カンタベリーの聖アウグスチノ司教 St. Augustinus E. D. 記念日 5月 27日
4世紀の民族大移動に際し、アングロ・サクソン族はブリタニア(今のイギリス)に侵入し、既にキリスト教の教化に浴していた土着民を殺戮、征服したので、同地における聖会も一時全滅の悲運を見るに至ったが、ローマにあるベネディクト会大修院長聖グレゴリオは、西暦590年頃宣教師としてブリタニアに赴き、アングロ・サクソンに布教しようと熱望していたが、未然に選ばれて教皇の位についたため志を遂げる事が出来なかった。で、彼は自分が設立したベネディクト会聖アンドレア新修道院の院長アウグスチノを代わりに派遣する事にした。一説によればその頃グレゴリオは、ローマで麗しいアングロ族の青年数人が、奴隷として売りに出されているのを見、同情に耐えずして彼等を買い取り、自由の身として教理を学ばせ洗礼を授けた後ベネディクト会修士なる宣教師40人と共に、アウグスチノの部下として、596年ころ故国イギリスに遣わしたそうである。
所が彼等は赴任の途中アングロ・サクソン人の残虐な事や宗教を毛嫌いする話しなどを聞いて、教化の志も失い、ローマに帰ろうとした。けれども教皇グレゴリオは書を送って彼等をなだめ、万難を排してその使徒的使命を全うせよと激励し、ブリタニア諸王国の王侯貴族に宛てた紹介状なども与えたから、アウグスチノ達も発憤して旅行を続け、597年のはじめまず国王エテルベルトに取りなしてくれたから、王も、自ら進んで宗教を研究するほどの熱意は示さなかったものの、国内の布教は快くこれを許したのである。
かくてアウグスチノ等が活動に取りかかる内、アングロ・サクソン族の人々は彼等宣教師の聖なる日常生活を見て聖教の完璧な事を悟り、先を争って福音を聞き、遂にその年の聖霊降臨の大祝日には、早くもエテルベルト王を始め、貴族、一般民衆に及ぶまで数千人の受洗者を出すに至った。
この予期せざる大成功にアウグスチノは、天主への感謝と喜びに充ち溢れて、更に宣教師の増加派遣方を教皇に申し送った思いは同じグレゴリオも、早速その願いに任せて又もベネディクト会修士の中から宣教師を送り、アウグスチノを挙げてカンタベリーの司教となした。エテルベルト王はその司教座として、名高い救世主の大聖堂を建て、又請うて代々のイギリス国王の遺骸はそこに埋葬するように定めた。
その後アウグスチノは更に熱心を倍加して布教に従事し、間もなくアングロ・サクソン族のほとんど全部を教化する事が出来た。彼はその改宗後も人民の異教的迷妄を打破する為に決して過激な手段はとらなかった。あくまで愛と親切の態度を以て臨み、彼等の異教時代の礼拝堂を聖堂として真の天主を礼拝せしめ、異教の祭礼その他の年中行事もキリスト教的意義を付して行うを許し、かくて自然に彼等の異教的習慣をキリスト教的それに変えるように導いた。この試みは大成功で、人民は知らず知らず迷妄を離れて真理の途に入ったのである。
アウグスチノは一方アングロ・サクソン人に征服されたイギリスの旧土着民ブリタニア族の救霊も決してなおざりにはしなかった。彼等は大方既に聖教信者であったが、種々なる事情の為に堕落の淵に沈んでいたので、彼はその多く住するエセックスへ行き、ある時は諄々と教え、ある時は主の御力にすがって奇跡を行い、いかにもして彼等を正道に立ち帰らせようと骨を折ったが、不幸一切の努力は徒労に終わった、そしてこの聖寵に逆らった民族は聖人の預言の如く、主の御怒りに触れて敵の手により全く滅亡し去ったのであった。
さてブリタニア人に対する布教の思わしからぬを見たアウグスチノは、溢れる悲しみを胸に抱いてカンタベリーに帰ったが、それから僅か10年を経た607年、天主の思し召しによりその耐えざる祈りと活動との生涯を終わった。彼は世にイギリスの使徒と呼ばれているが、オランダ、ノルウエー、デンマーク、ハンガリーなどの改宗も、英国よりその地に渡った彼の部下たりしベネディクト会の宣教師、殊に聖ボニファチオの努力によった事を思えば、アウグスチノは全ゲルマニア民族の使徒ということも出来よう。
教訓
聖アウグスチノの布教の成功には、彼の立派な言行の感化があずかって大いに力があった。されば我等も未信者の同胞を導く為にも、益々我が身を修めるように努めねばなるまい。
