最前線の育児論byはやし浩司

★子育て最前線でがんばる、お父さん、お母さんのための支援サイト★はやし浩司のエッセー、育児論ほか

●顔のない自分

2006-02-28 23:47:29 | Weblog
●顔のない自分

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だれしも、自分の顔がほしい。
その顔を求めて、自分を模索する。

地位でも名誉でも財産でもよい。
あるいは、自分の過去でも先祖でもよい。

顔があれば、人から無視されることもない。
それなりの人と、認めてもらうことができる。
しかし、もし、自分から、その顔がなくなったら……。

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 非行少年と呼ばれる子どもたちがいる。しかしその非行少年から、「非行」を奪ってしまったら、その少年は、(もちろん少女も)、どうやって生きていけばよいのか。勉強もダメ。運動もダメ。彼らは、非行を繰りかえすことで、自分の顔、つまり存在感をつくっている。

 だからそういう子どもに向かって、「あなたはそんなことをすれば、みなから嫌われるだけだ」と、諭(さと)しても、意味はない。彼らは、嫌われたり、恐れられることによって、自分の顔を保とうとする。

 ……という話は、何度も書いてきた。顔のない子どもは、ここに書いたように、(1)攻撃的になるタイプ、(2)同情を求めるタイプ、(3)依存的になるタイプ、(4)服従的になるタイプなどに分類される。

 実は、おとなもそうで、わかりやすい例で言えば、カルト教団がある。

 ふつうカルト教団の内部では、信者たちは、指導者に対して、徹底した服従を誓う。誓うというより、日ごろの信仰活動を通して、そう教えこまれる。しかしそれは信者にとっては、甘美な世界でもある。徹底した服従と引きかえに、信者たちは、完全な保護を手に入れる。神でも仏でもよいが、そうした絶対的なものに包まれる。

 で、ときどき、ふと、こう思う。あのK国だが、あのK国の国民たちは、飢餓状態にありながらも、結構、心の中は、平安ではないか、と。何でもかんでも、その頂点にいる金xxにすべてを預けることによって、自分自身は、何も考えなくてすむ。仕事をするときも、何かの勉強をするときも、「金xx様のため」と、心に念ずればよい。それで心が、ずっと軽くなる。

 つまり彼らは、「服従という顔」「依存という顔」をもつ。カルト教団の内部の人たちは、本当に仲がよい。信じられないほど、仲がよい。信者どうしが、ときとして、兄弟以上の兄弟、親子以上の親子になることがある。この親密感こそが、カルトの魅力でもある。

 同じように、暴走族のグループを見てみよう。外からの様子はともかくも、内部の仲間たちは、仲がよい。団結力も強い。外の世界以上に、そこには、暖かい温もりもある。彼らは彼らなりに、たがいを守りあうことで、自分の顔をもとうとする。

 そこで、では、私はどうかと考える。私には、顔があるか。あるとするなら、それはどういう顔か、と。

 実のところ、最近、その顔が、どんどんと小さくなっていくのを感ずる。こうして文を、毎日、ヒマを見つけては書いているが、それは同時に、「こんなことをしていて、何になるのだろう」という迷いとの戦いでもある。少し前のことだが、こうメールで書いてきた人がいる。

 「自己満足のためだけに書いて、何になる。君の書いている文章など、学問的には、一片の価値もない」と。

 事実そのとおりだから、反論のしようがない。また反対の立場だったら、私も、そう思っただろう。そういってきた人は、「林君、君のために、あえて言う」と、冒頭に書いていた。私を非難するというよりは、親切心から、そう言った。

 私には、学者としての顔は、ない。まったくない。名誉も地位もない。そればかりか、このところ、知力の衰えを、よく感ずる。「今さら……」というあきらめの念も、生まれてきた。

 そういう私だから、もし今、若ければ、私は、攻撃的な方法で、自分の顔をつくろうとしたかもしれない。はっきり言えば、非行少年たちの心が、手に取るようにわかる。理解できる。

 ここまで書いて、また、あの尾崎豊を思い出した。「♪卒業」という歌を思い出した。つぎの原稿(中日新聞発表済み)は、その「♪卒業」について、書いたものである。

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若者たちが社会に反抗するとき 

●尾崎豊の「卒業」論

学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中でこう歌った。「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えていた」と。「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコースがあり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれを、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。

宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢をもてばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほんの一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえることができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。

●若者たちの声なき反抗

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張しているだけだ。それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。そういう弱者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめなんてできやしなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。

実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけているテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄金を訴える。こういうのを見せつけられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎はそのホコ先を、学校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。もちろん窓ガラスを壊すという行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思いつかなかったのだろう。いや、その前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。

●CDとシングル盤だけで200万枚以上!

