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Retro-gaming and so on

ブラック・レイン

7月に入ってから10日以上経っている。もはや半月を過ぎようか、と言う辺りまで進んでいる。
で分かったこと。
BS11を流しっぱなしにしてたんだが、結果、今期は深夜アニメなんざ観なくても良い、って事だ。
今年の夏はクソだらけ。それが結論だ。殆ど蝿がタカッてるクソ、ってな状態だ。
いや、正確に言うとルミナスウィッチーズだけはどうなるか分からん。ただし、テーマ的には「音楽」なんで、またクソみたいな下手な歌を声優が歌いだしたら激怒する自信がある(笑)。二話次第だなぁ。
いずれにせよ、今期はマジメにアニメを観なくて良い、って事だ。従って時間が余る。

と言うわけで、暫く、観てない映画を消化したり、あるいは過去観た映画で、傑作じゃないブツでもある程度紹介していこうか、とか思ってる。
大体、人生に於いての課題、「オーメンシリーズ」をまだ完全に見終わってないので(1だけ観て2と3にはまだ手をつけていない)今年の夏で決着を付けたい意向だ。
ってか夏休みの宿題かよ(爆

ゴーストバスターズと言えばシガニー・ウィーヴァー、シガニー・ウィーヴァーと言えばエイリアン、エイリアンと言えばリドリー・スコットって連想で、だ。
今回は「エイリアン」「ブレードランナー」で有名なリドリー・スコット監督の作品、「ブラック・レイン」(1989年)を取り上げよう。

さてリドリー・スコット監督。監督作品のエイリアンもブレードランナーも傑作中の傑作、って事に異論がある人はいないだろう。そういう傑作をモノにしている監督ではある。
ところが全般的な「仕事」から言うと「どれもこれも傑作」ってワケじゃあないんだよな・・・・・ぶっちゃけ。うん。
そして今回取り上げる「ブラック・レイン」もそういう意味で言うと問題作だ・・・知ってる人は知ってるだろう、なんせ日本の名優「松田優作」の最後の出演作、って事になっている。



まぁ、そういう事も重なって、この「作品」に対する論評は実はかなり難しかったんだよ・・・なんせ日本がこの「ハリウッド映画」に関わってるしな。名優、高倉健まで出演してる。従って忖度としては真正面からこの映画をどーの、とか言うのが難しい、と。



少なくとも1990年代辺りはそういう雰囲気だったんだ。
でも健さんも亡くなったし。もうエエやろ、と。大体若い人たちはこんな映画があった、って知らんだろうし、そしてやっぱ当時劇場公開で観た人も既に「そんな映画があった」って事さえ忘れてるんとちゃうんか、と。

ブラック・レイン。面白くない、とは言わない。しかし、ハッキリ言っちゃえば「得意技を封じられた」ハリウッドアクション映画だ。ここで言う「得意技」とは。街中で拳銃をぶっ放し、悪い奴らをぶっ殺す王道の刑事アクション。それを「封じられた」ままでストーリーが進行していく。従って「苦しい」んだよ(笑)。
これはだからヒッジョーに不思議な企画なの。フツーに作ればドッカーンって色々爆発する「痛快アクション大作」になるだろうに、ニューヨークの刑事が「日本人犯罪者を日本に連れてきちゃった為に」拳銃を使えなくなる。要するに「手足を縛られたまま」ストーリーが進行する。いや、その辺は「映画でリアルじゃないんで」ってんで日本でも拳銃バンバン撃たせりゃエエのに、ヘンなトコでリアルにこだわってるんだな(笑)。だから日本のヤクザ vs. ニューヨークコップで派手なドンパチすりゃあエエのにそれが出来ない(笑)。捜査でも蚊帳の外だし。何か苦虫を噛み潰したような渋い展開の、エンターテインメントになりきれてない映画なんだ。
元々高倉健だってヤクザ映画でガンガン慣らした人なんで、アクションはもってこいの人なのに、クソマジメで純朴な刑事の役目になっちゃって、「高倉健の活躍」を期待してた人は肩透かし食らったんじゃなかろうか。



