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主日と祝日とには謹しんでミサを聴くべし「地獄(第二の死と云われる永遠の滅び)」『煉獄と地獄』

2024-01-08 20:06:58 | 天国・地獄

マキシム・プイサン神父「地獄(第二の死と云われる永遠の滅び)」『煉獄と地獄』岸和田天主会教会、1925年

46.主日と祝日とには謹しんでミサを聴くべし

 主日、祝日に労働を休業むのみでは、まだ不完全だ。なお謹しんでミサを拝聴すべしという第一の重大な義務がある。やむを得ざる場合を除いて、この義務を怠る者は大罪を犯すのである。

 自己の過失や台慢でミサ聖祭の拝聴を怠ったり、ミサ聖祭の大部分を欠きたり(例えば、聖福音後ミサを拝聴し始めたり、序論より聖体拝領までの要部の間に、その}部を欠いて外出するなど)あるいは聖祭中大部分の間故意、心を散らしたりする者は、大罪を犯すのである。故に大罪を犯すよりも、財産、名誉、健康のみならず、生命までも失うのがよいと思うのは、公教信者として信仰の目をもって見た当然のことである。


・前に述べたやむを得ぬ場合とは

1、絶対的不可能の場合

 どうしても教会に参詣られぬ者、即ち、病人、囚人、旅人、戦場の兵士等で彼らは御ミサに与からずとも罪にならず、「不可能の事に誰も服従の義務なし」との原則に基き、慈母たる公教会は無理な事を決して愛子たる信者に命令せぬからである。

2、相対的不可能の場合

 道理上、できぬことはない。しかし実際のところで不可能。例えば事故の為、名誉とか財産とかに危害の起る時、快復しかかった病人が参詣のため、再発の恐れのある時。気候とか、遠距離の為、病気に犯される恐れのある老人その他、大変天気の悪しき時又は教会より遠く離れて住居する人などは、ミサに与らずとも罪にはならぬ。

 すべての場合、全般的な法則を規定るのは、むつかしいから人により、場所により、時期により、又習慣によりて充分の理由あるか否かを判断せねばならぬ。

 妻は夫より、碑僕は主人より、ミサ聖祭に与かることを禁止られた場合に於てその命令に違反する時その身が大損害を被むるとせば、彼らは御ミサを拝聴せずとも罪にはならぬが、しかし、このような家に使わるる碑僕は一日も早く、ミサ拝聴のため、自由を与えらるる他の良家を求めねばならぬ。

 妻として、夫と離別れることはできぬから、益々従順、忍耐を旨として熱心なる祈祷と犠牲とを天主に捧げるようにすれば如何に頑固なる夫と言えども、遂には信仰の防害を止め、その自由を与うるように相違ない。

3、愛や、慈悲のために、御ミサに与かられない場合がある。

 例えば看病人として、御ミサに与かるため病人を一人で打捨て置く事はできぬ。あるいは留守番のなき時母親は子供を捨て置くことはできぬ。このような場合には、ミサに与からずとも罪にはならぬ。

 適当な理由のため、ミサ聖祭に参与のできぬ者は、それと同時に労働をする許可もあると思ってはならぬ。

 ミサ拝領の責任は免がれても労働を休止める義務は、依然として残っている。なおやむを得ず、御ミサに拝聴の責任の代用として、祈祷文にあるミサに与かるを得ざる時の祈祷を唱え、あるいはコンタツ(ロザリオ)を唱うることを、熱心なる信者は怠らぬのである。

 学校のある生徒が頭痛のために日曜日の御ミサを怠たる。しかして平日これ位の頭痛で学校を欠席するかと尋ぬれば、答えて否々学校を休めば損がゆく、成績に関係するという。この場合は如何でしょう、天秤で計って御覧なさい。このような勝手な口実のため御ミサ拝聴を怠るのは最も不道理で、罪になるのである。

 自分は、数万人の中より天主から特に選ばれ、信仰の宝を受けておる。その有難い恩賜の報恩として我が信仰を愕からず公教信者として、その重大な本分を尽くすべき責任のある事を実験することは、自分の最上の名誉であると思わねばならぬ。

 この信仰上の実現的勇気こそ、天主の光栄の発揚である。且つ未信者より尊敬を受くるもととなるのである。之に反して、信仰上の恩恵を保持しながら信者らしくない未信者を装い、信者の本分を遂行せぬのは大恩恵者たる天主に対する忘恩者である。

