最前線の育児論byはやし浩司

★子育て最前線でがんばる、お父さん、お母さんのための支援サイト★はやし浩司のエッセー、育児論ほか

●子育てワンポイノト(3)

2005-11-28 11:51:10 | Weblog

●逃げ場を大切に

 どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。もちろん人間の子どもにもある。子どもがその逃げ場へ逃げ込んだら、親はその逃げ場を荒らしてはいけない。子どもはその逃げ場に逃げ込むことによって、体を休め、疲れた心をいやす。

たいていは自分の部屋であったりするが、その逃げ場を荒らすと、子どもの情緒は不安定になる。ばあいによっては精神不安の遠因ともなる。あるいはその前の段階として、子どもはほかの場所に逃げ場を求めたり、最悪のばあいには、家出を繰り返すこともある。逃げ場がなくて、犬小屋に逃げた子どももいたし、近くの公園の電話ボックスに逃げた子どももいた。またこのタイプの子どもの家出は、もてるものをすべてもって、一方向に家出するというと特徴がある。買い物バッグの中に、大根やタオル、ぬいぐるみのおもちゃや封筒をつめて家出した子どもがいた。(これに対して目的のある家出は、その目的にかなったものをもって家を出るので、区別できる。)

 子どもが逃げ場へ逃げたら、その中まで追いつめて、叱ったり説教してはいけない。子どもが逃げ場へ逃げたら、子どものほうから出てくるまで待つ。そういう姿勢が子どもの心を守る。が、中には、逃げ場どころか、子どものカバンの中や机の中、さらには戸棚や物入れの中まで平気で調べる親がいる。仮に子どもがそれに納得したとしても、親はそういうことをしてはならない。こういう行為は子どもから、「私は私」という意識を奪う。

 これに対して、親子の間に秘密はあってはいけないという意見もある。そういうときは反対の立場で考えてみればよい。いつかあなたが老人になり、体が不自由になったとする。そういうときあなたの子どもが、あなたの机の中やカバンの中を調べたとしたら、あなたはそれを許すだろうか。プライバシーを守るということは、そういうことをいう。秘密をつくるとかつくらないとかいう次元の話ではない。

 むずかしい話はさておき、子どもの人格を尊重するためにも、子どもの逃げ場は神聖不可侵の場所として大切にする。

●守護霊にならない

 昔、『砂場の守護霊』という言葉があった。今でも、ときどき使われる。子どもたちが砂場で遊んでいるとき、その背後で、守護霊よろしく、子どもたちを見守る親の姿をもじったものだ。

 もちろん幼い子どもは、親の保護が必要である。しかし親は、守護霊になってはいけない。たとえば……。
 子どもどうしが何かトラブルを起こすと、サーッとやってきて、それを制したり、仲裁したりするなど。こういう姿勢が日常化すると、子どもは自立できない子どもになってしまう。できれば、親は親どうしで勝手なことをしたらよい。

 ……と書きつつ、こうした親どうしの世界にも、一定のルールがあるという。たとえば母親たちにも序列があって、その母親たちがすわるベンチの位置、場所も、決まっているという。さらに服装、マナーまで。ある母親がそれを話してくれたが、何とも息苦しい世界に思えた。

 それはともかくも、子どもの世界のことは子どもに任せる。そういうニヒリズムが、子どもを自立させる。

●同居は、出産前に

ずいぶんと前だが、「好かれるおじいちゃん、おばあちゃん」というテーマで、アンケート調査をしてみた。結果わかったことは、(1)子どもの教育に口を出さない、(2)健康であることがわかった。ついでにした調査では、こんなこともわかった。

 「祖父母との同居をどう思うか」という質問だったが、総じてみれば、子どもが生まれる前から同居した例では、「うまくいっている」。しかし子どもが生まれたあと同居した例では、「うまくいっていない」だった。そんなわけで、祖父母と同居するにしても、子どもが生まれる前から同居したほうがよい。

 なお、子どもをはさんでの、嫁と舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)との争いは、この世界ではよくある。相談も多い。そういうときは、別居もしくは離婚が考えられないようであれば、母親(嫁)があきらめて、舅、姑に迎合するのがよい。そして母親は母親で、勝手なことをすればよい。「おばあちゃんたちがいらしてくださるから、本当に助かります」と。

 おじいちゃん子、おばあちゃん子にも、たしかにいろいろ問題はある。あるが、全体としてみれば、マイナーな問題。デメリットよりも、メリットのほうが多い。だから「あきらめる」。もちろんそうでなければ、別居もしくは離婚を考える。しかしこれは、最終手段。