主人公のニック刑事がニューヨークで行った汚職に付いて、純朴な高倉健が

「僕は、いけない、と思うんだな。チャーリーさん、に対しても良くない。僕に対しても、不誠実、なんだな。」

とまるで裸の大将がニューヨークの刑事に人の道を解くような事になってる(英語だから・笑)。
一体アメリカ人が「道徳を日本人に説かれるアメリカ人」を観てどう思うんだろうか。それともそうならざるを得ない程アメリカの警察は腐敗してるのだろうか。

と、どうも全て合わせて考えてみても、この映画は弱いのである。ただし、松田優作の狂気を孕む演技は今見ても素晴らしい。
単純に言うと、松田優作は殆ど英語を喋らない。そして彼が敵対するヤクザと話する時は殆ど日本語で重要箇所以外は全て翻訳が付いてないで隠されている。従って「不気味な」「東洋人の」「狂った殺人鬼」として見ると、確かに松田優作は最高の存在感を主張してるんだ(※1)。
なんだか良く分からん事を話してる松田優作と日本のヤクザ、と西欧人の目には写り、その辺が彼らに対するこの映画の「面白さ」になるのかもしれんが、生憎日本人の目から見ると日本人同士が「何を話してるのか」ってのは丸わかりだ。
従って「言語がわからない事による深み」なんて誤解が生じない。「割にありきたりなヤクザ映画の設定だよな〜」と冷めちゃうと言うか(笑)。
そう、だからやっぱこの映画ってアメリカ人が英語で観て、「日本語で何喋ってるのかサッパリわからない」状態で観なければ面白くないのかも。
とまぁ、ハッキリ言っちゃって、色々とビミョーな映画なのである。



主演はマイケル・ダグラス。演じるニック・コンクリン刑事は賭けレースまで行っている不真面目なニューヨークの警察官だ。
彼は麻薬ディーラーと金をやりとりしてる、と思われてたニューヨーク市警の同僚と共に、金を受け取ってたのではないか、と嫌疑をかけられている。
そんな中、ある日、相棒のチャーリー・ビンセントとランチをしていたら、そのレストランに日本のヤクザ(松田優作)が入ってきて日本人の客(ヤクザ)を惨殺する。




先にも書いた通り、このシーンは「日本語で会話が進んでいく」が全く英語でのテロップが入らない。
従って、現実に起きた場合、「何が起きてるのかサッパリわからない」状態でいきなり人が殺される、と言う展開になる。そういう演出を狙ってるんだな。
(だから現場にいた当事者のニックもチャーリーもここでは「何が起こってるのか」全くついていってない)





白昼のレストラン、公衆の面前で2人も刺殺して堂々と逃げ出す松田優作。
ニックとチャーリーはなんとか松田優作を取り押さえる事に性交成功する。





さて、松田優作、映画内では佐藤だが、は黙秘を続ける。そして、日本の在米大使館が出てきて、日本に身柄を引き渡して欲しい、と言う要求がくる。
憤るニックだったが、上司も「汚職疑惑を逸して日本で休暇を取ってくると良い」と気を利かせてくれ、結局日本に佐藤を護送する事を引き受ける。



