●逃げ場を大切に
どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。もちろん人間の子どもにもある。子どもがその逃げ場へ逃げ込んだら、親はその逃げ場を荒らしてはいけない。子どもはその逃げ場に逃げ込むことによって、体を休め、疲れた心をいやす。
たいていは自分の部屋であったりするが、その逃げ場を荒らすと、子どもの情緒は不安定になる。ばあいによっては精神不安の遠因ともなる。あるいはその前の段階として、子どもはほかの場所に逃げ場を求めたり、最悪のばあいには、家出を繰り返すこともある。逃げ場がなくて、犬小屋に逃げた子どももいたし、近くの公園の電話ボックスに逃げた子どももいた。またこのタイプの子どもの家出は、もてるものをすべてもって、一方向に家出するというと特徴がある。買い物バッグの中に、大根やタオル、ぬいぐるみのおもちゃや封筒をつめて家出した子どもがいた。(これに対して目的のある家出は、その目的にかなったものをもって家を出るので、区別できる。)
子どもが逃げ場へ逃げたら、その中まで追いつめて、叱ったり説教してはいけない。子どもが逃げ場へ逃げたら、子どものほうから出てくるまで待つ。そういう姿勢が子どもの心を守る。が、中には、逃げ場どころか、子どものカバンの中や机の中、さらには戸棚や物入れの中まで平気で調べる親がいる。仮に子どもがそれに納得したとしても、親はそういうことをしてはならない。こういう行為は子どもから、「私は私」という意識を奪う。
これに対して、親子の間に秘密はあってはいけないという意見もある。そういうときは反対の立場で考えてみればよい。いつかあなたが老人になり、体が不自由になったとする。そういうときあなたの子どもが、あなたの机の中やカバンの中を調べたとしたら、あなたはそれを許すだろうか。プライバシーを守るということは、そういうことをいう。秘密をつくるとかつくらないとかいう次元の話ではない。
むずかしい話はさておき、子どもの人格を尊重するためにも、子どもの逃げ場は神聖不可侵の場所として大切にする。
●守護霊にならない
昔、『砂場の守護霊』という言葉があった。今でも、ときどき使われる。子どもたちが砂場で遊んでいるとき、その背後で、守護霊よろしく、子どもたちを見守る親の姿をもじったものだ。
もちろん幼い子どもは、親の保護が必要である。しかし親は、守護霊になってはいけない。たとえば……。
子どもどうしが何かトラブルを起こすと、サーッとやってきて、それを制したり、仲裁したりするなど。こういう姿勢が日常化すると、子どもは自立できない子どもになってしまう。できれば、親は親どうしで勝手なことをしたらよい。
……と書きつつ、こうした親どうしの世界にも、一定のルールがあるという。たとえば母親たちにも序列があって、その母親たちがすわるベンチの位置、場所も、決まっているという。さらに服装、マナーまで。ある母親がそれを話してくれたが、何とも息苦しい世界に思えた。
それはともかくも、子どもの世界のことは子どもに任せる。そういうニヒリズムが、子どもを自立させる。
●同居は、出産前に
ずいぶんと前だが、「好かれるおじいちゃん、おばあちゃん」というテーマで、アンケート調査をしてみた。結果わかったことは、(1)子どもの教育に口を出さない、(2)健康であることがわかった。ついでにした調査では、こんなこともわかった。
「祖父母との同居をどう思うか」という質問だったが、総じてみれば、子どもが生まれる前から同居した例では、「うまくいっている」。しかし子どもが生まれたあと同居した例では、「うまくいっていない」だった。そんなわけで、祖父母と同居するにしても、子どもが生まれる前から同居したほうがよい。
なお、子どもをはさんでの、嫁と舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)との争いは、この世界ではよくある。相談も多い。そういうときは、別居もしくは離婚が考えられないようであれば、母親(嫁)があきらめて、舅、姑に迎合するのがよい。そして母親は母親で、勝手なことをすればよい。「おばあちゃんたちがいらしてくださるから、本当に助かります」と。
おじいちゃん子、おばあちゃん子にも、たしかにいろいろ問題はある。あるが、全体としてみれば、マイナーな問題。デメリットよりも、メリットのほうが多い。だから「あきらめる」。もちろんそうでなければ、別居もしくは離婚を考える。しかしこれは、最終手段。
●許して忘れる
『許して忘れる』の子育て論は、はやし浩司のオリジナルの持論。今では、あちこちで言われるようになった。うれしいことだ。
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もう、10年近く前に書いた原稿を転載します。
中日新聞に掲載済み
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●生きる源流に視点を
ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づき、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、またしかり。
私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りをしていて、息子の一人を助けてくれた。以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。特に二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてたが、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。
昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』とよく言った。戦前の教科書に載っていた話らしい。人というのは、上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子どもが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、すべての問題が解決する。
子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・ため」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。
人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さらに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、その真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談をしてきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受けるたびに、私は頭をかかえてしまう。