最前線の育児論byはやし浩司

★子育て最前線でがんばる、お父さん、お母さんのための支援サイト★はやし浩司のエッセー、育児論ほか

●子どもの金銭感覚  ●評論家の宿命

2006-07-28 07:57:39 | Weblog
【子どもの金銭感覚】

ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん?
子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ(失敗危険度★★★★)

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子どもにホイホイと、
ものを買い与えてはいけない。

そんなことをすれば、子どもは、
スポイルされるだけ。

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●年長から小学二、三年にできる金銭感覚

 子どもの金銭感覚は、年長から小学2、3年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。

●100倍論

 そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、100倍にして考えるとよい。100円のものなら、100倍して、1万円。1000円のものなら、100倍して、10万円と。

つまりこの時期、100円のものから得る満足感は、おとなが1万円のものを買ったときの満足感と同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて100円や1000円のものでは満足しなくなる。中学生になれば、1万円、10万円。さらに高校生や大学生になれば、10万円、100万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子どもに安易にものを買い与えることは、やめたほうがよい。

●やがてあなたの手に負えなくなる

子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは高価であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤解。あるいは実際には、逆効果。

一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。子どもはさらに高価なものを求めるようになる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあなたの手に負えなくなる。

先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になるゲームソフトを手に入れるために、60歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでいるというのだ。しかも徹夜で! 

そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。「かわいい孫のためです」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を同時に中継していたが、子ども(孫)は、こう言っていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがとう」と。

●この話はどこかおかしい

 一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖母が、孫(小学5年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。

感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などというものは、同じような苦労した人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん」にすぎないのではないのか。

●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け

 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だが、これはまさに子育ての核心をついた格言である。

少し前、どこかの自動車のコマーシャルにもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太くする。

●モノに固執する国民性

日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。

 さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんなプレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

【評論家の宿命】

一方的にものを言わないでほしい!
視野のせまい親たち(失敗危険度★★)

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ものをこうしてオープンに書くことに
は、いつも、批判がともなう。

しかしその批判を恐れていたら、
ものなど、書けない!

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●摩擦はつきもの

こういう仕事、つまり評論活動をしていると、いつもどこかで摩擦を生ずる。それは評論の宿命のようなものだ。たとえば以前、「離婚家庭で育った子どもは、離婚率が高い」ということを、新聞のコラムに書いたことがある。あくまでもそれはコラムの一部であり、そのコラム自体が離婚問題を考えたものではない。

が、その直後から、10人近い人からはげしい抗議が届いた。私は何も離婚を批判したのでも、また離婚が悪いと書いたのでもない。ただの統計上の事実を書いた。それに離婚が離婚として問題になるのは、離婚にまつわる家庭騒動であって、離婚そのものではない。この騒動が子どもの心に影響を与える。

が、そういう人たちにはそれがわからない。「離婚家庭でもがんばっている子どもがいる」「離婚者に対する偏見だ」「離婚家庭で育った子どもは幸福になれないということか」など。こうしたコラムを不愉快に思う気持ちはわからないでもないが、どこかピントがズレている。ほかにも似たような事件があった。

●「一方的にものを言わないでほしい」

同じく本の中で、「公務員はヒマをもてあましている」というようなことを書いた。これはお役所の外では、常識と言ってもよい。その常識的な意見を書いた。が、それについても、「私の夫は毎朝6時に起きて……」と、長々と、数ページにもわかって、その夫の生活をことこまかに書いてきた人がいた。そして最後に、「私の夫のようにがんばっている公務員も多いから、一方的にものを言わないでほしい」と。さらにこんなことも。

●いじめられる側にも問題

 20年ほど前から、いじめが大きく話題になり始めた。その前は校則が話題になったが、ともかくもそのいじめが話題になった。私も地元のNHKテレビに2度ほどかりだされて意見を述べることになったが、そのときのこと。

そのいじめを調べていくうちに、当時、いくつかの「おやっ」と思うような事実に出くわした。もちろんいじめは悪い。許されないことだが、しかしいじめられる側にも、まったく問題がないというわけではない。もっともその問題というのは、子ども自身の問題というよりは、育て方の問題といってもよい。

いじめられっ子のひとつの特徴は、社会性のなさ。乳幼児のときから親子だけのマンツーマンだけの環境で育てられていて、問題を解決するための技法を身につけていないということがある。いじめられても、いじめられっぱなし。やり返すことができない。たとえばブランコを横取りされても、それに抗議することができない、など。

そこで私は「家庭環境にも問題があるのでは」と言った。が、これがよくなかった。その直後から猛烈な抗議の嵐。ものすごいものだった。(テレビの反響は、新聞や雑誌の比ではない!)「あなたは評論家として、即刻筆を折れ!」というのまであった。

●個人攻撃をしているのではない!