4世紀の民族大移動に際し、アングロ・サクソン族はブリタニア(今のイギリス)に侵入し、既にキリスト教の教化に浴していた土着民を殺戮、征服したので、同地における聖会も一時全滅の悲運を見るに至ったが、ローマにあるベネディクト会大修院長聖グレゴリオは、西暦590年頃宣教師としてブリタニアに赴き、アングロ・サクソンに布教しようと熱望していたが、未然に選ばれて教皇の位についたため志を遂げる事が出来なかった。で、彼は自分が設立したベネディクト会聖アンドレア新修道院の院長アウグスチノを代わりに派遣する事にした。一説によればその頃グレゴリオは、ローマで麗しいアングロ族の青年数人が、奴隷として売りに出されているのを見、同情に耐えずして彼等を買い取り、自由の身として教理を学ばせ洗礼を授けた後ベネディクト会修士なる宣教師40人と共に、アウグスチノの部下として、596年ころ故国イギリスに遣わしたそうである。
所が彼等は赴任の途中アングロ・サクソン人の残虐な事や宗教を毛嫌いする話しなどを聞いて、教化の志も失い、ローマに帰ろうとした。けれども教皇グレゴリオは書を送って彼等をなだめ、万難を排してその使徒的使命を全うせよと激励し、ブリタニア諸王国の王侯貴族に宛てた紹介状なども与えたから、アウグスチノ達も発憤して旅行を続け、597年のはじめまず国王エテルベルトに取りなしてくれたから、王も、自ら進んで宗教を研究するほどの熱意は示さなかったものの、国内の布教は快くこれを許したのである。
かくてアウグスチノ等が活動に取りかかる内、アングロ・サクソン族の人々は彼等宣教師の聖なる日常生活を見て聖教の完璧な事を悟り、先を争って福音を聞き、遂にその年の聖霊降臨の大祝日には、早くもエテルベルト王を始め、貴族、一般民衆に及ぶまで数千人の受洗者を出すに至った。
この予期せざる大成功にアウグスチノは、天主への感謝と喜びに充ち溢れて、更に宣教師の増加派遣方を教皇に申し送った思いは同じグレゴリオも、早速その願いに任せて又もベネディクト会修士の中から宣教師を送り、アウグスチノを挙げてカンタベリーの司教となした。エテルベルト王はその司教座として、名高い救世主の大聖堂を建て、又請うて代々のイギリス国王の遺骸はそこに埋葬するように定めた。
その後アウグスチノは更に熱心を倍加して布教に従事し、間もなくアングロ・サクソン族のほとんど全部を教化する事が出来た。彼はその改宗後も人民の異教的迷妄を打破する為に決して過激な手段はとらなかった。あくまで愛と親切の態度を以て臨み、彼等の異教時代の礼拝堂を聖堂として真の天主を礼拝せしめ、異教の祭礼その他の年中行事もキリスト教的意義を付して行うを許し、かくて自然に彼等の異教的習慣をキリスト教的それに変えるように導いた。この試みは大成功で、人民は知らず知らず迷妄を離れて真理の途に入ったのである。
アウグスチノは一方アングロ・サクソン人に征服されたイギリスの旧土着民ブリタニア族の救霊も決してなおざりにはしなかった。彼等は大方既に聖教信者であったが、種々なる事情の為に堕落の淵に沈んでいたので、彼はその多く住するエセックスへ行き、ある時は諄々と教え、ある時は主の御力にすがって奇跡を行い、いかにもして彼等を正道に立ち帰らせようと骨を折ったが、不幸一切の努力は徒労に終わった、そしてこの聖寵に逆らった民族は聖人の預言の如く、主の御怒りに触れて敵の手により全く滅亡し去ったのであった。
さてブリタニア人に対する布教の思わしからぬを見たアウグスチノは、溢れる悲しみを胸に抱いてカンタベリーに帰ったが、それから僅か10年を経た607年、天主の思し召しによりその耐えざる祈りと活動との生涯を終わった。彼は世にイギリスの使徒と呼ばれているが、オランダ、ノルウエー、デンマーク、ハンガリーなどの改宗も、英国よりその地に渡った彼の部下たりしベネディクト会の宣教師、殊に聖ボニファチオの努力によった事を思えば、アウグスチノは全ゲルマニア民族の使徒ということも出来よう。
教訓
聖アウグスチノの布教の成功には、彼の立派な言行の感化があずかって大いに力があった。されば我等も未信者の同胞を導く為にも、益々我が身を修めるように努めねばなるまい。