写真は20年以上も前のものとなりました

つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

人の心に咲く花は・・・

2017年10月21日 | 随想

もっと早く出会っていたかった本である・・・。

こころ彩る徒然草~兼好さんと、お茶をいっぷく

 

ずっと昔から、徒然草については何箇所かの有名な言い回しの部分に共鳴して、座右の銘満載の書であるとは思っていたが、この書に出会ってみて、ここまで現代人にもわかる言葉で解説してくれた書はなかったなぁ・・・、と感じ入っている。

 

冒頭(ページ順序編集)

第26段の解説では、「人の心に咲く花は、桜の花よりはかなく、移り変わると知ってはいましたが、この恋だけは真実だと思っていました。」と訳された元の原文は、「うつろふ人の心の花に、なれにし年月を思へば、あはれと聞きし言の葉ごとに忘れぬものから、我が世の外(ほか)になりゆくならひこそ、なき人の別れよりもまさりて悲しきものなれ。」・・・・原文を読んでいても何を言わんとしているのかさっぱり意味が読み取れなかったのだが、現代文にして初めて、「ふ~ん、そういうことを言ってたのかょ・・・・」と理解できる次第。文学に心得のない者というのは不憫なものですな。

なるほど、恋心というのは「人の心に咲く花」ですか。昔の歌人は風情がありますなぁ。

 

ついでだから、その他にもいくつか見てみる(赤色部分が「こころ彩る・・・」から)。

 

第3段 よろづにいみじくとも、色好まざらん男(おのこ)は、いとさうざうしく、玉の巵(さかづき)の当(そこ)なき心地ぞすべき。

何もかも優秀であっても、恋の気持ち、ときめきを理解できない男は、非常につまらない人です。例えば、酒を飲もうと思って美しい杯を手に取ったのに、よく見ると、底に穴が開いていて、「これじや、役に立たん」と、がっかりするようなものですよ。

・・・あっ、ちょっと耳が痛いかも(^_^;)

 

第8段 世の人の心まどはす事、色欲にはしかず。人の心はおろかなるものかな。

世の中の人が 心を惑わせる最大の原因は、色欲です。ああ……、男は、なんて愚かなのでしょう。

・・・・仰せのとおりでございまする。

 

第15段 しばし旅だちたるこそ、目さむる心地すれ

どこでもいいから、しばらく旅に出るのは、いいものですよ。

・・・・ですよねぇ。

 

第26段 風も吹きあへずうつろふ人の心の花に、なれにし年月を思へば、あはれと聞きし言の葉ごとに忘れぬものから、我が世の外(ほか)になりゆくならひこそ、なき人の別れよりもまさりて悲しきものなれ。

満開になった桜は、風に吹かれると、すぐに散ってしまいます。人の心に咲く花は、桜よりはかなく、移り変わると知ってはいましたが、この恋だけは真実だと思っていました。

・・・・「人の心に咲く花」は「桜よりはかなく、移り変わる」って・・・、そういうもんです。ホント、痛いほどよく分かります。

 

第137段 万(よろづ)の事も、始め終りこそをかしけれ。男女(おとこおんな)の情(なさけ)も、ひとへに逢ひ見るをばいふものかは。逢はでやみにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとりあかし、遠き雲居を思ひやり、浅茅(あさぢ)が宿に昔をしのぶこそ、色好むとは言はめ。

花や月に限らず、どんなことでも、始めと終わりには、特別に深い味わいがあります。男女の恋愛にしても、いちずに会って契りを結ぶことだけを恋というのでしょうか。契らないで終わってしまった恋のつらさ、せつなさを、しみじみと味わうこともあります。

・・・・達観してらっしゃるので調べてみると、兼好法師さん、若い頃は朝廷を守る警護兵(武士)だったらしい。同じ宮中務めの小弁の局(つぼね)という娘に恋をしたが、娘の親に反対され、失恋したようだ。それで世の中がいやになり、伊賀の地に隠れ住むこととなったようだが、その後も他人の恋文を代筆したり、結構、その道にはまり込んでいたようでもある。それで、いくつもの色恋沙汰にちょくちょくとコメントしていたみたいなのだ。

 

ところで、冒頭の、あまりにも有名な端書きである、「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」の言わんとする内容だが、その前半部分は本ブログのタイトルにも登場してもらっており、因縁浅からぬものがある訳だが、後半の部分「あやしうこそものぐるほしけれ」の内容が「何のこっちゃ?」のまま ず~っと過ごしてきた。