 こうした抗議は、評論活動にはつきもの。いちいちそれで滅入っていては、評論などできない。しかしどうしてこうも、こういう人たちは近視眼的なのだろうかと思う。私は全体として、ものの本質を問題にしているのであって、決して個人攻撃をしているわけではない。

いじめにしても、私はいまだけって一度もそれを是認したことはない。が、こういう人たちは、文の一部に集中的にスポットをあて、あたかも自分が攻撃されたかのように思うらしい。学校の先生とて、例外ではない。親たちの執拗な抗議を受けて、精神を病んだり、転校をさせられた先生は少なくない。こんなことも……。

●学校の先生もたいへん!

 まだバブル経済、はなやかりしころのこと。ある学校のある先生が、たまたま仕事を手伝いにきていた一人の母親に、ふとこう口をすべらせてしまった。「塾へ、4つも5つも行かせているバカな親がいる」と。その先生は「バカ」という言葉を使ってしまった。これがまずかった。

当時(今でもそうだが)、子どもを塾へ4つや5つ行かせている親は珍しくなかった。水泳教室、音楽教室、算数教室、英語教室と。しかしその話は一夜のうちに、父母全員にいきわたってしまった。そして「Aさんがバカと言われた」「いや、これはBさんのことだ」となってしまった。結局この問題は教育委員会レベルの問題にまで発展し、その先生は任期半ばで、その学校を去ることになってしまった。

 視野が狭くなればなるほど、結局は自分の姿が見えなくなる。そして自分の姿を見失えば見失うほど、その人は愚かになる。これも子育てでハマりやすいワナの一つということになる。


●茶パツと文化  ●死は厳粛に

2006-07-28 07:36:10 | Weblog

【茶パツと文化】

だれにも迷惑をかけないからいい!
子どもの個性(失敗危険度★★)

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子どもの茶パツが、問題になった。

先日も、ある小学校の先生と電話で、
そんな話題になった。

少し前に書いた原稿を、それについて
書いたものを、拾ってみる。

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●子どもの茶パツ

 浜松市という地方都市だけの現象かもしれないが、どの小学校でも、子どもの茶パツに眉をひそめる校長と、それに抵抗する母親たちの対立が、バチバチと火花を飛ばしている。講演などに言っても、それがよく話題になる。

 まず母親側の言い分だが、「茶パツは個性」とか言う。「だれにも迷惑をかけるわけではないから、どうしてそれが悪いのか」とも。今ではシャンプーで髪の毛を洗うように、簡単に茶パツにすることができる。手間もそれほどかからない。

●低俗文化の論理

 しかし個性というのは、内面世界の生きざまの問題であって、外見のファッションなど、個性とはいわない。こういうところで「個性」という言葉をもちだすほうがおかしい。また「だれにも迷惑をかけないからいい」という論理は、一見合理性があるようで、まったくない。

裏を返していうと、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」ということになるが、「迷惑か迷惑でないか」を、そこらの個人が独断で決めてもらっては困る。こういうのを低俗文化の論理という。こういう論理がまかり通れば通るほど、文化は低俗化する。

文化の高さというのは、迷惑をかけるとかかけないとかいうレベルではなく、たとえ迷惑をかけなくても、してはいけないことはしないという、その人個人を律するより高い道徳性によって決まる。「迷惑をかけない」というのは、最低限の人間のモラルであって、それを口にするというのは、その最低限の人間のレベルに自分を近づけることを意味する。

●学校側の抵抗

で、学校側の言い分を聞くのだが、これがまたはっきりしない。「悪いことだ」と決めてかかっているようなところがある。中学校だと、校則を盾にとって、茶パツを禁止しているところもある。

小学校のばあいは、茶パツにするかしないかは親の意思ということになる。が、学校の校長にしてみれば、茶パツは、風紀の乱れの象徴ということになる。学校全体を包むモヤモヤとした風紀の乱れが、茶パツに象徴されるというわけだ。だから校長にしても、それが気になる。……らしい。

●まるで宇宙人の酒場!