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、200万枚を超えた(CBSソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたものも含めると、さらに多くなります」とのこと。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たちの、まさに声なき抗議とみるべきではないのか。

(付記)

●日本は超管理型社会

 最近の中学生たちは、尾崎豊をもうすでに知らない。そこで私はこの歌を説明したあと、中学生たちに「夢」を語ってもらった。私が「君たちの夢は何か」と聞くと、まず一人の中学生(中2女子)がこう言った。「ない」と。

「おとなになってからしたいことはないのか」と聞くと、「それもない」と。「どうして?」と聞くと、「どうせ実現しないから」と。もう1人の中学生(中2男子)は、「それよりもお金がほしい」と言った。そこで私が、「では、今ここに1億円があったとする。それが君のお金になったらどうする?」と聞くと、こう言った。

「毎日、机の上に置いてながめている」と。ほかに5人の中学生がいたが、皆、ほぼ同じ意見だった。今の子どもたちは、自分の将来について、明るい展望をもてなくなっているとみてよい。このことは内閣府の「青少年の生活と意識に関する基本調査」(2001年)でもわかる。

 15~17歳の若者でみたとき、「日本の将来の見とおしが、よくなっている」と答えたのが、41・8%、「悪くなっている」と答えたのが、46・6%だそうだ。

●超の上に「超」がつく管理社会

 日本の社会は、アメリカと比べても、超の上に「超」がつく超管理社会。アメリカのリトルロック(アーカンソー州の州都)という町の近くでタクシーに乗ったときのこと(01年4月)。タクシーにはメーターはついていなかった。料金は乗る前に、運転手と話しあって決める。しかも運転してくれたのは、いつも運転手をしている女性の夫だった。「今日は妻は、ほかの予約で来られないから……」と。

 社会は管理されればされるほど、それを管理する側にとっては便利な世界かもしれないが、一方ですき間をつぶす。そのすき間がなくなった分だけ、息苦しい社会になる。息苦しいだけならまだしも、社会から生きる活力そのものを奪う。尾崎豊の「卒業」は、そういう超管理社会に対する、若者の抗議の歌と考えてよい。

(参考)

●新聞の投書より

 ただ一般世間の人の、生徒の服装に対する目には、まだまだきびしいものがある。中日新聞が、「生徒の服装の乱れ」についてどう思うかという投書コーナーをもうけたところ、一一人の人からいろいろな投書が寄せられていた(二〇〇一年八月静岡県版)。それをまとめると、次のようであった。

女子学生の服装の乱れに猛反発     ……8人
やや理解を示しつつも大反発      ……3人
こうした女子高校生に理解を示した人  ……0人

投書の内容は次のようなものであった。

☆「短いスカート、何か対処法を」……学校の校則はどうなっている? きびしく取り締まってほしい。(65歳主婦)
☆「学校の現状に歯がゆい」……人に迷惑をかけなければ何をしてもよいのか。誠意と愛情をもって、周囲の者が注意すべき。(40歳女性)
☆「同じ立場でもあきれる」……恥ずかしくないかっこうをしなさい。あきれるばかり。(16歳女子高校生)
☆「過激なミニは、健康面でも問題」……思春期の女性に、ふさわしくない。(61歳女性)

●学校教育法の改正

 校内暴力に関して、学校教育法が2001年、次のように改定された(第26条)。
 次のような性行不良行為が繰り返しあり、他の児童の教育に妨げがあると認められるときは、その児童に出席停止を命ずることができる。

一、 他の児童に傷害、心身の苦痛または財産上の損失を与える行為。
二、 職員に傷害または心身の苦痛を与える行為。
三、 施設または設備を損壊する行為。
四、 授業その他の教育活動の実施を妨げる行為、と。