●許して忘れる

 『許して忘れる』の子育て論は、はやし浩司のオリジナルの持論。今では、あちこちで言われるようになった。うれしいことだ。

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もう、10年近く前に書いた原稿を転載します。
中日新聞に掲載済み
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●生きる源流に視点を

 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づき、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りをしていて、息子の一人を助けてくれた。以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。特に二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてたが、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』とよく言った。戦前の教科書に載っていた話らしい。人というのは、上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子どもが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・ため」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さらに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、その真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談をしてきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受けるたびに、私は頭をかかえてしまう。
 

●子育てワンポイノト(2)

2005-11-28 11:50:37 | Weblog
●一喜一憂しない

 子育ての度量の大きさは、(たて)X(横)X(高さ)で決まる。(たて)というのは、その人の住む世界の大きさ。(横)というのは、人間的なハバ。(高さ)というのは、どこまで子どもを許し、忘れるかという、その深さのこと。

 (たて)については、親の住む世界は、大きければ大きいほどよい。大きな目標をもち、多くの人と接する。趣味を多くもち、交際範囲も広くする。
 (横)については、たとえば川のハバにたとえるとよい。人間的なハバの広い親は、一喜一憂しない。そうでない親はそうでない。たとえばとなりの子どもが英語教室へ入ったと知ると、「さあ、たいへん」とばかり、自分の子どもも英語教室へ入れたりする。

 (高さ)というのは、つまるところ、親の愛の深さということになる。どこまで子どもを許し、どこまで子どもを忘れるかで、親の愛の深さは決まる。もちろんだからといって、子どもに好き勝手なことをさせろということではない。要するに、あるがままの子どもを、どこまで受け入れることができるかということ。

●「今」を大切に

 過去なんてものは、どこにもない。未来なんてものも、どこにもない。あるのは、「今」という現実。だからいつまでも過去を引きずるのも、また未来のために、「今」を犠牲にするのも、正しくない。「今」を大切に、「今」という時の中で、最大限、自分のできることを、懸命にがんばる。明日は、その結果として、必ずやってくる。

 だからといって、記憶としての過去を否定するものではない。また何かの目標に向かって努力することを否定するものでもない。しかし大切なのは、「今」という現実の中で、自分を光り輝かせて生きていくこと。たとえば子どもについても、幼稚園教育は小学校へ入学するため、小学校教育は中学校へ入学するために、さらに高校教育は大学へ入学するためにあるのではない。こうした未来のために、いつも現在を犠牲にする生き方をしていると、いつまでたっても、「今」という時を、自分のものにできなくなってしまう。

 それではいけない。子どもは、小学生のときは小学生として、中学生のときは中学生として、精一杯、自分を輝かせて生きる。そこに子どもの生きる価値がある。それともあなたは、今、豊かな老後のために生きているとでもいうのか。しかし、そうは問屋がおろさない。老人に近づけば近づくほど、健康があやしくなる。頭の回転も鈍くなる。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた」と。もしそうなれば、何のための人生だったか、わからなくなってしまう。だから、「今」を大切に。「今」という時のなかで、自分を完全に燃焼させながら生きる。繰りかえすが、明日は、その結果として、必ず、やってくる。

●『休息を求めて疲れる』

 イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。つまり「いつか楽になろう、楽になろうとがんばっているうちに、疲れてしまい、結局は何もできなくなる」ということ。

 私も昔、商社に勤めていたころ、帰りには、大阪の阪急電車に乗っていた。しかしあの電車。長い通路を歩いていると、発車ベルが鳴るしくみになっていた。そこであわてて走り出し、電車に飛び乗るのだが、しかしそうして乗った電車には空席がなかった。で、ある日、私は気がついた。一つだけ、つぎの電車を待てば、座席に座ることができる、と。時間にすれば、たったの一五分である。

 今でも、多くの人は、毎日、毎日、あわてて電車に乗るような生活をしている。早く家に帰って休息したいと思ってそうするが、しかし電車に飛び乗るために、最後のエネルギーを使いはたしてしまう。疲れてしまう。そして何もできなくなってしまう。しかしほんの少し考え方を変えれば、あなたの生活はみちがえるほど、豊かになる。方法は簡単。あなたも一五分だけ、時間をあとにずらせばよい。

●生きる源流を大切に

 「子どもがここに生きている」という源流に視点をおくと、子育てにまつわるあらゆる問題は、解決する。

 私は、三人の息子のうち、あやうく二人の息子を、海でなくしかけたことがある。とくに二男が助かったのは、奇跡中の奇跡だった。だからそのあと、二男に何か問題が起きるたびに、私は「こいつは生きているだけでいい」と思いなおすことで、すべての問題を解決することができた。不登校を繰りかえしたときも、受験勉強を放棄したときも、「いいよ、いいよ、お前は生きているだけで」と。そういうおおらかさが、かえって、二男を伸びやかにし、また一方で、親子のパイプを太くした。