「人々の前にて、我を否む者は、天主の使らの前にて否さるべし」(ルカ十二~九)とのキリストのおそるべき御言葉を考慮して、心の底に深く刻込まねばならぬ。

 自己とキリストの代理者なる霊父とをごまかすことは極めて容易であるが、人の心の底まで見とおし給う全知なる天主をごまかすことは決してできぬと云うことを忘れてはならぬ。

 主日、祝日には労働を休みミサに授かった上にも常より多く、祈りをするのは良い聖人伝を読む事、貧しき者や、病人を見舞う事業は、主の日を聖ならむるために、最も良い方法である。



主日に働くと損をする

2023-12-27 05:56:30 | 天国・地獄


マキシム・プイサン神父「地獄(第二の死と云われる永遠の滅び)」『煉獄と地獄』岸和田天主会教会、1925年

45.主日に働くと損をする

 諸君が今より益々主日、祝日を重視して、遵守って下さるよう、又諸君の上に天主の御恩寵が豊かに降るよう次の実験と歴史に関する事実とを注意してお読み下さい。

 そして次の言葉を深く脳裡に入れて置いて載きたい。主日、祝日に業務としたために金持ちになりたる者は一人もなく、また祝日に仕事を休業んだために貧乏になりたる者も、一人もない。反って主日、祝日に仕事をした為に貧乏人になりたる人は沢山ある、天主に違反いて儲けた呪いの金銭は失敗と、禍いとの原因となるのは当然のことである。

 福者ビアンネも申しておる

「主日、祝日に儲けた金銭はその入れてある財布の底に穴をあける。しかして他の金銭をも、共に流してしまう。即ち病気とかあるいは、種々の火災とにか、りて儲けたるその呪いの金銭よりも沢山の金銭を使わねばならぬ」

と、これは実験の上より申したるお話しである。十ニケ月休業なしに働きて得たる儲けより、掟に従い十ケ月、主日と、祝日を休業んで、働き得た儲けは、沢山である、という実証は多くある。

 一見不道理のようではあるが、造物主の命令に従いて働く者は、天主の恩寵を受け、之に反して欲のため、主日、祝日にも労働を休止ぬものは.天主の呪いを招く筈である。

(挿絵は、聖イシドロ。主日には決して農作業をしなかったが、主日に働いた他の農夫よりもはるかに儲けたという聖人)


主日の義務

2023-12-16 07:53:02 | 天国・地獄
マキシム・プイサン神父「地獄(第二の死と云われる永遠の滅び)」『煉獄と地獄』岸和田天主会教会、1925年

44.主日の義務

ある人が、聖ビンセンシオ・ア・パウロに問うた。

「師よ今この死際にありながら少しの恐怖の様子が見えません。どのような理由ですか?」

「おお、それは我れ十七年前より、毎日就床前に死の準備をして居た。そのためである」
と聖人は答えられたがそれは真実である。

1、主日、祝日の務めを確守事(まもること)
 相当の理由なくして主日、祝日の重い義務を守らざる信者は大罪を犯すのである。

 信者のうちにはこの重い義務を軽視して、一向に大事にせぬ者があるがこの掟には労働的仕事をなす可からざるという禁令と、ミサ聖祭に与かる可しと云うとの二種がある。
 労働的仕事とは身体力にかかわるすべての業務を休止まねばならぬ。しかし例外がある。信心的労働、例えば御聖堂の掃除、香台の装飾、聖きミサの準備などは例外である。

2、慈善的労働、例えば貧困者を救助くるための労働、病者を看護することなど、このような場合には働くことの方が、天主の御旨に適うに相違ない。

 救済的及び、危急的労働、公私の別なくすべて許されている。宗教あるいは国家のため戦う事、火災の時火を消すこと、洪水のため、提防を築くこと。水夫などは日曜日に働く事ができる。

 習慣の上より、主日、祝日に食事の料理、身体の清潔家の掃除、家畜の世話などは許されておるが、以上、挙げた場合を除いて二時間連続けて、あるいは切々にても同時間、労働くことは大罪である。

 労働免除、許しを得て日曜日に働くために、理由の充分明白でない時は、霊父にその許しを願わねばならぬ。教皇は、全教会の信者に、司教は教区内の一般の信者に許しを発する事ができるが、一教会の霊父は一般的に労働の許しを信者に与うる事はできぬ。個別に信者に、又現在の必要の場合のみ許しを与うる事ができる。