文部科学省による学校管理は、ますますきびしくなりつつある。

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 新聞社への投書の中で、16歳の少女が、「同じ立場でもあきれる。恥ずかしくないかっこうをしなさい。あきれるばかり」と書いている点が、気になる。が、私に言わせれば、こういう優等生のほうに、あきれる。「恥ずかしくないかっこうって何か」と。「まただれに対して、恥ずかしくあってはいけないのか」と。

 顔のある子どもは、その顔を大切にすればよい。幸せな子どもだ。しかし顔のない子どもは、どうやって生きていけばよいのか。

 あえて告白しよう。最近、……といっても、この5、6年のことだが、私はあのホームレスの人たちを見ると、言いようのない親近感を覚える。ときどき話しかけて、冗談を言いあうこともこともある。そのホームレスの人たちというのは、その少女の感覚からすれば、「恥ずかしい部類の人間」ということになる。

 しかしどうしてそういう人たちが、恥ずかしいのか。多分、その投書を書いた少女は、そういうホームレスの人たちを見ると、あきれるのだろう。もしそうなら、どうして、その少女は、あきれるのか。私には、よく理解できない。

 そう、私は、子どもたちを教えながらも、その優等生が、嫌い。ぞっとするほど、大嫌い。以前、こんな原稿も書いたことがある。それを掲載しておく。少し話が脱線するが、許してほしい。

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【世間体】

●世間体で生きる人たち

 世間体を、おかしいほど、気にする人たちがいる。何かにつけて、「世間が……」「世間が……」という。

 子どもの成長過程でも、ある時期、子どもは、家族という束縛、さらには社会という束縛から離れて、自立を求めるようになる。これを「個人化」という。

 世間体を気にする人は、何らかの理由で、その個人化の遅れた人とみてよい。あるいは個人化そのものを、確立することができなかった人とみてよい。

 心理学の世界にも、「コア(核)・アイデンティティ」という言葉がある。わかりやすく言えば、自分らしさ(アイデンティティ)の核(コア)をいう。このコア・アイデンティティをいかに確立するかも、子育ての場では、大きなテーマである。

 個人化イコール、コア・アイデンティティの確立とみてよい。

 その世間体を気にする人は、常に、自分が他人にどう見られているか、どう思われているかを気にする。あるいはどうすれば、他人によい人に見られるか、よい人に思われるかを気にする。

 子どもで言えば、仮面をかぶる。あるいは俗にいう、『ぶりっ子』と呼ばれる子どもが、このタイプの子どもである。他人の視線を気にしたとたん、別人のように行動し始める。

 少し前、ある中学生とこんな議論をしたことがある。私が、「道路を歩いていたら、サイフが落ちているのがわかった。あなたはどうするか?」という質問をしたときのこと。その中学生は、臆面もなく、こう言った。

 「交番へ届けます!」と。

 そこですかさず、私は、その中学生にこう言った。

 「君は、そういうふうに言えば、先生がほめるとでも思ったのか」「先生が喜ぶとでも思ったのか」と。

 そしてつづいて、こう叱った。「サイフを拾ったら、うれしいと思わないのか。そのサイフをほしいと思わないのか」と。

 するとその中学生は、またこう言った。「そんなことをすれば、サイフを落した人が困ります」と。

私「では聞くが、君は、サイフを落して、困ったことがあるのか?」
中学生「ないです」
私「落したこともない君が、どうしてサイフを落して困っている人の気持ちがわかるのか」
中「じゃあ、先生は、そのサイフをどうしろと言うのですか?」
私「ぼくは、そういうふうに、自分を偽って、きれいごとを言うのが、嫌いだ。ほしかったら、ほしいと言えばよい。サイフを、もらってしまうなら、『もらうよ』と言えばよい。その上で、そのサイフをどうすればいいかを、考えればいい。議論も、そこから始まる」と。

 (仮に、その子どもが、「ぼく、もらっちゃうよ」とでも言ってくれれば、そこから議論が始まるということ。「それはいけないよ」とか。私は、それを言った。決して、「もらってしまえ」と言っているのではない。誤解のないように!)