 あなたももし、子育てをしていて、行きづまりを感じたら、この源流から、子どもを見てみるとよい。それですべての問題は解決する。

●モノより思い出

 イギリスの格言に、『子どもには、釣りザオを買ってあげるより、いっしょに魚釣りに行け』というのがある。子どもの心をつかみたかったら、そうする。

 親は、よく、「高価なものを買い与えたから、子どもは感謝しているはず」とか、「子どもがほしいものを買い与えたから、親子のパイプは太くなったはず」と考える。しかしこれはまったくの誤解。あるいは逆効果。子どもは一時的には、親に感謝するかもしれないが、あくまでも一時的。物欲をモノで満たすことになれた子どもは、さらにその物欲をエスカレートさせる。小学生のころは、一〇〇〇円、二〇〇〇円で満足していた子どもも、中学生、高校生になると、一〇万円、二〇万円、さらに大学生ともなると、一〇〇万円、二〇〇万円のものを買い与えないと、満足しなくなる。あなたにそれだけの財力があるなら、話しは別だが、そうでないなら、やめたほうがよい。

 どこかの自動車会社のコマーシャルに、『モノより思い出』というのがあった。それは子育てで、まさに核心をついた言葉ということになる。(ただし、息子に自動車を買ってあげたからといって、パイプが太くなるとはかぎらない。念のため。)

●よき友になる

 よく、「親は子どもの友か、いなか」という議論がなされる。しかしこういう議論、そのものが、ナンセンス。友であって、どうして悪いのか。いけないのか。友でないとするなら、親は、いったい何なのか。

 親には三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを歩く。そして友として、子どもの横を歩く。昔、オーストラリアの友人が教えてくれたことだが、日本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意。しかし横を歩くのが苦手?

 そうでなくても、上下関係のある人間関係からは、良好な人間関係は、生まれない。親子関係も、つきつめれば、人間関係。「親だから……」「親子だから……」「子どもだから……」という、「ダカラ論」で、人間関係をしばってはいけない。

 総じてみれば、子育てじょうずな親というのは、いつも子どもの横を歩いている。子どもも伸びやか。表情も明るい。だから……。あなたも「親だから……」と気負う必要はない。気楽に、子どもといっしょに、もう一度、少年少女期を楽しむつもりで、人生を楽しめばよい。あなたが気負えば気負うほど、あなたも疲れるが、子どもも疲れる。そしてそれが親子の間に、ミゾをつくる。

●先輩をもつ

 あなたの近くに、あなたの子どもより、一~三歳年上の子どもをもつ人がいたら、多少、無理をしてでも、その人と仲よくする。その人に相談することで、あなたのたいていの悩みは、解消する。「無理をしてでも」というのは、「月謝を払うつもりで」ということ。相手にとっては、あまりメリットはないのだから、これは当然といえば、当然。が、それだけではない。あなたの子どもも、その人の子どもの影響を受けて、伸びる。

 子育ては、まさに経験がモノを言う。何かあなたの子どものことで問題が起きたら、相談してみたらよい。たいてい「うちも、こんなことがありましたよ」というような話で、解決する。

● 子どもの先生は、子ども

あなたの近くに、あなたの子どもより一~三歳年上の子どもをもつ人がいたら、その人と仲よくしたらよい。あなたの子どもは、その子どもと遊ぶことにより、すばらしく伸びる。この世界には、『子どもの先生は、子ども』という、大鉄則がある。

 私もときどき、子ども(生徒)を、わざと、数歳年上のクラスに入れて、自習させてみることがある。「好きな勉強をすればいい」というような指導のし方をする。この方法で数か月も自習させると、子どもに勉強グセができる。上の子どもを見習うためである。子ども自身も、同じ仲間という意識で見るため、抵抗がない。また、こと「勉強」ということになると、一、二年、先を見ながら、勉強するということは、それなりに重要である。

●指示は具体的に

 子どもに与える指示は、具体的に。たとえば「あと片づけしなさい」と言っても、子どもには、あまり意味がない。そういうときは、「おもちゃは、一つですよ」と言う。「友だちと仲よくするのですよ」というのも、そうだ。そういうときは、「これを、○○君に渡してね。きっと、○○君は喜ぶわよ」と言う。学校で先生の話をよく聞いてほしいときは、「先生の話をよく聞くのですよ」ではなく、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話してね」と言う。

