【子どもの金銭感覚】
ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん?
子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ(失敗危険度★★★★)
++++++++++++++++
子どもにホイホイと、
ものを買い与えてはいけない。
そんなことをすれば、子どもは、
スポイルされるだけ。
++++++++++++++++
●年長から小学二、三年にできる金銭感覚
子どもの金銭感覚は、年長から小学2、3年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。
●100倍論
そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、100倍にして考えるとよい。100円のものなら、100倍して、1万円。1000円のものなら、100倍して、10万円と。
つまりこの時期、100円のものから得る満足感は、おとなが1万円のものを買ったときの満足感と同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて100円や1000円のものでは満足しなくなる。中学生になれば、1万円、10万円。さらに高校生や大学生になれば、10万円、100万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子どもに安易にものを買い与えることは、やめたほうがよい。
●やがてあなたの手に負えなくなる
子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは高価であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤解。あるいは実際には、逆効果。
一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。子どもはさらに高価なものを求めるようになる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあなたの手に負えなくなる。
先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になるゲームソフトを手に入れるために、60歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでいるというのだ。しかも徹夜で!
そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。「かわいい孫のためです」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を同時に中継していたが、子ども(孫)は、こう言っていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがとう」と。
●この話はどこかおかしい
一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖母が、孫(小学5年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。
感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などというものは、同じような苦労した人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん」にすぎないのではないのか。
●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け
イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だが、これはまさに子育ての核心をついた格言である。
少し前、どこかの自動車のコマーシャルにもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太くする。
●モノに固執する国民性
日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。
さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんなプレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。
Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司
【評論家の宿命】
一方的にものを言わないでほしい!
視野のせまい親たち(失敗危険度★★)
++++++++++++++++
ものをこうしてオープンに書くことに
は、いつも、批判がともなう。
しかしその批判を恐れていたら、
ものなど、書けない!
++++++++++++++++
●摩擦はつきもの
こういう仕事、つまり評論活動をしていると、いつもどこかで摩擦を生ずる。それは評論の宿命のようなものだ。たとえば以前、「離婚家庭で育った子どもは、離婚率が高い」ということを、新聞のコラムに書いたことがある。あくまでもそれはコラムの一部であり、そのコラム自体が離婚問題を考えたものではない。
が、その直後から、10人近い人からはげしい抗議が届いた。私は何も離婚を批判したのでも、また離婚が悪いと書いたのでもない。ただの統計上の事実を書いた。それに離婚が離婚として問題になるのは、離婚にまつわる家庭騒動であって、離婚そのものではない。この騒動が子どもの心に影響を与える。
が、そういう人たちにはそれがわからない。「離婚家庭でもがんばっている子どもがいる」「離婚者に対する偏見だ」「離婚家庭で育った子どもは幸福になれないということか」など。こうしたコラムを不愉快に思う気持ちはわからないでもないが、どこかピントがズレている。ほかにも似たような事件があった。
●「一方的にものを言わないでほしい」
同じく本の中で、「公務員はヒマをもてあましている」というようなことを書いた。これはお役所の外では、常識と言ってもよい。その常識的な意見を書いた。が、それについても、「私の夫は毎朝6時に起きて……」と、長々と、数ページにもわかって、その夫の生活をことこまかに書いてきた人がいた。そして最後に、「私の夫のようにがんばっている公務員も多いから、一方的にものを言わないでほしい」と。さらにこんなことも。
●いじめられる側にも問題
20年ほど前から、いじめが大きく話題になり始めた。その前は校則が話題になったが、ともかくもそのいじめが話題になった。私も地元のNHKテレビに2度ほどかりだされて意見を述べることになったが、そのときのこと。
そのいじめを調べていくうちに、当時、いくつかの「おやっ」と思うような事実に出くわした。もちろんいじめは悪い。許されないことだが、しかしいじめられる側にも、まったく問題がないというわけではない。もっともその問題というのは、子ども自身の問題というよりは、育て方の問題といってもよい。
いじめられっ子のひとつの特徴は、社会性のなさ。乳幼児のときから親子だけのマンツーマンだけの環境で育てられていて、問題を解決するための技法を身につけていないということがある。いじめられても、いじめられっぱなし。やり返すことができない。たとえばブランコを横取りされても、それに抗議することができない、など。
そこで私は「家庭環境にも問題があるのでは」と言った。が、これがよくなかった。その直後から猛烈な抗議の嵐。ものすごいものだった。(テレビの反響は、新聞や雑誌の比ではない!)「あなたは評論家として、即刻筆を折れ!」というのまであった。
●個人攻撃をしているのではない!
