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3-14-1 望思の悲嘆

2018-11-10 22:54:40 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

14 史記(太子公)の世界

1 望思の悲嘆

 かつて秦の始皇帝は、不老長生の薬をもとめて、ついにえられなかった。
 漢の武帝もまた、神秘にあこがれ、神仙をたずねた。
 いく組もの方士が、東海のかなたにあるという蓬莱(ほうらい)山に、つかわされた。
 神仙にあうために、高楼をきずいた。天の神や地の神に対するまつりも、おこたりなくつづけられた。
 しかも不死と長生はえられぬまま、武帝も老境に達した。
 征和二年(前九一)の夏、すでに六十六歳になっていた武帝は、健康がすぐれぬまま、長安をはなれて、西北方にある離宮にひきこもっていた。
 そのとき、思いもかけぬことを言上してきた者がある。検察官の江充(こうじゅう)であった。
 「陛下のご病気は、巫蠱(ふこ)の妖術(ようじゅつ)にて、のろいをかける者がいるためでございます」。
 武帝はさっそく、その摘発を命じた。
 罪をでっちあげるために、あらゆる手段がもちいられ、身におぼえのない者が、次々に捕えられた。
 かくて大逆の罪で処刑される者は、数万人に達したという。
 しかも江充のねらいは、皇太子にあったのである。
 この江充は、厳正さをもって武帝の信任をえていた。皇族でも、大臣でも、容赦しない。
 皇太子までが、ささいなことから罪に問われた。それがまた、武帝の信任をあつくした。
 しかし、いま武帝が死ねば皇太子が即位する。
 皇太子のうらみをかっている江充は、そうなればわが身があぶない、と考えた。
 捜索は宮中にまでおよんだ。あちこちが掘りかえされる。
 そして、ついに皇太子の宮殿の土のなかから、桐の木でつくった人形が発見されたのである。
 もちらん、江充があらかじめ人をつかって、うずめさせておいたものであった。しかし証拠はあがった。
 皇太子の罪はあきらかである。もはや弁明の余地はなかった。
 覚悟をきめた皇太子は、兵をあつめて合戦の準備をととのえた。
 ただちに江充をとらえ、面前にひきたてて、一刀のもとに斬りすてた。
 しかし皇太子は、兵をあげたのである。謀叛にちがいなかった。
 武帝は、ただちに征討を命じた。みずからも離宮から取ってかえし、政府と軍隊を督励した。
 五日にわたる合戦ののち、皇太子はやぶれて、長安から逃げさった。
 それから二十日あまり、城外の小さな町にかくれていた皇太子は、身もとが発覚して捕り手にふみこまれると、みずから首をくくって死んだ。三十八歳であった。その二人の子も殺された。
 母の衛(えい)皇后も、もはや無事ではない。皇后の地位を剥奪されたうえで、自殺を命ぜられた。
 これは老いた武帝にとって、もっとも悲しい事件にちがいなかった。
 しかも時がたつにつれ、皇太子に何の罪もなかったことが、しだいにわかってきたのである。
 武帝は、その子の最後の地に、思子宮(子を思う宮)という宮殿をつくり、また高楼を建てて帰来望思(きらいぼうし)の台と名づけた。
 太子の霊魂が帰ってくるのを望み思う、という意味である。
 傷心の皇帝が最後にえらんだ太子は、六十三歳のときにうまれた末子であった。その母も、まだわかい。
 武帝はひそかに心をさだめた。皇太子の命は、わずかな落度をとがめられ、死刑に処せられた。
 自分が死んだのち、おさない皇帝のうしろにいる母親は、国家の害になる、というわけである。
 あくまでも非情、あくまでも残忍な、専制君主の心であった。