 昔、側溝(ドブ)で遊ぶ子ども(幼児)がいた。母親が何度叱っても、効果がなかった。そこである日、母親は、トイレの排水が、どこをどう流れて、その下水溝へ流れていくかを、歩きながら説明した。とたん、その子どもは、下水溝で遊ぶのをやめたという。

●友を責めるな(中日新聞発表済み)

 あなたの子どもが、あなたから見て好ましくない友人とつきあい始めたら、あなたはどうするだろうか。しかもその友人から、どうもよくない遊びを覚え始めたとしたら……。こういうときの鉄則はただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』、である。これはイギリスの格言だが、こういうことだ。

 こういうケースで、「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」と子どもに言うのは、子どもに、「友を取るか、親を取るか」の二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよし。しかしそうでなければ、あなたと子どもの間には大きな亀裂が入ることになる。友だちというのは、その子どもにとっては、子どもの人格そのもの。友を捨てろというのは、子どもの人格を否定することに等しい。あなたが友だちを責めれば責めるほど、あなたの子どもは窮地に立たされる。そういう状態に子どもを追い込むことは、たいへんまずい。ではどうするか。

 こういうケースでは、行為を責める。またその範囲でおさめる。「タバコは体に悪い」「夜ふかしすれば、健康によくない」「バイクで夜騒音をたてると、眠れなくて困る人がいる」とか、など。コツは、決して友だちの名前を出さないようにすること。子ども自身に判断させるようにしむける。そしてあとは時を待つ。
 ……と書くだけだと、イギリスの格言の受け売りで終わってしまう。そこで私はもう一歩、この格言を前に進める。そしてこんな格言を作った。『行為を責めて、友をほめろ』と。

 子どもというのは自分を信じてくれる人の前では、よい自分を見せようとする。そういう子どもの性質を利用して、まず相手の友だちをほめる。「あなたの友だちのB君、あの子はユーモアがあっておもしろい子ね」とか。「あなたの友だちのB君って、いい子ね。このプレゼントをもっていってあげてね」とか。そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わる。そしてそれを知った相手の子どもは、あなたの期待にこたえようと、あなたの前ではよい自分を演ずるようになる。つまりあなたは相手の子どもを、あなたの子どもを通して遠隔操作するわけだが、これは子育ての中でも高等技術に属する。ただし一言。

 よく「うちの子は悪くない。友だちが悪いだけだ。友だちに誘われただけだ」と言う親がいる。しかし『類は友を呼ぶ』の諺どおり、こういうケースではまず自分の子どもを疑ってみること。祭で酒を飲んで補導された中学生がいた。親は「誘われただけだ」と泣いて弁解していたが、調べてみると、その子どもが主犯格だった。……というようなケースは、よくある。自分の子どもを疑うのはつらいことだが、「友が悪い」と思ったら、「原因は自分の子ども」と思うこと。だからよけいに、友を責めても意味がない。何でもない格言のようだが、さすが教育先進国イギリス!、と思わせるような、名格言である。

●仕事に誇りを

 あなたが母親なら、子どもの前ではいつも、父親(夫)の仕事をたたえる。ほめる。「あなたのお父さんは、すばらしい仕事をしているのよ」「私は、お父さんを尊敬しているのよ」「お父さんしか、その仕事はできないのよ」と。まちがっても、あなたは父親(夫)の仕事を批判したり、けなしてはいけない。これは家庭教育の、大原則。それが世間一般の基準からしても、だ。(世間一般の基準など、気にしてはいけない。)

 ある母親は、自分の息子に、「お父さんの仕事は汚(きたな)いから、いやね」といつも言っていた。父親の仕事は、井戸掘り職人だった。何かにつけて、家の中が汚(よご)れた。それをその母親は嫌った。また別の母親は、娘に対して、いつもこう言っていた。「あんたのお父さんは、会社の倉庫番よ。ただの倉庫番」と。しかしそういうことを言ったところで、それが何になるのか? 言う必要もないし、言ったところで、マイナスになることはあっても、プラスになることは、何もない。それだけではない。子どもはやがて、父親はもちろんのこと、母親の指示にも、従わなくなる。

 親は親として、自分の仕事に誇りをもち、前向きに生きる。そういう姿勢が、子どもに安心感を与え、子どもを伸ばす。

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これに関連して、中日新聞掲載記事から
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●未来を脅さない

