写真は20年以上も前のものとなりました

つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

赤とんぼ

2020年10月09日 | 随想

北國新聞きょうのコラム『時鐘』(2020/10/07)から

 近くの公園の植え込みで、赤トンボが羽を休めていた。「夕やけ小やけ」は見る機会もゆとりも乏しくなったが、赤トンボは健在のようである。条件反射で童謡を口にし、ついでに苦笑した。有名な歌詞をずっと間違えていた。「負われて見た」と子守におんぶされる光景を、「追われて見た」と勘違い。赤トンボは時に大集団で勢いよく空を横切る。それが子供心に「追われる」ような怖さを与えた。「お前もか」と知人に相づちを打たれたことがある。その折、向田邦子さんに『眠る盃』『夜中の薔薇』というエッセー集がある、と教わった。ヘンな書名は、有名な歌の「めぐる盃」、「野中の薔薇」の歌詞聞き違い。みんなやってたのかと、うれしくなった。眠る盃も夜に咲く薔薇も、トンボの群れを「追われて見た」と同様、不気味な連想である。眠ったと思ったら不意に起き出し、追いかける。目下の難敵・性悪ウイルスのようではないか。

赤トンボにもコロナの影を思うとは、いくら何でも過剰反応の度が過ぎる。どこかのボスの「コロナ恐れるな」よりも、「正しく恐れよ」の戒めの何と難しいことか。

 

まぁ、最後のコロナの部分で折角の高貴な内容のコラムも水泡に帰してしまった感が否めないのが残念だが、北國新聞のコラムがおおむね秀逸だということは、これまでにも度々指摘してきているところだ。

本旨と似たようなことを、以前にも、仰げば尊し」の「今こそ別れめ」が、「別れ目」ではなくて「こそ~め」という古文の使い方で「さぁお別れだ」くらいの意味だ、ということを人の心に咲く花は・・・(2017年10月21日)のところで書いていたし、朝(うた)(2018年11月18日)のところでは、「わらじ とくゆえ ・・・」の「とく」は「お得」の「得」でも、「解く」でもなく、「疾く」、つまり早く、という意味であり、早くワラジの紐を結べ、という意味だ、ということだということを書いていた。

そう言えば、「仰げば尊し」の冒頭「わが師の恩」も「和菓子」と勘違いしてたり、「思えば いと疾し この年月・・・」を「思えば 愛おし この年月・・・」と勝手に解釈してた時期もあったような・・・・。

https://www.youtube.com/watch?v=PCgzIYNTOfE

 

 

童謡「赤とんぼ」について」というサイトには、「負はれて」は「追われて」じゃなくて、子守りに負んぶされて見ていた、ということだとの丁寧な解説がある。

子守りというのは、乳幼児の世話をするという行為のことであり、その役目のために7歳頃~14、15歳の女の子が他家に雇われる、子守奉公のことも指した。

その子守りが三番に登場している「姐や」(少女)のことであり、「十五で姐やは嫁にゆき、お里の、たよりも、たえはてた。」という思い出に繋がっている。

昔は「数え年」だったので、15歳というのは、今で言えば13歳というところか。13歳で嫁ぐといえば、今の感覚では「ちょっと早すぎる・・・」と感じられるが、現代の基準で歴史を批判してはいけない。昔は、そういう時代だったのだ。

 

上の写真はそんなに遠い昔のものではない。

 

 

子守奉公から始まる女児の奉公といえば、NHK連続テレビ小説「おしん」の姿。

 

当時(今も)、テレビで朝ドラを見るという習慣がなかったので、騒がれてからのダイジェストしか知らない身だが、聞くところによると世界中で放映され、日本の発展は「おしん」のような人たちが多くいたからだ、と絶賛の嵐だったとのこと。(多くの紹介があるが、全話のあらすじを紹介しているサイトなどは役に立つ。)

まぁ、こそばゆいところもあるが、特に中東なかんづくイランでの日本への親しみに大きく貢献したことは歴史的にも大きな価値がある。(イランについては、後日、いろいろとコメントしたいと考えている。)

 

おしんは、7歳のときに米1表と引き替えに奉公に出された訳だが、出された先が裕福な材木問屋という「まとも」な商売屋で、まだよかった。

もっとひどい飢饉とかになると身売り(ほとんどが遊郭、遊女奉公)が横行したりして、その身売りが「公娼制度」を支えるという悪循環が蔓延していた時代が長く続いた。 

そのあたりの新聞記事を紹介したりしているサイトもあったので下記に紹介。読みづらいのが残念なサイトだが、内容は濃い。

賣られる最上娘(昭和期日本の貧困 その1)

草木に露命をつなぐ(昭和期日本の貧困 その2)

廓模様新紅毛情史 (昭和期日本の貧困 その3)

十四娘を賣つた金 四十圓の家と化す(昭和期日本の貧困 その4)

「娘の身売り」が支えた「公娼制度」(昭和期日本の貧困 その5)

 

奉公というのは、Weblioによると「他人の家に雇われて、その家事・家業に従事すること。」ということであり、おしんの場合は、早朝の飯炊き、子守り、洗濯、風呂掃除といった年端も行かない子供にとってはかなり厳しいものであったようだが、それでも一種の雇用契約のようなものだ。

奉公の制度については、終身奉公(生涯を通じて奉公する。武家などの世襲の奉公。)、年季奉公(1年を越える年数を決めての奉公。徒弟奉公など。)、出替(でかわり)奉公(1年または半年の期間を決めての奉公。)などがあり、商家では、丁稚(でつち)、手代、支配人などの職制があった。

リンク先には「士農工商の区分は厳しく、身分の交流は禁じられていた。」という解説がなされており、学校でもそのように習ってきた訳だが、実態はどうも、「江戸時代、「士農工商」という身分制度はなかった!」のがホントのことらしい。

より正確には、武士と百姓・町人という2つがあるだけで、村に住むのが百姓、町(主に城下町)に住むのが町人(職人と商人)というような居住区や職業別にすぎない、というようなことのようだ。

それで納得した、というか、以前、解く楽しみ(2013年09月21日)でも触れていたが、貧困で文字も読めないような百姓農民が算額を掛けるほどの数学脳で楽しんでいた、っていうのはどう考えても不思議だったし、戦国時代から江戸期にかけて来日していた外国人の記録には、どれも読み書きなどの「教育レベル」が非常に高かったという記載に満ちているとのこと。

ローマは一日にして成らず」ということわざがあるが、明治維新も江戸時代等の長い期間の功績、実績の積み重ねの賜物であったことを、あらためて感じ入る次第である。

 

嬉しいことに、日本数学検定協会が「算額」を現代に甦らせた。

といっても、問題集は奈良の大仏様に関しての課題を出して答えさせる、という代物なので、本来の「自ら問題を見つけ出して解答を発見する」という形態にはなっていない。まぁ、今は取っかかりとしての小手調べの段階なのかもしれない。

数学検定・算数検定は、幼児向けの「かず・かたち検定」から、11級(小学校1年生程度)、10級(2年生程度)~6級(6年生程度)、5級(中学1年程度)~3級(中学3年程度)、準2級(高校1年程度)、2級(高校2年程度)、準1級(高校3年程度)、1級(大学程度)となっている。

実際に過去の検定で使用された問題が、全ての級で公開されているので、ためしにチャレンジしてみた。

結果は・・・受験は無理だ (>_<); 遠い昔に置き去りにしてきたものが多すぎる。。。。