 こうして子どもは、人は、自分を偽ることを覚える。そしてそれがどこかで、他人の目を気にした生きザマをつくる。言うまでもなく、他人の目を気にすればするほど、個人化が遅れる。「私は私」という生き方が、できなくなる。
 
 いろいろな母親がいた。

 「うちは本家です。ですから息子には、それなりの大学へ入ってもらわねば、なりません」

 「近所の人に、『うちの娘は、国立大学へ入ります』と言ってしまった。だからうちの娘には、国立大学へ入ってもらわねば困ります」ほか。

 しかしこれは子どもの問題というより、私たち自身の問題である。

●他人の視線

 だれもいない、山の中で、ゴミを拾って歩いてみよう。私も、ときどきそうしている。

 大きな袋と、カニばさみをもって歩く。そしてゴミ(空き缶や、農薬の入っていたビニール袋など)を拾って、袋に入れる。

 そのとき、遠くから、一台の車がやってきたとする。地元の農家の人が運転する、軽トラックだ。

 そのときのこと。私の心の中で、複雑な心理的変化が起きるのがわかる。

 「私は、いいことをしている。ゴミを拾っている私を見て、農家の人は、私に対して、いい印象をもつにちがいない」と、まず、そう考える。

 しかしそのあとすぐに、「何も、私は、そのために、ゴミを拾っているのではない。かえってわざとらしく思われるのもいやだ」とか、「せっかく、純粋なボランティア精神で、ゴミを集めているのに、何だかじゃまされるみたいでいやだ」とか、思いなおす。

 そして最後に、「だれの目も気にしないで、私は私がすべきことをすればいい」というふうに考えて、自分を納得させる。

 こうした現象は、日常的に経験する。こんなこともあった。

 Nさん(40歳、母親)は、自分の息子(小5)を、虐待していた。そのことを私は、その周囲の人たちから聞いて、知っていた。

 が、ある日のこと。Nさんの息子が、足を骨折して入院した。原因は、どうやら母親の虐待らしい。……ということで、病院へ見舞いに行ってみると、ベッドの横に、その母親が座っていた。

 私は、しばらくNさんと話をしたが、Nさんは、始終、柔和な笑みを欠かさなかった。そればかりか、時折、体を起こして座っている息子の背中を、わざとらしく撫でてみせたり、骨折していない別の足のほうを、マッサージしてみせたりしていた。

 息子のほうは、それをとくに喜ぶといったふうでもなく、無視したように、無表情のままだった。

 Nさんは、明らかに、私の視線を気にして、そうしていたようである。
 
 ……というような例は、多い。このNさんのような話は別にして、だれしも、ある程度は、他人の視線を気にする。気にするのはしかたないことかもしれない。気にしながら、自分であって自分でない行動を、する。

 それが悪いというのではない。他人の視線を感じながら、自分の行動を律するということは、よくある。が、程度というものがある。つまりその程度を超えて、私を見失ってしまってはいけない。

 私も、少し前まで、家の近くのゴミ集めをするとき、いつもどこかで他人の目を気にしていたように思う。しかし今は、できるだけだれもいない日を選んで、ゴミ集めをするようにしている。他人の視線が、わずらわしいからだ。

 たとえばゴミ集めをしていて、だれかが通りかかったりすると、わざと、それをやめてしまう。他人の視線が、やはり、わずらわしいからだ。

 ……と考えてみると、私自身も、結構、他人の視線を気にしている、つまり、世間体を気にしている人間ということがわかる。

●世間体を気にする人たち
 
 世間体を気にする人には、一定の特徴がある。

その中でも、第一の特徴といえば、相対的な幸福観、相対的な価値観である。

 このタイプの人は、「となりの人より、いい生活をしているから、自分は幸福」「となりの人より悪い生活をしているから、自分は不幸」というような考え方をする。

 そのため、他人の幸福をことさらねたんでみたり、反対に、他人の不幸を、ことさら喜んでみせたりする。

 20年ほど前だが、こんなことがあった。

 Gさん(女性、母親)が、私のところにやってきて、こう言った。「Xさんは、かわいそうですね。本当にかわいそうですね。いえね、あのXさんの息子さん(中2)が、今度、万引きをして、補導されてしまったようですよ。私、Xさんが、かわいそうでなりません」と。

 Gさんは、一見、Xさんに同情しながら、その実、何も、同情などしていない。同情したフリをしながら、Xさんの息子が万引きしたのを、みなに、言いふらしていた!