 赤ちゃんがえりという、よく知られた現象が、幼児の世界にある。下の子どもが生まれたことにより、上の子どもが赤ちゃんぽくなる現象をいう。急におもらしを始めたり、ネチネチとしたものの言い方になる、哺乳ビンでミルクをほしがるなど。定期的に発熱症状を訴えることもある。原因は、本能的な嫉妬心による。つまり下の子どもに向けられた愛情や関心をもう一度とり戻そうと、子どもは、赤ちゃんらしいかわいさを演出するわけだが、「本能的」であるため、叱っても意味がない。

 これとよく似た現象が、小学生の高学年にもよく見られる。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえり、である。先日も一人の男児(小五)が、ボロボロになったマンガを、大切そうにカバンの中から取り出して読んでいたので、「何だ?」と声をかけると、こう言った。「どうせダメだと言うんでチョ。ダメだと言うんでチョ」と。

 原因は成長することに恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。この男児のばあいも、日常的に父親にこう脅されていた。「中学校の受験勉強はきびしいぞ。毎日、五、六時間、勉強をしなければならないぞ」「中学校の先生は、こわいぞ。言うことを聞かないと、殴られるぞ」と。こうした脅しが、その子どもの心をゆがめた。

 ふつう上の子どものはげしい受験勉強を見ていると、下の子どもは、その恐怖心からか、おとなになることを拒絶するようになる。実際、小学校の五、六年生児でみると、ほとんどの子どもは、「(勉強がきびしいから)中学生になりたくない」と答える。そしてそれがひどくなると、ここでいうような幼児がえりを起こすようになる。

 話は少しそれるが、こんなこともあった。ある母親が私のところへやってきて、こう言った。「うちの息子(高二)が家業である歯科技工士の道を、どうしても継ぎたがらなくて、困っています」と。それで「どうしたらよいか」と。そこでその高校生に会って話を聞くと、その子どもはこう言った。「あんな歯医者にペコペコする仕事はいやだ。それにうちのおやじは、仕事が終わると、『疲れた、疲れた』と言う」と。そこで私はその母親に、こうアドバイスした。「子どもの前では、家業はすばらしい、楽しいと言いましょう」と。結果的に今、その子どもは歯科技工士をしているので、私のアドバイスは、それなりに効果があったということになる。さて本論。

 子どもの未来を脅してはいけない。「小学校では宿題をしないと、廊下に立たされる」「小学校では一〇、数えるうちに服を着ないと、先生に叱られる」などと、子どもを脅すのはタブー。子どもが一度、未来に不安を感ずるようになると、それがその先、ずっと、子どものものの考え方の基本になる。そして最悪のばあいには、おとなになっても、社会人になることそのものを拒絶するようになる。事実、今、おとなになりきれない成人(?)が急増している。二〇歳をすぎても、幼児マンガをよみふけり、社会に同化できず、家の中に引きこもるなど。要は子どもが幼児のときから、未来を脅さない。この一語に尽きる。

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●子育てポイント集

2005-11-28 11:49:45 | Weblog
●『釣りざおを買ってやるより、いっしょに、釣りに行け』

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どうすれば、子どもの心を
つかむことができるか?

年々、疎遠になっていく
親子関係。そのため、
言いようのないあせりや、
虚しさを感じている人も
多いはず……

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 子どもの幸福をねたむ親は、少なくない。一方、両親の裕福な生活をねたむ子どもも、少なくない。ある父親が、新しいパソコンを買ったとき、それを見て、「おやじは、パソコンばかり買っている」と、怒った子ども(30歳くらい)がいた。そのときその子どもは、結婚していて、自分の子どももいた。

 そこで父親が、「ぼくは、自分で儲けたお金で買うのだから、ぼくの勝手だ」と答えたという。

 これが兄弟、姉妹の間の話になると、さらに複雑になる。遺産問題がからむと、さらに複雑になる。それがこじれて、絶縁関係になってしまう人も少なくない。

 こうして考えてみると、その元凶は、マネー(お金)ということになる。人は、夢や希望、それに目的をなくしたとき、マネーに固執するようになる。モノや財産や、過去の名声や地位に固執するようになる。

 だからそういうもの、とくにマネーについては、できるだけ、サラサラとわかりやすく、つきあうようにしたほうがよい。親子でも兄弟、姉妹でも、そして親類でも。わかりやすく言えば、お金の貸し借りは、なし。財産については、平等に分配すべきものと、最初から、割り切る。もちろんインチキやウソは、タブー。

 どうしても……ということであれば、「あげる」「もらう」という関係が望ましい。私は、生涯において、他人からお金を借りたことは、一度もない。(一度だけ、電話代の10円を借りたことはあるが……。)バス代がないときは、何時間もかけて、歩いて帰った。学生時代には、20日間、下宿の朝食と夕食だけで、生きのびたこともある。

