠱(ふこ)の妖術(ようじゅつ)にて、のろいをかける者がいるためでございます」。
武帝はさっそく、その摘発を命じた。
罪をでっちあげるために、あらゆる手段がもちいられ、身におぼえのない者が、次々に捕えられた。
かくて大逆の罪で処刑される者は、数万人に達したという。
しかも江充のねらいは、皇太子にあったのである。
この江充は、厳正さをもって武帝の信任をえていた。皇族でも、大臣でも、容赦しない。
皇太子までが、ささいなことから罪に問われた。それがまた、武帝の信任をあつくした。
しかし、いま武帝が死ねば皇太子が即位する。
皇太子のうらみをかっている江充は、そうなればわが身があぶない、と考えた。
捜索は宮中にまでおよんだ。あちこちが掘りかえされる。
そして、ついに皇太子の宮殿の土のなかから、桐の木でつくった人形が発見されたのである。
もちらん、江充があらかじめ人をつかって、うずめさせておいたものであった。しかし証拠はあがった。
皇太子の罪はあきらかである。もはや弁明の余地はなかった。
覚悟をきめた皇太子は、兵をあつめて合戦の準備をととのえた。
ただちに江充をとらえ、面前にひきたてて、一刀のもとに斬りすてた。
しかし皇太子は、兵をあげたのである。謀叛にちがいなかった。
武帝は、ただちに征討を命じた。みずからも離宮から取ってかえし、政府と軍隊を督励した。
五日にわたる合戦ののち、皇太子はやぶれて、長安から逃げさった。
それから二十日あまり、城外の小さな町にかくれていた皇太子は、身もとが発覚して捕り手にふみこまれると、みずから首をくくって死んだ。三十八歳であった。その二人の子も殺された。
母の衛(えい)皇后も、もはや無事ではない。皇后の地位を剥奪されたうえで、自殺を命ぜられた。
これは老いた武帝にとって、もっとも悲しい事件にちがいなかった。
しかも時がたつにつれ、皇太子に何の罪もなかったことが、しだいにわかってきたのである。
武帝は、その子の最後の地に、思子宮(子を思う宮)という宮殿をつくり、また高楼を建てて帰来望思(きらいぼうし)の台と名づけた。
太子の霊魂が帰ってくるのを望み思う、という意味である。
傷心の皇帝が最後にえらんだ太子は、六十三歳のときにうまれた末子であった。その母も、まだわかい。
武帝はひそかに心をさだめた。皇太子の命は、わずかな落度をとがめられ、死刑に処せられた。
自分が死んだのち、おさない皇帝のうしろにいる母親は、国家の害になる、というわけである。
あくまでも非情、あくまでも残忍な、専制君主の心であった。