 GさんとXさんは、ライバル関係にあった。が、Gさんは、別れぎわ、私にこう言った。

 「先生、この話は、どうか、内緒にしておいてくださいよ。Xさんが、かわいそうですから。Gさんは、ひとり息子に、すべてをかけているような人ですから……」と。

●作られる世間体

 こうした世間体は、いつごろ、どういう形で作られるのか? それを教えてくれた事件にこういうことがあった。

 ある日のこと。教え子だった、S君(高校3年生)が、私の家に遊びにきて、こう言った。(今まで、この話を何度か書いたことがある。そのときは、アルファベットで、「M大学」「H大学」と、伏せ字にしたが、今回は、あえて実名を書く。)

 S君は、しばらくすると、私にこう聞いた。

 「先生、明治大学と、法政大学、どっちがかっこいいですかね?」と。

私「かっこいいって?」
S「どっちの大学の名前のほうが、かっこいいですかね?」
私「有名……ということか?」
S「そう。結婚式の披露宴でのこともありますからね」と。

 まだ恋人もいないような高校生が、結婚式での見てくれを気にしていた!

私「あのね、そういうふうにして、大学を選ぶのはよくないよ」
S「どうしてですか?」
私「かっこいいとか、よくないとか、そういう問題ではない」
S「でもね、披露宴で、『明治大学を卒業した』というのと、『法政大学を卒業した』というのは、ちがうような気がします。先生なら、どちらが、バリューがあると思いますか」
私「……」と。

 このS君だけではないが、私は、結論として、こうした生きザマは、親から受ける影響が大きいのではないかと思う。

 親、とくに母親が、世間体を気にした生きザマをもっていると、その子どもも、やはり世間体を気にした生きザマを求めるようになる。(あるいはその反動から、かえって世間体を否定するようになるかもしれないが……。)

 生きザマというのは、そういうもので、無意識のまま、親から子へと、代々と引き継がれる。S君の母親は、まさに世間体だけで生きているような人だった。

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 これからますます、「顔」が問題になってくる。それともほとんどの人たちは、老齢になるとともに、その顔を、放棄してしまうのか。これから先、私自身がどう変化していくか、それを静かに観察してみたい。
(はやし浩司 個人化 アイデンティティ コアアイデンティティ コア・アイデンティティ 顔 顔のない子供 ペルソナ 仮面 はやし浩司)



●子どもの自慰

2006-02-28 23:45:54 | Weblog

【子どもの自慰】

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ヤフーやグーグルの検索を使うと、
必要な情報が、瞬時に手に入る。

一方、私のHPでは、どんな言葉を
検索して、私のHPへやってきたかが
わかるしくみになっている。

「はやし浩司」「はやしひろし」などが
圧倒的に多いが、最近、目だつのが、
「子どもの自慰」。

検索エンジンを使って、どこかのだれかが、
「自慰」「子供の自慰」を調べているらしい。

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●自慰

 子どものばあい、慢性的な欲求不満状態がつづいたり、慢性的な緊張感がつづいたりすると、何らかの快感を得ることによって、それを代償的にまぎらわそうとする。代表的なものとして、指しゃぶり、髪いじり、鼻くそほりなどがある。

 毛布やボタンなどが手放せない子どももいる。指先で感ずる快感を得るためである。が、自慰にまさる、快感はない。男児というより、女児に多い。このタイプの女児は、人目を気にすることなく、陰部を、ソファの角に押し当てたり、直接手でいじったりする。

 そこでこういう代償的行為が見られたら、その行為そのものを禁止するのではなく、その奥底に潜む原因、つまり何が、慢性的な欲求不満状態なのか、あるいはなぜ子どもの心が緊張状態にあるかをさぐる。そのほとんどは、愛情不足もしくは、愛情に対する飢餓感とみてよい。