こうした抗議は、評論活動にはつきもの。いちいちそれで滅入っていては、評論などできない。しかしどうしてこうも、こういう人たちは近視眼的なのだろうかと思う。私は全体として、ものの本質を問題にしているのであって、決して個人攻撃をしているわけではない。
いじめにしても、私はいまだけって一度もそれを是認したことはない。が、こういう人たちは、文の一部に集中的にスポットをあて、あたかも自分が攻撃されたかのように思うらしい。学校の先生とて、例外ではない。親たちの執拗な抗議を受けて、精神を病んだり、転校をさせられた先生は少なくない。こんなことも……。
●学校の先生もたいへん!
まだバブル経済、はなやかりしころのこと。ある学校のある先生が、たまたま仕事を手伝いにきていた一人の母親に、ふとこう口をすべらせてしまった。「塾へ、4つも5つも行かせているバカな親がいる」と。その先生は「バカ」という言葉を使ってしまった。これがまずかった。
当時(今でもそうだが)、子どもを塾へ4つや5つ行かせている親は珍しくなかった。水泳教室、音楽教室、算数教室、英語教室と。しかしその話は一夜のうちに、父母全員にいきわたってしまった。そして「Aさんがバカと言われた」「いや、これはBさんのことだ」となってしまった。結局この問題は教育委員会レベルの問題にまで発展し、その先生は任期半ばで、その学校を去ることになってしまった。
視野が狭くなればなるほど、結局は自分の姿が見えなくなる。そして自分の姿を見失えば見失うほど、その人は愚かになる。これも子育てでハマりやすいワナの一つということになる。
ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん?
子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ(失敗危険度★★★★)
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子どもにホイホイと、
ものを買い与えてはいけない。
そんなことをすれば、子どもは、
スポイルされるだけ。
++++++++++++++++
●年長から小学二、三年にできる金銭感覚
子どもの金銭感覚は、年長から小学2、3年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。
●100倍論
そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、100倍にして考えるとよい。100円のものなら、100倍して、1万円。1000円のものなら、100倍して、10万円と。
つまりこの時期、100円のものから得る満足感は、おとなが1万円のものを買ったときの満足感と同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて100円や1000円のものでは満足しなくなる。中学生になれば、1万円、10万円。さらに高校生や大学生になれば、10万円、100万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子どもに安易にものを買い与えることは、やめたほうがよい。
●やがてあなたの手に負えなくなる
子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは高価であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤解。あるいは実際には、逆効果。
一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。子どもはさらに高価なものを求めるようになる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあなたの手に負えなくなる。
先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になるゲームソフトを手に入れるために、60歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでいるというのだ。しかも徹夜で!
そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。「かわいい孫のためです」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を同時に中継していたが、子ども(孫)は、こう言っていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがとう」と。
●この話はどこかおかしい
一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖母が、孫(小学5年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。
感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などというものは、同じような苦労した人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん」にすぎないのではないのか。
●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け
イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だが、これはまさに子育ての核心をついた格言である。
少し前、どこかの自動車のコマーシャルにもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太くする。
●モノに固執する国民性
日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。
さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんなプレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。
Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司
【評論家の宿命】
一方的にものを言わないでほしい!
視野のせまい親たち(失敗危険度★★)
++++++++++++++++
ものをこうしてオープンに書くことに
は、いつも、批判がともなう。
しかしその批判を恐れていたら、
ものなど、書けない!