 

徒然草 現代語訳つき朗読」では、「特にやることもないままに、一日中硯にむかって、心に浮かんでは消えていく何ということも無いことを、なんとなく書き付けると、あやしくも狂おしい感じだ」と口語訳しており、今回購入した「こころ彩る・・・」では、「これといってすることのない、自由気ままな時間に、心に浮かんでくるつまらないことを、とりとめもなく書き続けていると、妙に気が狂いそうになってくるのです。」と意訳している。

ん~っ、どうも「狂おしい」とか「気が狂いそう」という様子がちょっと想像できない。(パニック障害とか、なのかな?とも思ってしまうのだが、違うだろな。)

 

吾妻利秋訳では、「むらむらと発情したまま一日中、硯とにらめっこしながら、心の中を通り過ぎてゆくどうしようもないことをだらだらと書きつけているうちに、なんとなく変な気分になってしまった」というものだが、何故、いきなり「むらむらと発情」しているのかの状況が掴めない。まぁ徒然草全編を通じての内容は、思いの外、隠居坊主のくせにやたら色恋沙汰にも造詣が深いようで、徒然草そのものは高校の教科書あたりで載っていたのだろうけど、そんなん、教員風情に教えれる訳ゃねぇだろうし、坊主とはいえ根が色欲で悶々としていたのだとしたら、「むらむらと発情したまま一日中」というのは納得できないことはない。ぅん。

 

琵琶法師ならぬ疑多法師「うた」に関する戯れ言 (2015年5月5日)の末尾にて初出) を標榜する我が身としては、次のように意訳してみた。

日がな一日(夜がな夜っぴて)、ボケーっと画面に向かって思いつくままにキーボードを叩いていると、そのうちに何を書こうとしていたのかも忘れたりする」(あっ、これ、認知症の始まりかもしれねぇな、ヤベェ。運転中に行き先を忘れた、なんてこともあったし・・・・。)

現代に置き換えてみれば、「硯に筆」はPCに向かっている姿だろうし、「あやしうこそものぐるほしけれ」という「こそ~けれ」の強調部分だが、これを抜いてみると、「あやしく、ものぐるほし」となり、「あやし」つまり「けしからぬ、気がかりな」、「ものぐるほし」つまり「気持ちが高ぶる、ばかげている」、ということで、意訳すれば「あぁくっだらねぇ」という状態を具体的に言い表せばいい訳だと解釈してみた。原文とは当たらずとも遠からず、といったところではないだろうか。(^_^;)

ただし、定説となっているのは、「何かに取り憑かれたように筆が止まらない」という解釈らしいので・・・、全くの正反対になってるようであるが、この書は、そんなに一気に書き上げられたものはなく、数十年にわたってチマチマと書いていったものを集めたもののようなので、そんなに激しいタッチではないのでは、と考えている。

 

ちなみに、「仰げば尊し」の「今こそ別れめ」が、「こそ~め」という使い方で有名だが、強調部分の「こそ~め」を抜いてみると、「さぁお別れだ」くらいのこと。ここらへんのことは、以前、「ほたるのひかり(2014年3月4日)」の後半部分で深く突っ込んでいるので、そっちへ飛んでみてね。 

 

「恋」を「人の心に咲く花」となぞらえた徒然草だが、もちろん、内容はそれだけに偏っている訳ではない。どちらかというと人生へのアドバイスというか、生きていく上で参考になるようなエッセー集であり、その一部が色恋沙汰の部分なのだろう。「こころ彩る・・・」の書の帯には、

●心を磨いて、すてきな人を目指しましょう

●みんなと一緒にいるのに、なぜ、「独りぼっちだな」と感じるのか

●旅に出るのは、いいものですよ

●この恋だけは、真実だと思っていました

●調子に乗って、ふざけると、大きな失敗をしますよ

●人は、勝手なことを言うものです

●これを守れば、あらゆる失敗がなくなります

という紹介もある。現代文にしたことで本来の趣旨や意味が、あるいは取り違えられた部分もあるだろうとは思うが、今までになく、古典に親しみを寄せてくれた本であることは間違いない。

副題が「兼好さんと、お茶をいっぷく」となっている。気軽に楽しめる本である。