 で、フロイトによれば、人間の行動の原点にある、性欲動という精神的エネルギー(リビドー)は、年齢に応じて、体のある特定の部分に、局在するという。そしてその局在する部分に応じて、(1)口唇期(生後~18か月)、(2)肛門期(1~3歳)、(3)男根期(3~6歳)、(4)潜伏期(6~12歳)、(5)性器期(12歳~思春期)というように、段階的に発達するという。

 が、それぞれの段階に応じて、その精神的エネルギーがじょうずに解消されていかないと、その子ども(おとな)は、それぞれ特有の問題を引きおこすとされる。こうした状態を「固着」という。

 たとえば口唇期で固着を起こし、じょうずに精神的エネルギーを解消できないと、口唇愛的性格、たとえば依存的、服従的、受動的な性格になるとされる。肛門期で固着を起こし、じょうずに精神的エネルギーを解消できないと、肛門愛的性格、たとえば、まじめ、頑固、けち、倹約的といった性格になるとされる(参考、「心理学用語」渋谷昌三ほか)。
 
●代償行為

 男根期の固着と、代償行為としての自慰行為は、どこか似ている。つまり男根期における性的欲望の不完全燃焼が、自慰行為の引き金を引く。そういうふうに、考えられなくもない。少なくとも、その間を分けるのは、むずかしい。

 たとえばたいへん強圧的な過程環境で育った子どもというのは、見た目には、おとなしくなる。まわりの人たちからは、従順で、いい子(?)という評価を受けやすい。(反対に、きわめて反抗的になり、見た感じでも粗雑化する子どもも、いる。よくある例は、上の兄(姉)が、ここでいう、いい子(?)になり、下の弟(妹)が、粗雑化するケース。同じ環境であるにもかかわらず、一見、正反対の子どもになるのは、子ども自身がもつ生命力のちがいによる。強圧的な威圧感にやりこめられてしまった子どもと、それをたくましくはね返した子どものちがいと考えると、わかりやすい。)

 しかしその分だけ、どちらにせよ、コア・アイデンテティの発達が遅れ、個人化が遅れる。わかりやすく言えば、人格の(核)形成が遅れる。教える側からみると、何を考えているかわかりにくい子どもということになる。が、それではすまない。

 子どもというのは、その年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして、成長する。このタイプの子どもは、反抗期にしても、反抗らしい反抗をしないまま、つぎのステップに進んでしまう。

 親によっては、そういう子どもほど、いい子(?)というレッテルを張ってしまう。そしてその返す刀で、反抗的な子どもを、できの悪い子として、排斥してしまう。近所にそういう子どもがいたりすると、「あの子とは遊んではダメ」と、遠ざけてしまう。

 こうした親のもつ子ども観が、その子どもを、ますますひ弱で、軟弱にしてしまう。中には、自分の子どもをそういう子どもにしながら、「うちの息子ほど、できのいい息子はいない」と公言している親さえいた。

 しかし問題は、そのあとにやってくる。何割のかの子どもは、そのまま、生涯にわたって、ひ弱で、軟弱なまま、陰に隠れた人生を送ることになる。しかし大半の子どもは、たまったツケをどっと払うかのように、さまざまな問題を起こすようになる。はげしい反抗となって現れるケースも多い。ふつうの反抗ではない。それこそ、親に対して、包丁を投げつけるような反抗を、繰りかえす。

 親は、「どうしてエ~?」「小さいころは、あんないい子だったのにイ~!」と悲鳴をあげる。しかし子どもの成長としては、むしろそのほうが望ましい。脱ぎ方に問題があるとしても、そういう形で、子どもはカラを脱ごうとする。その時期は、早ければ早いほどよい。

 反抗をしないならしないで、子どもの心は、大きく歪(ひず)む。世間を騒がすような凶悪事件を起こした子どもについて、よく、近所に住む人たちが、「どちらかというと目立たない、静かな、いい子でしたが……」と言うことがある。見た目にはそうかもしれないが、心の奥は、そうではなかったということになる。

●神経症

 話が大きく脱線したが、子ども自慰を考えるときは、こうした大きな視点からものを考える必要がある。多くの親たちは、そうした理解もないまま、娘が自慰らしきことをすると父親が、息子が自慰らしきことをすると母親が、あわてる。心配する。「今から、こんなことに興味があるようでは、この先、どうなる!」「この先が、思いやられる」と。