 日本に於て、教皇の許可をもって貧困の信者、例えば業務をせざれば、生活のできぬ者は、霊父の許しを得て、主日祝日のミサ聖祭に参拝した後、業務をする事ができる。しかし我が主御復活祭、聖霊降臨、聖母の被昇天、我主御誕生の、四大祝日には労働の許可はない。

 主日、祝日に労働の許可を受くる方法は地方によりて異って居るから、その地方の習慣に従うのがよい。しかし霊父の許可を得ねばならぬということを忘却てはならぬ。




地獄を避ける生活のおくりかた

2023-12-02 02:39:36 | 天国・地獄


マキシム・プイサン神父「地獄(第二の死と云われる永遠の滅び)」『煉獄と地獄』岸和田天主会教会、1925年

43.第三 公教会的信者の生活を以って自己の救霊を確実に保証する事

 犬や猫のように、起きては寝、寝ては又起きると云うようなことは公教信者は絶対的にあってはならぬ。

 公教信者は、朝起床の時、又夜分就前、祈りをもって自分の心と行いとを天主に捧げねばならぬ。もし暇のない時、疲労のため長き祈りが出来ぬならば、熱心をこめたる短かき祈りでもよろしい、主とう文、天使祝詞、使徒信経の三大経で充分である。これに痛悔の祈りを加えるのは良き習慣になる。

 もし不幸にして急死することがあらばこめ痛悔の祈りこそ、その急死の準備であるのだから、天主の恐ろしき裁判をも、安心して受けられるのである。

 コンタツ(ロザリオ)を手ににぎり、或はくびにかけて眠るまで、つまぐるのは、聖母の御保護を受くるため、立派な方法である。

 もし即死するようなことあらば、聖母は御自分で、私審判の法廷にのぞまれ、御子キリストの御前にてこの信心家、聖母に対する崇敬者なるこの愛子のため、有力ある弁護の労を取りて下さるに相違ない。

 睡眠は死と永遠との象りである。故に寝る度毎に、私は何時か死ぬであろう、その時は現在あるこの肉体も冷たくなり、蒼白めて堅くなるであろうと考うることは、救霊のため、効果ある霊薬となるのである。



誘惑から逃れるため、自ら火の中に飛び込んだ修道士

2023-11-28 13:13:23 | 天国・地獄

マキシム・プイサン神父「地獄(第二の死と云われる永遠の滅び)」『煉獄と地獄』岸和田天主会教会、1925年

42.誘惑から逃れるため、自ら火の中に飛び込んだ修道士

 修道士の生活もこの迷想を全くふせぐに足らない、地獄に霊父も修道者も居る。その数は小数とは思わるるが、とにかく確かにいることはいる。世界を照す者でありながら如何にして地獄に落ちたかと云えば迷想という不幸の道を歩みたからである。

 マルチニアと云う山修士は、二十五年の久しき修徳、進善、聖人の如く聖業を修めて居られたため、その名声は響き渡りて居った。

 悪魔はマルチニア修士を罪悪におとし入れんと、一人の悪い婦人を使った。彼は恐ろしきこの危険に迫り容易なことではこの誘惑に打勝つことは出来ないと思い煩い居る内に、夢中になりてそこに積んであった薪木に火を放ち、その中に飛び込んだ。

 しばらくして、火中より出で、厳しく、且つ強く我が身を戎め自問自答して「マルチニアよ、この火の中に居るは愉快ではあるか?もし、終りなき地獄の火に耐えることが出来得るなら、この婦人に従え、これ即ち地獄に行く道であるぞ」と云い終りて、再び火中に飛び込み又「天主に背くより、この火の中で死するが結構であるぞ、もしこの微々たる火の中で、数分間でも辛抱が出来ないなら、何うして地獄の猛火の中に、永遠に焼かるるを凌き得るぞ」と云った修士の剛勇、この火傷の治療まで十ケ月もかかりしとのことである。

 悪婦人は之を見て深く感じ改心して修道院に入り、苦業十二年遂に美しき、幸福なる最後をもってこの世を去りたいという。真に心よりの望みすらあれば、如何なる誘惑にも天主の恩寵によりて、打勝つこと、確かに出来るというがわかる。