 で、反対に、「貸す」立場になったことは、たびたびある。しかし相手が、10万円を借りにきたときには、5万円をあげる。100万円を借りにきたときには、50万円をあげる。

 つまり相手が申し出た額の半分程度を、「あげる」という形で、すましてきた。そしてあとは、忘れる。まったく忘れる。

 しかしこれだけははっきりと覚えておいたほうがよい。マネーなどというのは、あげても、感謝されるのは、そのときだけ。1年も過ぎて、感謝されるということは、まず、ない。マネーがもつ力は、それほどまでに、弱い。

 が、それでも、マネーが原因で、いくつかの人間関係を破壊してしまったことがある。こちらには、その気がなくても、相手のほうから破壊してくる。マネーで追いつめられた人は、その良心まで、おかしくしてしまう。誠意や誠実さまで、おかしくしてしまう。お金を借りにきた段階で、その人の心は、かなり破壊されているとみてよい。だからよけいに、マネーがもつ力は、弱い。

 なぜか?

 もともとマネーというのは、欲望の化身だからである。マネーがなければ、人は、確実に不幸になる。しかしマネーがあったからといって、その人は幸福にはなれない。へたをすれば、際限のない欲望のウズに、身も心も、巻きこまれてしまう。

 そこで賢明な人は、マネーのもつ力の限界を知り、マネーをいつも自分と切り離して、生きる。私の知人にこんな人がいる。

 オーストラリア人だが、42、3歳くらいまでに、稼ぐだけ稼いだあと、自分の会社を売り払ってしまった。

 そしてそれからもう20年近くになるが、あとはのんびりと、自分のしたいことをして生きている。10年ほど前には、F1のレーシングチームを結成。そのオーナーとなって、世界中を渡り歩いていたこともある。

 そういう人は例外ということになるかもしれないが、生きザマとしては、参考になる。

 そこで子育て論ということになるが、今、高校へ通うにしても、親に感謝しながら学校へ通う高校生は、まず、いない。大学生でも、いない。家父長意識の強い人は、よく息子や娘に向って、こう言う。「だれのおかげで、お前は大学へ行けたのか、わかっているのか」「お前には、学費だけでも、4000万円も使った」「親に感謝しろ」と。しかしそれで納得する、子どもは、まずいない。

 マネーでは、子どもの心をつかむことはできない。が、最近では、学費どころか、息子や娘が社会に出るときの支度金、結婚式の費用から、さらには、新築費用まで、親が出す。が、それだけではない。孫が生まれれば、その費用。さらに孫がおけいこ塾などに通うようになると、その月謝。このあたりでも、七五三の祝いの行事も、親、つまり祖父母が負担するケースが多い。

 親としては、そういう形でも、息子や娘、孫の心をつかみたいと考えるのかもしれない。しかしここにも書いたように、マネーの力は、弱い。弱いだけならまだしも、出せば出すほど、それが当たり前になってしまう。マヒする。ときには、逆効果になることもある。

 だからイギリスの格言は、こう言う。『(子どもの心をつかみたかったら)、釣りざおを買ってやるより、いっしょに、釣りに行け』と。

 けだし、名格言である。


Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

【子育てワンポイント】
 
●質素を旨(むね)とする

 『見せる質素、見せぬぜいたく』という格言を考えた。子どもには、質素な生活は、どんどん見せる。しかしぜいたくは、するとしても、子どものいないところで、また子どもの見えないところでする。子どもというのは、一度、ぜいたくを覚えると、あともどりできない。だから、子どもにはぜいたくを、経験させない。

 質素とケチは、よく誤解される。質素であることイコール、貧乏ということでもない。質素というのは、つつましく生活をすることをいう。身のまわりにあるものを大切に使いながら、ムダをできるだけはぶく。古いカーテンを利用して、枕カバーを作ったり、古いイスを修理して、子どものイスに作りかえたりする、など。そういう「工夫」のある生活をいう。

 人間関係もそうで、冠婚葬祭のような、はでな交際を「ぜいたく」とするなら、近所の人と、ものを分けあって食べるような生活は、「質素」ということになる。要するに、こまやかな心が通いあう生活を、質素な生活という。

●うしろ姿を押し売りしない

 生活のためや、子育てのために苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では、うしろ姿を子どもに見せることを美徳のように考えている人がいるが、これは美徳でも何でもない。子どもというのは、親が見せるつもりはなくても、親のうしろ姿を見てしまうかもしれないが、しかしそれでも、親は親として、子どもの前では、毅然(きぜん)として生きる。そういう前向きの姿が、子どもに安心感を与え、子どもを伸ばす。