そして日本の伊丹空港(※2)で「大阪府警」を名乗る者たちが佐藤の身柄を引き受ける。


ガッツ石松ハリウッド映画デビュー(笑)。

しかし彼らは真っ赤な偽物、佐藤の部下のヤクザ達で、ニックとチャーリーはまんまと一杯食わされる。
佐藤を逃した事で大阪府警のニックやチャーリーへの当たりも強い。



「捜査させろ」と強弁するチャーリーに対して、「銃を預けろ。オブザーバーに徹せよ」と言う大阪府警。



そして大阪府警は監視役として英語が堪能な松本正博警部補(演: 高倉健)を2人に付ける。



そこで「捜査」に同行しようとするニックとチャーリーだが、日本語が全く喋れない2人。捜査も蚊帳の外で・・・と言うカンジで苦労する。
とまぁ、そういうストーリーだ。

この映画の見どころ、と言うのは、ぶっちゃけ、「ハリウッドの目から見た大阪の街並み」になるんじゃないか。うん。それだけが異様に美しい映画だ。






















大阪の街並みにいるハリウッド俳優、って図式の異物感が凄まじい。
言い換えると実はそれこそがこの映画のテーマになっていて、なんとも「やりづらい」日本の環境で旨味を殺される「ハリウッド型の刑事物語」になる。そしてそれが「文化の違い」を知らしめるわけだが、「日本」を学習するには米国人にとっては良い「教育材料」なのかもしれないが、爽快感が全くない、重苦しい映画となっている。
まぁ、今の時代だと観ても観なくてもどっちでもいい映画だろう(笑)。ただ、先程書いた通り、80年代末期の「大阪の街並み」がハリウッドを通して「保存されてる」と言う意味では、大阪に何らかの思い入れがあるのなら、観て損はしないかもしんない。
わっかんねぇけどな(笑)。

※1: 言い換えると、アメリカ人が感じる東洋人の「不気味さ」、つまり差別感情を掻き立てるモノを具現化してたと言える。太平洋戦争で「正義の」アメリカ人が戦った「日本人」を具現化したのが、この松田優作演じる「佐藤」だったと言えるだろう。
余談だが、この「佐藤」の行動は徹頭徹尾実は「非合理」な行動をしている。冒頭でも偽札の原版を入手出来た時点で「作戦成功」な筈なのに、「ひよっこだ」と煽られて(恐らく)計画に無かった殺人を犯す。サッサとトンズラすればいいのに(笑)。だから捕まるのだ(笑)。
こんなアタマの悪いチンピラみたいな行動で果たして(ヤクザとはいえ)人/舎弟がついて来るのか(笑)。

「さすが佐藤!おれたちにできない事を平然とやってのけるッ
 そこにシビれる!あこがれるゥ!」

なんつーこたぁねぇのである(笑)。
チャーリーを殺すのも意味が分からない。ニックとチャーリーはほっとけばどの道N.Y.へと帰還せざるを得ないのである。わざわざニック達を敵視/監視してチャーリーを殺す必要性なんざないのだ。何故なら彼らは大阪府警にとっても「招かれざる客」であり、マトモに捜査もさせて貰えないのだ。むしろチャーリーを殺してしまった為にニックが激昂して捜査が進んじまうわけだ(笑)。全く「アタマの足りない」行動であり、そんなバカはヤクザ世界でも出世出来るわけがないのだ(笑)。
まぁ、佐藤が「アタマの良い行動」をすれば映画として成立せんが(笑)、言い換えるとこの辺の佐藤の行動は「佐藤の異常さ/残忍さ」を語る為だけの行動であって、しかしながら背景まで考察すると明らかに矛盾だらけなんだ。要するに脚本が弱いんだな。
菅井は「終戦直後、アメリカ人がやってきて佐藤のようなアメリカナイズされた輩が増えた」と言うが、「アメリカナイズ」とは言い換えれば(歴史・伝統が無いからこその)「合理性」である。ところが佐藤の行動にはその合理性が欠けてるんだ。
冒頭の「ひよっこ」と煽られて激昂する、とかむしろ、佐藤の実態は「メンツを重視する」「古来からの非合理なヤクザ」であって、そう考えると実のトコ、菅井と佐藤は同じ穴の狢だ。結果、菅井 vs. 佐藤は単なる世代間闘争の問題であり、また、「似たもの同士」っつーか「同族嫌悪」っつーか、まぁ、結果、メチャクチャ陳腐な構図しかそこには浮き上がってこないのだ。

※2: 2022年現在、1990年代半ばから「国内線のみ」の空港になってしまったようだが、この映画が撮られて公開された当時は、大阪国際空港の名に恥じず、国際線もあった。
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