アルベルト・カスティリオニ神父 ★2、興味ぶかい事件 

2018-11-10 05:36:31 | シュステル枢機卿
『シュステル枢機卿 - 模範的な司牧者』カスティリオニ神父・デルコル神父共著

★2、興味ぶかい事件 アルベルト・カスティリオニ神父

◆1、シュステル枢機卿にあいさつ

 ちょうど40年前のことです。北部イタリアのカリエロ志願院から布教地に派遣される神学生がありました。出発に先だって、生まれ故郷に、両親や親戚にあいさつに行くのがならわしだったのです。

 同じミラノ大司教区出身の、わたしを含めた4名も、そろって故郷に出かけましたが、このチャンスを大司教シュステル枢機卿訪問に利用しました。そのとき、わたしは、最年長の24才だったことを、ここにつけ加えておきます。

 目的は、枢機卿の祝福をうけることでしたが、面会のための交渉は、一番大胆なモンツァ市生まれのポリス神学生に一任しました。

 こうして、1937年7月のある朝、4人の神学生は、胸をどきどきさせながら応接室の隅にひとかたまりになって枢機卿を待っていました。そのあいだ、

「ねえ、ポリス君、お願いだ、あんまり無駄口をたたくなよ」

「きみは、おしゃべりだってことに気をつけろよ」などと、わたしたちは、あの神学生に念をおしたものでした。

 やがて、わたしたちの前に姿をあらわしたシュステル枢機卿、かがやくばかりの笑顔でわたしたちを書斎に歓迎し、慈父の祝福を与えてくださったことは、いうまでもありません。

 やがて、面会時間も終わりに近いと思われる頃、枢機郷は、机の引き出しを開けて、一枚の写真をとり出し、わたしたちの前に置きながらいいました。

「これは、今まで発表されなかったドン・ボスコの写真ですよ」

「………」

 若い神学生は、感激と、尊敬のうちに緊張し、貝のようにおし黙っています。もうポリス神学生は、これ以上口をつぐんでいることはできなくなりました。

「閣下!」とかれは呼んでみました。枢機郷の笑顔が、次の言葉を待っています。何をいったらいいのでしょう。かれは、すっかりあわててしまいました。

「閣下、この写真に、閣下のサインをお願いできませんでしょうか?」

「わが子よ、これは、ドン・ボスコの写真ですよ。サインなら、ドン・ボスコにしてもらうんですね」

 シュステル枢機郷は、ますますほおえみながら、わたしたちにその写真を与えられました。

 書斎から出たとたん、わたしたち3人は、ポリスさんを攻撃しました。

「こら、無駄口をたたくなと、あれほどいっておいたのに」、「あんなばかなこといってさ」、「ぼくたち、はずかしかったぞ」

(写真:アルベルト・カスティリオニ神父別府カトリック教会の6代目の主任司祭(1954年一1960年))



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聖レオ1世教皇教会博士

2018-11-10 05:33:02 | 聖人伝
聖レオ1世教皇教会博士      記念日 11月10日


 レオ教皇はシクスト3世教皇のあとを継いで、440年教皇位についた。その在位中に教会の内外に種々の災難が起きたが、その1つはエウティケが、431年のエフェソ公会議で異端とされたネストリウスの邪説を熱心に排斥するあまり、キリストの「単性論」という正反対の極端の説をとなえ始めたことであった。すなわちキリストの人間性も神性の中に溶け込んでしまったという説である。レオ1世はコンスタンチノープルの司教フラヴィアノあての教書で、キリストの性格の中に人性と神性とが結合していることを主張した。
 451年、カルケドンに公会議が開かれると、レオ教皇は使節を送って司会させた。議場で教皇の信仰宣言書が読まれた時、司教達は感動して「これこそ教父達の信仰、これこそ使徒達の信仰である。ペトロがレオ教皇の口を借りて語ったのだ」と異口同音に叫んだという。公会議は「キリストの神性と人性とは混合もなく、変化もなく、分離もなく、区分もなく、その位格に結合している」と決定した。
 452年のフン族がローマに進撃して来た時には、レオは自ら進み出てアッチラ王に交渉して退却させた。
 レオ教皇は在位21年間、真の牧者として活躍し、461年帰天した。


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