 中には、うしろ姿を押し売りするだけでなく、さらに子どもに恩を着せる人がいる。「産んでやった」「育ててやった」「大学を出してやった」と。このタイプの親は、依存心の強い、つまりは自立できない親とみる。子育ての第一目標は、子どもを自立させること。親が自立しないで、どうして子どもが自立できるのか。そういう意味でも、子どもには、親のうしろ姿は、見せない。

●死は厳粛に

 死があるから、生の大切さがわかる。死の恐怖があるから、生きる喜びがわかる。人の死の悲しみがあるから、人が生きていることを喜ぶ。どんな宗教でも、死を教えの柱におく。その反射的効果として、「生」を大切にするためである。

 子どもの教育においても、またそうで、子どもに生きることの大切さを教えたかったら、それがたとえペットの死であっても、死は厳粛にあつかう。もしあなたが、ペットが死んだようなとき、それをゴミのようにあつかえば、あなたの子どもは、生きることそのものも、ゴミのようにあつかうようになるかもしれない。しかしあなたが、その死をいたみ、悲しめば、あなたの子どもは、そういうあなたの姿から、生きることの大切さを学ぶようになるかもしれない。ここで「……しれない」と書くのは、あくまでもそうするかどうかは、子どもの問題ということ。しかし子どもがどう判断するにせよ、その大前提として、子どもの前では、死は厳粛にあつかう。


●情報と思考

2005-11-22 07:59:19 | Weblog

●情報と思考

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情報と思考は、別。
もの知りな子どもイコール、頭がよいということ
にはならない。

たとえば掛け算の九九をペラペラと言ったからと
いって、その子どもは、頭がよい子どもとは言わない。
いわんや、算数ができる子どもとは、言わない。

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 もちろんテレビ番組の影響だが、子どもたちの世界でも、「IQサプリ」「知能サプリ」という言葉が、日常的に使われるようになった。昔でいう、「トンチ」、あるいは「ダジャレ」と考えればよい。いわゆる、脳みその体操のようなものだが、英語でいう、クイズとか、リドルも、それに含まれる。

 かたくなった脳みそを刺激するには、よい。体でいえば、今まで使ったことのない筋肉を動かすようなもの。しかし誤解してはいけないのは、そういうことができるからといって、頭がよいということには、ならない。またそういう問題で訓練をしたからといって、頭がよくなるということでもない。頭のよさは、論理性と分析力によって決まる。もっと言えば、論理性と分析力は、一応、ひらめき思考とは、区別して考える。

 そのことは、子どもの世界を見ていると、よくわかる。

 中に、つぎからつぎへと、パッパッと、言動が変化していく子どもがいる。言うことなすこと、まさに天衣無縫。ひらめきというか、勘がよいから、何かクイズのようなものを出したりすると、その場でスイスイと解いてみせたりする。

 が、そういう子どもが頭がよいかというと、そういうことはない。トンチや、ダジャレがうまい子どもイコール、頭がよいということではない。(もちろん中には、その両者をかね備えた子どももいるが……。)

 むしろ現実には、いわゆる頭のよい子どもというのは、静かで、落ちついている。どっしりとしている。私はよく、『子どもの頭のよさは、目つきを見て判断したらいい』と言う。このタイプの子どもは、目つきが鋭い。何か問題を出しても、食い入るようにそれをじっと見つめる。

 もちろんこのタイプの子どもは、知能サプリ的な問題でも、スイスイと解くことができる。が、その解き方も、論理的。理由を聞くと、ちゃんとした説明が返ってくる。

 で、私も、そういった番組を、ときどき見る。たまたま昨日(11・19)は、こんな問題が出されていた(「IQサプリ」)。

 四角い紙の真中に、小さい文字で、「つ」と書いてある。これを「失格」とするなら、「合格」は、どんな紙に、どう書けばよいか、と。

 四角い紙の真中に「つ」が書いてあるから、「四角の中に、つ」、だから、「し(つ)かく」と。

 この方法で、「合格」を表現しようとすると、五角形の中に、「う」を書けばよいということになる。「五角形の中に、(う)だから、ご(う)かく」と。

 「なるほど」と思いたいが、しかし、これは論理の問題というよりは、まさにダジャレ。こうした問題が、論理性と結びつくためには、そこに法則性がなければならない。が、その法則性は、どこにもない。その法則性がないから、こうした問題には、発展性がない。もちろん実益もない。