 しかしその原因は、ここに書いてきたように、もっと別のところにある。幼児のばあい、性的好奇心がその背景にあると考えるのは、まちがい。快感によって、脳内ホルモン(エンケファリン系、エンドルフィン系)の分泌をうながし、脳内に蓄積された緊張感を緩和しようとすると考えるのが正しい。

 おとなでも、緊張感をほぐすため、自慰(オナニーやマスターベーション)をすることがある。

 だからもし子どもにそういう行為が見られたら、その行為そのものを問題にするのではなく、なぜ、その子どもがそういう行為をするのか、その背景をさぐるのがよい。もっとはっきり言えば、子どもの自慰は、神経症、もしくは心身症のひとつとして対処する。

 自慰を禁止したり、抑えこんだりすれば、その歪みは、また別のところに現れる。たとえば指しゃぶりを、きびしく禁止したりすると、チックが始まったり、夜尿症になったりする。そういうケースは、たいへん多い。

 そういう意味でも、『子どもの心は風船玉』と覚えておくとよい、どこかで圧力を加えると、その圧力は、別のところで、べつの歪みとなって現れる。

 子どもの自慰、もしくは自慰的行為については、暖かく無視する。それを強く叱ったりすると、今度は、「性」に対して、歪んだ意識をもつようになることもある。罪悪感や陰湿感をもつこともある。この時期に、一度、そういう歪んだ意識をもつようになると、それを是正すのも、これまたたいへんな作業となる。
(はやし浩司 自慰 子供の自慰 オナニー 神経症 心身症 子どもの自慰)
(はやし浩司 固着 口唇期 肛門期 男根期 子供の心理 心の歪み)

【補足】

 歪んだ性意識がどういうものであるか。恐らく、……というより、日本人のほとんどは、気づいていないのではないか。私自身も、歪んだ性意識をもっている。あなたも、みんな、だ。

 こうした性意識というのは、日本の外から日本人を見てはじめて、それだとわかる。たとえば最近でも、こんなことがあった。

 私の家にホームステイしたオーストラリア人夫婦が、日本のどこかへ旅行をしてきた。その旅先でのこと。どこかの旅館に泊まったらしい。その旅館について、友人の妻たち(2人)は、こう言った。「混浴の風呂に入ってきた」と。
 
 さりげなく、堂々と、そう言う。で、私のほうが驚いて、「へえ、そんなこと、よくできましたね。恥ずかしくありませんでしたか」と聞くと、反対に質問をされてしまった。「ヒロシ、どうして恥ずかしがらねばならないの」と。

 フィンランドでは、男も女も、老いも若きも、サウナ風呂に入るのは、みな、混浴だという。たまたまそのオーストラリア夫婦の娘の1人が、建築学の勉強で、そのフィンランドに留学していた。「娘も、毎日、サウナ風呂を楽しんでいる」と。

 こうした意識というのは、日本に生まれ育った日本人には、想像もつかないものといってもよい。が、反対に、イスラムの国から来た人にとっては、日本の女性たちの服装は、想像もつかないものらしい。とくに、タバコを吸う女性は、想像もつかないらしい。(タバコと性意識とは関係ないが……。)

 タバコを吸っている若い女性を見ると、パキスタン人にせよ、トルコ人にせよ、みな、目を白黒させて驚く。いわんや、肌を露出して歩く女性をや!

 性意識というのは、そういうもの。私たちがもっている性意識というのは、この国の中で、この国の常識として作られたものである。で、その常識が、本当に常識であるかということになると、そのほとんどは、疑ってかかってみてよい。

 だいたいにおいて、男と女が、こうまで区別され、差別される国は、そうはない。今度の女性天皇の問題にしても、そうだ。そうした区別や差別が、世界の常識ではないということ。「伝統」という言葉で、ごまかすことは許されない。まず、日本人の私たちが、それを知るべきではないだろうか。

 こう考えていくと、自慰の問題など、何でもない。指しゃぶりや髪いじりと、どこもちがわない。たまたまいじる場所が、性器という部分であるために、問題となるだけ。……なりやすいだけ。そういうふうに考えて、対処する。
(はやし浩司 自慰 子供の自慰 自慰行為 オナニー)