++++++++++++++++
●摩擦はつきもの
こういう仕事、つまり評論活動をしていると、いつもどこかで摩擦を生ずる。それは評論の宿命のようなものだ。たとえば以前、「離婚家庭で育った子どもは、離婚率が高い」ということを、新聞のコラムに書いたことがある。あくまでもそれはコラムの一部であり、そのコラム自体が離婚問題を考えたものではない。
が、その直後から、10人近い人からはげしい抗議が届いた。私は何も離婚を批判したのでも、また離婚が悪いと書いたのでもない。ただの統計上の事実を書いた。それに離婚が離婚として問題になるのは、離婚にまつわる家庭騒動であって、離婚そのものではない。この騒動が子どもの心に影響を与える。
が、そういう人たちにはそれがわからない。「離婚家庭でもがんばっている子どもがいる」「離婚者に対する偏見だ」「離婚家庭で育った子どもは幸福になれないということか」など。こうしたコラムを不愉快に思う気持ちはわからないでもないが、どこかピントがズレている。ほかにも似たような事件があった。
●「一方的にものを言わないでほしい」
同じく本の中で、「公務員はヒマをもてあましている」というようなことを書いた。これはお役所の外では、常識と言ってもよい。その常識的な意見を書いた。が、それについても、「私の夫は毎朝6時に起きて……」と、長々と、数ページにもわかって、その夫の生活をことこまかに書いてきた人がいた。そして最後に、「私の夫のようにがんばっている公務員も多いから、一方的にものを言わないでほしい」と。さらにこんなことも。
●いじめられる側にも問題
20年ほど前から、いじめが大きく話題になり始めた。その前は校則が話題になったが、ともかくもそのいじめが話題になった。私も地元のNHKテレビに2度ほどかりだされて意見を述べることになったが、そのときのこと。
そのいじめを調べていくうちに、当時、いくつかの「おやっ」と思うような事実に出くわした。もちろんいじめは悪い。許されないことだが、しかしいじめられる側にも、まったく問題がないというわけではない。もっともその問題というのは、子ども自身の問題というよりは、育て方の問題といってもよい。
いじめられっ子のひとつの特徴は、社会性のなさ。乳幼児のときから親子だけのマンツーマンだけの環境で育てられていて、問題を解決するための技法を身につけていないということがある。いじめられても、いじめられっぱなし。やり返すことができない。たとえばブランコを横取りされても、それに抗議することができない、など。
そこで私は「家庭環境にも問題があるのでは」と言った。が、これがよくなかった。その直後から猛烈な抗議の嵐。ものすごいものだった。(テレビの反響は、新聞や雑誌の比ではない!)「あなたは評論家として、即刻筆を折れ!」というのまであった。
●個人攻撃をしているのではない!
こうした抗議は、評論活動にはつきもの。いちいちそれで滅入っていては、評論などできない。しかしどうしてこうも、こういう人たちは近視眼的なのだろうかと思う。私は全体として、ものの本質を問題にしているのであって、決して個人攻撃をしているわけではない。
いじめにしても、私はいまだけって一度もそれを是認したことはない。が、こういう人たちは、文の一部に集中的にスポットをあて、あたかも自分が攻撃されたかのように思うらしい。学校の先生とて、例外ではない。親たちの執拗な抗議を受けて、精神を病んだり、転校をさせられた先生は少なくない。こんなことも……。
●学校の先生もたいへん!
まだバブル経済、はなやかりしころのこと。ある学校のある先生が、たまたま仕事を手伝いにきていた一人の母親に、ふとこう口をすべらせてしまった。「塾へ、4つも5つも行かせているバカな親がいる」と。その先生は「バカ」という言葉を使ってしまった。これがまずかった。
当時(今でもそうだが)、子どもを塾へ4つや5つ行かせている親は珍しくなかった。水泳教室、音楽教室、算数教室、英語教室と。しかしその話は一夜のうちに、父母全員にいきわたってしまった。そして「Aさんがバカと言われた」「いや、これはBさんのことだ」となってしまった。結局この問題は教育委員会レベルの問題にまで発展し、その先生は任期半ばで、その学校を去ることになってしまった。
視野が狭くなればなるほど、結局は自分の姿が見えなくなる。そして自分の姿を見失えば見失うほど、その人は愚かになる。これも子育てでハマりやすいワナの一つということになる。