 たとえばこうした問題を土台にして、(形)と(最小の文字)で、言葉を表現できるようにすれば、それが論理性ということになる。

 三角と、(あ)で、「錯覚」
 四角と、(い)で、「鹿」
 五角と、(う)で、「誤解」とかなど。(少し苦しいかな……。)

 つまり、ダジャレは、どこまでもダジャレ。が、それよりも恐ろしいと思うのは、こうした意味のないダジャレが、いくら娯楽番組とはいえ、全国津々浦々に、放送されているということ。そのために、日本人の何割かが、くだらないダジャレにつきあい、時間をムダにする。言いかえると、それまでの巨大メディアを使ってまで、こんなことを全国に知らせしめる必要があるのかということ。

 ケバケバしい舞台。チャラチャラした出演者たち。その出演者たちが、意味もなく、ギャーギャーと騒いだり、笑ったりしている。知恵をみがく番組というのなら、それなりに知性を感ずる番組でなければならない。が、おかしなことに、その知性を感じない。

私は、今の今も、多くの子どもたちを見ている。そういう子どもたちと比較しても、この種の番組は、質というか、レベルが、2つも、3つも低い。つまりそれが、こうした番組のもつ限界ということになる。

【補足】

●情報と思考力

 もの知りイコール、賢い人ということにはならない。つまりその人がもつ情報量と、賢さは、必ずしも一致しない。たとえば幼稚園児が、掛け算の九九をペラペラと口にしたからといって、その子どもは、頭のよい子ということにはならない。もちろん算数のできる子ということにはならない。

 しかし長い間、この日本では、もの知りな子どもイコール、優秀な子と考えられてきた。受験勉強の内容そのものが、そうなっていた。一昔前までは、受験勉強といえば、明けても暮れても暗記、暗記また暗記の連続だった。

 さらにそれで勉強がよくできるからといって、人格的にすぐれた人物ということにはならない。もっとわかりやすく言えば、有名大学を出たからとって、人格的にすぐれた人物ということにはならない。

 しかし私が子どものころは、そうではなかった。学級委員と言えば、勉強がよくできる子どもから選ばれたりした。勉強のできない子どもが、まれに学級委員に選ばれたりすると、先生が、その選挙のやりなおしを命じたりしていた。

 話がそれたが、その子どものもつ情報量と、その子どもがもつ思考力とは、関係はない。(もちろん、中には、その両方を兼ね備えている子どももいる。あるいはその両方ともに、欠ける子どももいる。)

 そこでさらに一歩、情報と思考について、考えてみる。

 情報というのは、ただ単なる知識にすぎない。その情報が、思考と結びつくためには、その情報を、選択→加工→連続化しなければならない。最後にその情報を、論理的に組みあわせて、実生活に応用していく。それが思考である。

 これをまとめると、つぎのようになる。

(1) 情報量(情報そのものの量)
(2) 情報の選択力(必要な情報と、そうでない情報の選択)
(3) 情報の加工力(情報を別の情報に加工する力)
(4) 情報の連続性(バラバラになった情報を、たがいに結びつける)
(5) 情報の応用性(情報を、実用的なことに結びつける)

 (1)の情報量をベースとするなら、(2)~(5)が、思考力の分野ということになる。

 言うなれば、「IQサプリ」にせよ、「知能サプリ」にせよ、(1)の段階だけで、停止してしまっている。「だからどうなの?」という部分が、まるでない。ムダだとは思わないが、しかしその繰りかえしだけでは、意味がない。

 以前、こんな原稿を書いた(中日新聞発表済み)。情報と思考のちがいがわかってもらえれば、うれしい。

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知識と思考を区別せよ!

思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』とも。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出しているにすぎない。

もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはならない。算数ができるということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。

中には考えることを他人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

●人間は思考するから人間

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっているとかいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。

ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしているの?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。

●知識と思考は別のもの

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせることが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。

それがムダだとは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、賢い子どもというのは、自分で考える力のある子どもをいう。

いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭のよし悪しも関係ない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。「バカなことをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教育の柱そのものがゆがんでくる。私はそれを心配する。

(付記)

●日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教育」が基本になっている。さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育である。

つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画一的な子どもをつくるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本になっている。

戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていない。日本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界の非常識。ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断のできる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけん」・九八年)と警告している。

●低俗化する夜の番組

 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっているのがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出しているにすぎない。

一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。思考というのは、本文にも書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が痛くなることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのため考えるだけでイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残すという方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。

私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテーニュ(フランスの哲学者、1533~92)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほか、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書くということには、そういう意味も含まれる。
(はやし浩司 情報と思考 考える葦 パスカル パンセ フォレスト・ガンプ)