 が、視点を一度外国へ移してみると、こういう論争は一変する。先週もアメリカのヒューストン国際空港(テキサス州)で、数時間乗り継ぎ便を待っていたが、あそこに座っていると、まるで映画「スターウォーズ」に出てくる宇宙の酒場にいるかのような錯覚すら覚える。

身長の高い低い、体形の太い細いに合わせて、何というか、それぞれがどこか別の惑星から来た生物のような、強烈な個性をもっている。顔のかたちや色だけではない。服装もそうだ。国によって、まるで違う。

アメリカ人にしても……、まあ、改めてここに書くまでもない。そういうところで茶パツを問題にしたら、それだけで笑いものになるだろう。色どころか、髪型そのものが、奇想天外というにふさわしいほど、互いに違っている。ああいうところだと、それこそ頭にちょうちんをぶらさげて歩いていても、だれも見向きもしないかもしれない。

●結局は島国の問題?

 言いかえると、茶パツ問題は、いかにも島国的な問題ということになる。北海道のハシから沖縄のハシまで、同じ教科書で、同じ教育をと考えている日本では、大きな問題かもしれないが、しかしそれはもう世界の常識ではない。

 そんなわけでこの問題は、もうそろそろどうでもよい問題の部類に入るのかもしれない。ただこの日本では、「どうぞご勝手に」と学校が言うと、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」という論理ばかりが先行して、低俗文化が一挙に加速する可能性がある。学校の校長にしても、それを心配しているのではないか? 

私にはよくわからないが……。


Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司

【死は厳粛に】

乾電池を入れかえれば動く!
死は厳粛に(失敗危険度★★)

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子どもに「死」を、どのように教えたら
よいか。

言うまでもなく、「死」があるからこそ、
「生」のすばらしさがわかる。

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●死を理解できるのは、3歳以後

 「死」をどう定義するかによってもちがうが、3歳以前の子どもには、まだ死は理解できない。

飼っていたモルモットが死んだとき、「乾電池を入れかえれば動く!」と言った子ども(3歳男児)がいた。「どうして起きないの?」と聞いた子ども(3歳男児)や、「病院へ連れて行こう」と言った子ども(3歳男児)もいた。

子どもが死を理解できるようになるのは、3歳以後だが、しかしその概念はおとなとはかなり違ったものである。3~7歳の子どもにとって「死」は、生活の一部(日常的な生活が死によって変化する)でしかない。ときにこの時期の子どもは、家族の死すら平気でやり過ごすことがある。

●死への恐怖心

 このころ、子どもによっては、死に対して恐怖心をもつこともあるが、それは自分が「ひとりぼっちになる」という、孤立することへの恐怖心と考えてよい。

たとえば母親が臨終を迎えたとき、子どもが恐れるのは、「母親がいなくなること」であって、死そのものではない。ちなみに小学5年生の子どもたちに、「死ぬことはこわいか?」と質問してみたが、8人全員が、「こわくない」「私は死なない」と答えた。1人「60歳くらいになったら、考える」と言った子ども(女子)がいた。

質問を変えて、「では、お父さんやお母さんが死ぬとしたらどうか」と聞くと、「それはいやだ」「それは困る」と答えた。

●死は厳粛に

 子どもが死を学ぶのは、周囲の人の様子からである。たとえば肉親の死に対して、家人がそれを嘆き悲しんだとする。その様子から子どもは、「死ぬ」ということがただごとではないと知る。そこで大切なことは、「死はいつも厳粛に」である。

死を茶化してはいけない。もてあそんでもいけない。どんな生き物の死であれ、いつも厳粛にあつかう。たとえば飼っていた小鳥が死んだとする。そのときその小鳥を、ゴミか何かのように紙で包んでポイと捨てれば、子どもは「死」というものはそういうものだと思うようになる。しかしそれではすまない。

死があるから生がある。死への恐怖心があるから、人は生きることを大切にする。死をていねいにとむらうということは、結局は生きることを大切にすることになる。が、死を粗末にすれば、子どもは生きること、さらには命そのものまで粗末にするようになる。

●死をとおして生きることの大切さを

 どんな宗教でも死はていねいにとむらう。もちろん残された人たちの悲しみをなぐさめるという目的もあるが、死をとむらうことで、生きることの大切さを教えるためと考えてよい。そんなことも頭に入れながら、子どもにとって「死」は何であるかを考えるとよい。