写真は20年以上も前のものとなりました

つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

沈思黙考

2024年05月29日 | 随想
沈思黙考、だが、まとまらず・・・・・

何について黙考しているのかといえば、少子化だったり、地域であったり、自衛隊であったり、神事であったり、税制であったり、大麻であったりと、うんぬんかんぬん多種多様で、どうにもまとまらずに七転八倒しているのだが、どうもそれらの原因が一か所に収束しそうな氣もしていて、ここらあたりまでくると、ここから先はどうも体力勝負のような氣もしている。

と、いうわけで、少し氣持ちを入れ替えてみると、最近の若い者(と、いっても我が世代よりも少し年下の年代の人たち,と言ったほうが良いかも)が使っている言葉で、違和感と氣持ち悪さを感じるのが「うちの奥さん」という言い方。
自分の配偶者のことを話すときに使われてるんだが、「ん? 今どきゃ、子どもでも他人に自分の母親のことを話すときゃ『ボクのおかあさんが・・・』とか言わなくて、ちゃんと『母が・・・』って言うぞ?」と思ってしまうのだ。
ぅ~む、つまり、子ども以下っちゅう訳であって、まぁ憐みの眼で接しておいたほうが良いのかもしれぬ。
」とのたまっている御仁もいらっしゃるんだが、これは、さすがに、今更、家父長制でもないだろう、と言いたくもなるってぇもんだ。
公けの場で配偶者をなんて紹介する?」というサイトにも、「奥さん」というのは「他人の妻を敬って呼ぶ言葉」「嫁」っていうのは「息子の妻のことを呼ぶ言葉」、などと解説してある。
ぅん、そうだろう、そうだろう。

ただ、このページでは「かみさん」というのが出て来ず、「配偶者の呼び方の正解は?」というページには書いてあるんだけれど、そこでは、「かみさん」という言い方は「口うるささや嫉妬心を揶揄する言い方」、ということでかなり否定的なとらえ方がなされている。そうかなぁ・・と疑問符がわやわやと湧いてくるんだが。
両サイトで肯定的な「パートナー」とかなんぞよりもよっぽど味わいもあっていいと思うんだけどなぁ。まぁ、そんなに目くじらを立てるようなことでもないのかもしれないが、こういうところにも、例のLGBTQとかが入り込んでいるような氣がして、若干、薄氣味悪さを感じてしまう。
マイノリティは尊重しなくちゃならねぇんだろうが、一歩間違えると民主主義の根幹が壊れてしまう。
まぁ活動家の連中ってぇのは、それが究極の目的なのかもしれねぇが。

そう、確かに家父長制というものには、時代の複雑な背景もあったりして、今の価値観でみれば、そりゃぁいろいろと欠陥だらけの風潮だったのかもしれないが、いつも言ってるように、現在の価値観で過去を裁いてはならない。そんなことをすりゃ昔の武士なんかは銃刀法違反だし、多くは殺人者だっただろう。
個人的な考えでは、家父長制というものを成立させていた「家」という考え方、「大家族」という構成は今こそ復活させたほうが良いと思われるし、その思想的背景としてあった親孝行などという教え、それらをわかりやすく説く教育勅語などは、俗に言われる危険思想などでは全くなく、むしろ、日本人としては素直に受け入れることのできる教えではないだろうか。
危険思想だと教えられてきたことこそが、この国自身を貶めさせる危険思想だったのではないだろうか。

「常識と理性が対立したら、理性の方が正しい」という考え方は、ここ数年、つとに感じさせられてきた。ほとんど、それらの「常識」というのは、マスコミのでっち上げでしかなかったことが、じわじわと証明されてきつつある。コロナしかり、ウクライナしかり、自民党しかり、慰安婦しかり、半導体しかり・・・。

アメリカの歴史学者ジェイソン・モーガンという方が、我々日本の男たちに、「男として恥ずかしくないか?」と問いかけている。
やはり、WGIPについて考えていかねばならないだろう。

WGIP.jpg

以下を参考に、ばっさりと結論に持っていきたいところだ。