写真は20年以上も前のものとなりました

つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

朝(うた)

2018年11月18日 | 随想

北日新聞2018年11月17日号記事に、「滑川市出身の音楽家、高階(たかしな)哲夫(1896~1945年)の代表曲「朝」のメロディーがミャンマーの小学校で校歌として活用されている。」「ミャンマーには元々校歌がなく、来日後に初めて校歌の存在を知ったチョウチョウソーさんが「国を離れても校歌があれば故郷を忘れないはず」と考えた。」「「朝」は高階が小田進吾の筆名で作曲、島崎藤村が作詞を担った。1936(昭和11)年にラジオで流れ、国民歌謡の最初のヒット曲となった。「元気で歌いやすく、校歌にふさわしい」。門山さんはさまざまな候補から、プロジェクトの第1号に選んだ。」・・・などという内容の記事が載った。

 

 

 

」という歌は楽譜の冒頭に「力強く元気に」との標語があるくらいだから、確かに元気よく歌う歌なのだろうが、これが果たして「校歌」にふさわしいかどうか・・・。

ネットで検索してみても「歌・高田彬生 コロムビア合唱団」のような、暑苦しい歌い方のものしかヒットしない。作者は、たぶん、こんな歌い方は期待してなかったはずだ。

暑苦しい歌い方と言えば、千の風になって(秋川雅史)のような、勘違いも甚だしい曲も一世風靡する世の中だが、この「朝」という曲はそんな勘違いの歌い方とも断定はできないので、声を張り上げるような歌い方でいいのかもしれないが、個人的にはテノール歌手という人たちは歌詞の内容を理解しないままに、ただデカい声を張り上げるだけの歌い方をしているだけのように思えて、ちょっと好きにはなれない。

 

ところで、先日、勤労感謝の日が、もとは新嘗祭という祝日で、その年の稲の収穫を祝い,翌年の豊穣を祈願する行事だったんだよ、というようなことを話す機会があったのだが、そのとき、ふと頭の中にこの「」の歌のメロディが流れてきて、その最後の部分の、「稲の穂は『』に実りたり・・・」というような歌詞が浮かんできた。

 

そう言えば、お気に入りの うた (2)(2013年07月04日)のところでも「5年ほど前の正月のある日、フッと頭の中にThose were the Days,my friend …」というメロディが浮かんできた。・・・・」と吐露していたことがあったが、ときどき、昔日に口ずさんでいたメロディとかが頭の中に浮かんできたりすることがある。結構いろんな思い出とともに浮かんでくるのである。

で、稲の穂なんだが、「」に実る、ってのは何だろう?と思って調べてみたところ、これ、「木」ではなくて「」だった。なぁんだ、黄色の黄、かよ・・・そ~うだよなぁ、稲が実れば黄色い穂をつけるよなぁ・・・などと、独り合点していた。

そのすぐあとに続くのが「わらじ とくゆえ かまもとれ」だが、ここでの「とく」は「お得」の「得」ではないし、「解く」でもなく、「疾く、早く、という意味である。早くワラジの紐を結べ、と言っている訳だ。

仰げば尊しの歌詞の中の「思えば いと疾し」と同じ「疾」という字を使っている。現代じゃぁあまり使わない字だが、紐解いて言われてみればぴったり来るなぁ、と納得させられる文字でもある。

 

元気一杯のこの歌、朝は一日の始まりだから今日も一日、元気で頑張ろう、という勤労鼓舞の歌であり、島崎藤村の「落梅集」の中の「労働雑詠として、「その1 朝」、「その2 昼」、「その3 暮」という三部作でできているが、作曲者 小田進吾(高階哲夫のペンネーム)は、日本放送協會の「ラヂオ・テキスト  國民歌謠  62輯」(1940.5)の中で、「朝」だけでなく、「昼」と「暮」も作曲して一日の労働の歌を完成させていたのだった。(「朝」だけが歌い続けられたが、他は、あるというだけでその後の進展は定かではない。)

高階哲夫が作曲した曲目がd-scoreの小田進吾のページに一覧で載っている。

高階哲夫、越中おわら節を初めて五線譜に採譜した人物でもある。

 

(次回は「勤労感謝の日」(と、「新嘗祭」)に迫ってみたい。)